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読書百遍 其義自見
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幻覚や共感覚と比べるとあまり見ないが、クオリアもタルパを説明するための一要素として利用されることがある。ここで触れてみるのも面白いだろう。



§1 <クオリア>とは何か?

しばしば「<主観的>な体験」と結び付けられる。これはこれで正しいし、確かにこれ以上に日常的な言葉で<クオリア>を上手く説明することは出来そうにない。
実際のところ、<クオリア>は言語化不可能だと言われる。言語化出来た時点でその<主観的>な体験の様相を伝えることが出来るのだから、わざわざこのような概念を持ち出す理由が無い。

例えば、漢字の読み方は<クオリア>だと言えるだろうか?
当然これは言えない。実際に読んでみれば、同じ読み方をしているのかどうかは一目瞭然だ。

それでは「赤色の絵具と青色の絵具を混ぜると紫色になる」という体験は<クオリア>か?
実は、これは<クオリア>ではない!
この結果は意外かもしれないので、説明する必要があるだろう。

ある体験について<クオリア>ではないと言えるのはどのような場合であるか?
これは端的に言えばその体験が「<客観的>になり得る」と言える場合だ。<客観的>ならば自分の体験と他者の体験とを比較できるだろうから、違っている場合にはそれを把握することが出来る。
つまり「ある体験について違っているものを違っていると把握できること」が「ある体験が<クオリア>ではない」ことの要件である。

逆に、それが出来なければその体験は<クオリア>だと言える。
この問いについて言えば、「赤色」「青色」「紫色」はそれぞれ<クオリア>である。

実際、他者にとって「赤と青」に見えているものが自分にとっては反転して「青と赤」に見えているとしても、全く無問題だ。
他者にとって「赤色」であるものが自分にとっては「青色」として体験されるので、同様に他者にとって「赤色」に関連する概念が自分にとっては「青色」に関連する概念として現れてくる。
そのとき、「赤+青=紫」という関係性は変わらない。
他の絵具の足し合わせについて考えても、例えば他者にとっては「赤+黄=橙」であるものが自分にとっては「青+黄=橙」として体験されるだけで、赤色と青色に関する概念全てが置き換わる限り一切矛盾しないのである。

それでは、絵具の混ぜ合わせについての関係である「赤+青=紫」そのものは<クオリア>ではないとはどういうことか?
分かりやすくするために、これら全てが確かに異なる色を表していると仮定して、さらに異なる色である「緑」を追加して考える。
この異なる色という体験が<クオリア>ではないことは容易に確認できる。

他者にとって「赤+青=紫」であるものが自分にとっては「赤+青=緑」として体験されると仮定しよう。ここで予め、他者と自分とはそれぞれ「紫色」と「緑色」という概念で表される色が何であるかは知っているとする。
そして他者は「紫色」のサンプルを、自分は「緑色」のサンプルを、それぞれ相手に分からないように用意しておく。
一方で、他者と自分とに見えるように、「赤色」と「青色」のサンプルを用意する。
まだこの時点では、最初の問いは<クオリア>だと言える。

ここで他者と自分の目の前で、共有されている「赤色」と「青色」のサンプルを混ぜ合わせてみよう。
それがどのような結果を生むにせよ、必ず単一の色を示すことになる。
その単一の色とは、他者にとっては「紫色」に一致しているはずで、自分にとっては「緑色」に一致しているはずだと言える。
しかし仮定より、実際に正しいのはこのどちらか片方だけだ。

この「正しい」とは、<クオリア>の問題によらずに示すことが出来る。
予め用意しておいた「紫色」や「緑色」のサンプルと比較すれば良いからだ。どちらかがサンプルと一致していて、そうでない方が誤りだと結論できる。
従って、「赤色の絵具と青色の絵具を混ぜると紫色になる」という体験は<クオリア>ではないことが示される。
個々の色は<クオリア>であって、実際には全く異なる色に見えていたとしても、だ。

後の考察のために、あと少し考えてみよう。
「赤色と橙色は似ている」という体験は<クオリア>である。
「似ている」という体験は「似た概念を呼び起こす」ことによって保証されているから、個々の色が別の色に入れ替わったとしても、それの呼び起こす概念は一切変わらない。

少し趣を変えて、足し算の規定された数について考えるとどうだろうか?この考察は実に面白い結果をもたらす。
「1+2=3」という体験は<クオリア>だろうか?
これは「1に2を足すと3になる」という表現に置き換えられると考えると、絵具の混ぜ合わせの問いと同じ形式だ。
従って、この問い自体はやはり<クオリア>ではない。

では個々の数字は<クオリア>だろうか?
例えば他者にとって「1」であるものが自分にとって「6」として体験されることはあるだろうか?
...あり得るわけがない!

