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読書百遍 其義自見
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本来はタルパの創造の考察を進めるつもりだったが、その前に明らかにしておきたいことが二三ある。

タルパ治療学から密かに受け継がれた「タルパ理論思想」はどこまで正しいのか?それはどんな意味を持つのか?
ここで思想と理論の橋を架けておきたいのだ。



§1 <実体>の必要性の証明
結局実体が存在するにせよ、存在しないにせよ、存在するように見えるものは副体だけなのだから、実体とは副体の定義から見出されるものと定義したい思惑が最初からあったのだ。

タルパ治療学における実体の解釈のその後
<実体>の解釈は二転三転したが、副体と<実体>をそれぞれ集合と圏として定めることで解決を見た。
まず、これはどういうことだろうか?
どちらか一つだけで...つまり副体だけでタルパの理論を形作ることは可能だろうか?
残念ながら、それは不可能だ。

素朴集合論のパラドックスを解決した公理的集合論による集合の定義に従えば、副体は任意の命題関数Pと変数x0,x1,...とを用いてP(x0,x1,...)が成り立つもの全体として定義される。
これが集合であるからには、任意の要素について「それが集合に属するか属さないか」が明確となるはずだ。
集合を定める命題関数が無限個の変数を持つ場合は、その判断を確かに下すことが出来ないから、変数は有限個でなければならない
言い換えれば、集合を定める命題関数は高々有限個の変数によって表現されていなければならないのである。

ここで、タルパのあり方が人それぞれであることを認める場合を考えてみよう。
その理論が副体のみで、即ち集合のみによって構成されると仮定する。

集合のみで構成されるのだから、タルパは集合によって厳密に表現される。つまり命題関数と有限個の変数とで表現し尽くされているはずだ。
しかしタルパのあり方が人それぞれであることを認めると、この定義に当てはまらないタルパは必ず存在することになるが、これは矛盾している。
従って、タルパのあり方が人それぞれであることを認めるならば、タルパを集合のみによって表現することは不可能であると結論せねばならない。

こうして、集合として定められる副体だけではタルパの理論は成り立たないことが示される。



§1.1 <実体>とは何か?

圏としての<実体>

先の仮定の上でタルパの理論を成り立たせるためには、その理論自身が副体からは帰結できない要素を内包する必要がある。
そのような要素をとりあえず<実体>と呼ぶことにして、<実体>はどんな性質を持つだろうか?

<実体>はその由来からして、タルパに関するあらゆる可能な解釈、即ち可能な命題関数全体から成るのだから、その個々の部分に目を向ければ副体として振る舞うのは間違いない。
だから<実体>から任意の副体を取り出したとき、それらの関係は副体が定める関係そのものだと考えられる。
副体間の関係を適切に定めれば、その集まりである<実体>をとして定めることが出来るだろう。

純粋にタルパのあり方が人それぞれであるという事実から導かれた論理構造を数学上の概念を使って表すことには批判があるかもしれない。
しかし厳密に言えば、<実体>は圏でなければならないのではない。圏として記述できるから、これを利用しようという試みなのである。
タルパ機械論は、タルパが人それぞれであることを認める理論として凡そ標準的なモデルの形成に挑戦しているという立ち位置なのだ。

<実体圏>の同義的表現

このように形作られる<実体圏>という概念それ自体は非常に味気ないものであるため、タルパ機械論ではいくつかの用語を与えている。
それが<機序><目的><態度>に当たる。これらの概念は結局のところ<実体>を構成する契機となるものだ。
それぞれ、<機序>は理論を定める「方法・手法」、<目的>は理論を使用する「目的」、<