この問いと絵具の混ぜ合わせの問いで異なるのは、「足し算の規定された」という条件が余計についていることだ。
実はこの条件が無いと、「1」が「6」として体験される可能性を否定することは出来ないので、個々の数字は<クオリア>だと言えたのだ。

足し算が規定されているということは、「1」という数字は「2を足すことで3になること」によって規定されることを意味するので、「1」が「6」として体験されることはあり得ない。
従って、足し算の規定された個々の数字それぞれは<クオリア>ではない。



§2 「クオリア」とは何か?

以上の考察によって、<クオリア>がどのように振る舞うのかが少しばかり明らかになっただろう。
機械論的に<クオリア>を<理解>するには以上の考察と、これまでの機械論の成果とを合わせれば十分だ。

先のいくつかの問いから、どのようなものが<クオリア>ではないと言えるか。
それは最後の問いがほとんど明らかにしているのだが、その前にまず絵具の問いについて考えてみる。

この場合では、個々の色は<クオリア>であると言えたが、絵具の混ぜ合わせについては<クオリア>ではないのだった。
一方で、2つの色が似ていることについては<クオリア>であった。

個々の色は「色」という空間上で特定の位置を占めている情報である。
これを混ぜ合わせて別の色を作るということは、「色の空間」内で「異なる2つの色と別の色」とを関連付けている。
...これはまさに作用のことではないだろうか?
軸r上の作用 := { (X,Y) | X,Y ⊂ ∏r }

作用そのものは単なる対応であるが、始域に任意の部分集合を取れることを考えると、「色を混ぜ合わせて別の色を作る」という関係を作用として考えることが出来る。

色そのものは情報だと考えられるから、要するに情報のわずかな変化についての<体験>はクオリアであって、作用のわずかな変化についての<体験>はクオリアではないと言い換えられる。
この言い換えによって、少なからずクオリアについての個別的な定義を述べたことになる。
この定義には前機械論的な概念である<体験>が含まれているから、次にこれを<理解>せねばならない。

しかし、これは今までやってきたような方法では<理解>出来ない。ちょっと特殊な概念なのだ。

それは情報や作用という異なる概念についても全く同じように適用できた。よく考えれば、任意の副体的な(=機械論的な)概念に適用可能だということが分かる。
「作用がクオリアかどうか?」という問いと同様にして「確率性はクオリアかどうか?」とも問えるからだ。

情報や作用など全ての副体的な概念は、取り得るあらゆる状態について定義しているだけであって、実際にその情報が実在するかどうかということとは無関係だ。実はこのことは『タルパ機械論における一般的な概念の発展(第一部)』の§1.2でちょっとだけ触れていた。
要するに、作用はその定義としてはあらゆる状態について言っているものの、実際に作用の適用の対象となるのは実在している情報なのである。

これは他のあらゆる副体的な概念について言えている。
連続性には情報全体が単一の意味を持つという定義が含まれているが、実在する情報はその一部なのであって、それが定義された連続性に従っているだけなのだ。

このようにして、既に存在する情報やそれが持つ連続性や複雑性などの個別的な概念などから別の副体的な概念が導出されることが「体験する」の一般的な定義だと言える。

ところで、ある概念が体験されるには別の概念が既に体験されていなければならない。
こういう言い方をすると体験は実体的な(=前機械論的な)概念なのではないかという推測がなされるわけだが、体験するためにはその概念が<理解>されていなければならないことを考えると、あくまでも体験は副体的な概念なのである。

例えば感覚は受容によって情報を得ているが、そのためには周囲の環境が干渉元の副体として体験されている必要がある。(そのような副体が既に<理解>されているにせよ)
副体が情報を持つことについては体験以外にも<態度>によって規定される場合があり、<態度>の問題に帰することが出来れば、体験はそれを根拠に発する副体的な概念だと言えるだろう。

では、その周囲の環境の持つ情報は何によって体験されているだろうか?
そう考えたときに、これはその情報自身によって体験されているとしか言えなくなる。
既に存在する情報が次の瞬間に消えてしまったりしないように、結局それは<態度>によって規定されているのだ。

この考察において、2つの<実体>があることに注目できる。
一方は感覚の副体を<理解>したところの<実体>であり、もう一方は周囲の環境を<理解>したところの<実体>だ。
だから情報が周囲の環境から感覚に受容される前と後では、異なる<実体>の規定に従うことになる。
このように単一の副体を異なる<実体>が<理解>するような現象については、また別の機会に詳しく考察しようと思う。というのも、クオリアについてはこの現象は特に問題にならないからだ。

体験の考察によって「クオリア」もまた副体的な概念であることが分かった。
これは少し意外な結論だろう。しかしここでは<クオリア>を理論に合うように都合よく解釈したのではなく、その性質の全てを語ることに成功している。



§3 解釈

クオリアの一般化

先の考察では情報と作用についてクオリアの個別的な定義を述べた。
しかし、ここではクオリアとしては体験が保存されることが主要な意義なのであって、より一般的な定義に拡張しておく必要がある。

副体的な概念が集合によって記述されることを考えると、任意の異なる2つの集合について同様の概念が体験される場合に、その概念にとって異なる2つの集合にクオリアが見出されるということになる。ただ、これはすぐ後で触れるようにクオリアそのものの定義ではない。
ある概念を元に別の概念が体験されることは形式的には対応として与えられるので、非常に一般的にではあるが次のように表現できることが分かる。
任意の集合Aについての任意の異なる部分集合X,Yについて、対応f:A→Bによるそれぞれの像f(X)とf(Y)が等しいとき、X,Yにはクオリアが見出される。
ただしf(X)は次のように定められるBの部分集合である。

{ b∈B | ∃x∈X( (x,b)∈f ) }

以上の考察より、クオリアそのものの文脈的な意義も明らかになっただろう。
クオリアとは、ある同一の体験をもたらすような異なる概念の集合系Aについて、その体験が生じる概念Bから見たAの性質を指す言葉である。
このとき集合系Aの個々の要素は、それぞれが全く異なる概念であることがあり得る。
即ち、クオリアは最も一般的に言えば、副体的な概念の構造によらずに定義されるのである。

「実在」をもとにしたクオリアの明確な意義

「体験する」という言葉は任意の副体的な概念に使うことが出来るのだが、それらは場合によっては異なる<実体>による規定に従うことがあるようだ。
しかし体験することの対象は副体的な概念であって、さらにその実在を前提としたものであるから、体験された概念はもはや<実体>とは無関係に振る舞うのである。
これは体験を土台に定義されたクオリアも同様で、実在が前提である以上<実体>とは無関係である。

ということは、先に定義したクオリアの一般的な概念も、結局はそれぞれの概念が実在である場合にのみ意味を持つことになる。
だが先の定義では体験の始域である概念X,Yは全く無差別に選ぶことが出来て、それぞれが実在であることを全く保証しない。
クオリアをその定義によって実在を保証するにはどうすれば良いだろうか。

ある1つの実在する概念を仮定するのは問題ないが、複数の実在を仮定するのが問題なのである。
それならば、始域をある単一の実在を元に構成すれば良いことがわかる。
いや、それどころか、その場合は単一の実在が始域そのものであると言っていいだろうし、更に特殊な場合にはその実在を定義する概念が始域だと言えるだろう。

単一の実在を元にして体験の始域を構成するとはどういうことだろうか?
これには一つの仮定を必要とする。即ち、その実在に<変化>を論じられることである。
<変化>という考え方が出来れば、元の実在が<変化>しても体験される概念が変わらないという意味でクオリアを定めることができるようになる。

このような<変化>は副体的な概念について考えられるのだろうが、まさにこれを象徴する連続性という概念があるではないか!
連続性はその意味を変化させない範囲でなら、任意に情報の変化を論じることができる。
ということは、体験の始域としての概念が連続性を持つならば、常にその実在が保証された形でクオリアを論じることができるのだ。

結局、これは<クオリア>が通常は感覚に関する文脈に現れることと矛盾しないどころか、却ってそれに根拠を与える結果となった。
必然的にクオリアについての個別的な考察は、物理系や感覚系がその対象となるのである。

クオリア的性質を持つ実在はどのようにして現れるのか?

クオリア的性質を持つ実在というのは、即ち感覚基盤副体の情報のことだ。
何故この問いを問わねばならないかと言うと、感覚基盤副体の情報はあってもなくても全く問題ないからだ。

よく考えてみよう。
感覚基盤副体というのは、その連続性の定める意味によって感覚系全体の複雑性の基礎になっているだけであって、そこに実際に情報が定められている必要性はない。
連続性は情報とは独立に定め得るのだから、感覚基盤副体に情報が無くても、言い換えればクオリアが存在しなくても感覚系は<感覚>としての役割を完全に果たすことが出来るのだ!

何故クオリアというものが存在するのだろうか?あるいは、存在すると信じられるのだろうか?
もはやその理由を副体的な概念に帰することは全く不可能であると分かったから、必然的に<態度>にその理由を求める必要が出てくる。

そこで「どのような<態度>がクオリアを<理解>しようとするのか?」という問いが最初に現れてくる。
ここでの「クオリア」というのは当然ながら感覚基盤副体の情報のことだ。

ところでクオリアが問題になるのは、それに該当する概念が<理解>されていないのが原因なのであるが、<理解>するためには何らかの<対象物>が先行していなければならない。
そのような<対象物>が実際に「ある」かどうかはここでは分からない。
だが<選択的機序>におけるように、任意に都合のいい副体的な概念を持ち出しても矛盾は生じないことを考えれば、<対象物>が実際にあるかどうかは<理解>そのものにとっては大した問題ではないと言える。

この考察によって、ある副体上の概念がその様相として成立している理由を求めるとき、その様相を定め得るような概念が<理解>されると言える。
この一つがクオリアだと解釈できるだろう。
一つというのも、この過程で<理解>される概念は感覚基盤副体の情報だけにとどまらないからだ。

必然的に、このような<理解>をする<実体>は<能動性>を持つ。これは『機械論における「受動」と「能動」』の§3にあるとおりだ。
そこで「能動性とは特定の副体によって支持される概念」だと書かれたが、この場合はまさに感覚基盤副体が該当する。
言い換えれば、この場合の<能動性>は感覚基盤副体についての<能動性>だという言い方が出来るだろう。

逆に<能動性>という観点から見て、クオリアとはどんな概念なのだろうか?
<能動性>とは<態度>の変更によって副体的な概念の<理解>を変更しようとするような<実体>の性質だ。
なぜ<理解>を変更しようとするのか?
それは今ある副体的な概念に、何かしら不満があるからだ。

例えばある軸について、対称性を持ち込むことで理論を上手く整理できる場合、むしろその対称性を<態度>によって仮定してしまえれば都合がいい。そのような仮定を持ち込む妥当な根拠さえあればいいのだ。
これは普遍的に、理論をより洗練させるという活動は、機械論的には全て<能動性>によって説明されると言える。

では何故<能動性>を持つ<実体>がクオリアというものを<理解>しようとしているのか?
それはクオリアが存在していれば上手く説明できるような、感覚に関する概念があるからだと言えるだろう。

ここではクオリアとは感覚基盤副体の情報のことを言っているのだった。
つまりクオリアが存在しているということは、クオリアは実在を前提とする概念であるから、その情報が実在していることと同義だ。

以上の考察によって、<能動性>を持つ<実体>がクオリアを<理解>する理由が明らかになった。
感覚は他の副体からの干渉によって情報を得ているので、感覚自身だけではその情報の実在を論じることが出来ない。
しかし、もしクオリアというものが存在すれば、言い換えれば感覚基盤副体の情報が存在すれば、感覚のみによって情報の実在を論じられるようになる。

<感覚>というものが現に実在していると信じるための普遍的で妥当な方法が、クオリアを仮定するということだったのだ。



§4 クオリアの利用

§3での結論のとおり、感覚系であれば基本的にはクオリアを見出すことが出来る。
ところで連続性が定義されていれば、全体的な連続性に対応する意味はただ一つしか存在しないから、『幻覚・共感覚の定義と代数的表現の可能性について』の§3で考察したような全体的な連続性を保つ干渉を任意に構成することが出来る。
これは共感覚の文脈では意味を持たないのだったが、クオリアの応用を考えるには都合のいい概念だ。

クオリアが存在するような2つの感覚系の間には、自明な干渉が存在する。感覚基盤副体の全体的な連続性を保つ干渉は1通りしか存在し得ない。それぞれの持つ意味を対応させるしかないからだ。
ただこの場合、感覚系全体としての複雑性の様相は全く保たれないと言っていい。より複雑な副体が連続性を持っているとは限らないからだ。
複雑性の様相を保つには、その根源である感覚基盤副体の連続性の様相を保たねばならない。

ここでもし意図的にクオリアを作り出すことで、より具体的な連続性の様相を保つようにすることが出来たら、<態度>によって任意に感覚間の干渉を考えられるようになるだろう。
そんなことが可能だろうか?
連続性の単純で具体的な様相の1つとして、全順序に従う連続性について考えてみよう。

連続性そのものは全順序とは関係ないから、全順序の定義に従うような連続性の様相の定義にはいくつかあるだろうが、この連続性の様相が保たれる具体的な状況は割と簡単に与えられる。
形式的には、<感覚>的な情報を数値に置き換えたものは全て該当するからだ。

そのような特殊な状況を持ち出さなくても、もっと日常的な例えもある。
色には輝度の概念があるが、そこで色相を固定すれば、色から輝度への変換はその順序を保つことが分かる。

このように、ある程度単純なクオリアであれば任意に構成することが出来る。こうして新たに発生する、感覚基盤副体から他の副体への部分的な連続性を保つ干渉は、感覚系について補助的な役割を果たすことになる。

代数的には、感覚基盤副体が本来持っている連続性からクオリアの構造によって見出される連続性への準同型写像があって、後者の連続性を保つ干渉がそのような役割を担っているのだ。

注目すべきところは、この干渉をクオリアの任意な定め方によって見出すことが出来るということだ。

以上の考察から俗的な結論を引き出すとすれば、クオリアを定める目的とは、感覚に補助的な役割を持たせることだと言える。
無論この補助的な役割とは、認知や認識の過程で作られる情報のことではない。それらとは全く別の過程で、感覚から情報を得ることである。
また、幻覚や共感覚とも異なる。意義としては共感覚における情報に似ているが、複雑性を持つ必要が無い。
ただある程度連続性の具体的な様相が保たれれば、複雑性の様相もまたある程度保たれると言えるから、共感覚より連続性に関する弱い制約を持つ感覚についての情報だと表現できる。

逆に、このような補助的な役割が他人と共通であると信じる根拠としてクオリアを定めるという行動を取るのだとも言える。
これで§3の「どのような<態度>がクオリアを<理解>しようとするのか?」という問いへの最終的な答えを得ただろう。
クオリアが存在していれば上手く説明できるような感覚に関する概念とは、まさにこの補助的な役割のことを言っていたのだ。

その観点から、最後に一つ喩え話を挙げてみよう。

色にエネルギーを対応させるとしたら、色に対してどのようなクオリアの定め方があるだろうか?
可視光線が電磁波であることから類推して、色のスペクトルと対応させる方法があるだろう。
しかし、これは直感的な方法ではないように思う。

僕の場合は、赤→橙→黄→白の順にエネルギーの小→大を対応させるような連続性を持つクオリアが一番当てはまっている。
これは鉄を熱したときの色の変化や、恒星の温度による色の変化に見られる。共通するのは「温度」という概念と結びついていることだ。

エネルギーに色を対応させるという発想はかなり実用的で、色に象徴されるような概念に対してエネルギーを割り当てることが出来る。
これをさらに応用して独自に発明した思考の制御法が、ほぼ実用化の段階に至っている。

この話に共感できる方は、おそらく僕と同じような形式のクオリアを持っているのだろう。
もちろん、その形式に表される連続性が保たれる範囲で、個々の色が全く違う可能性が残っているにせよ。
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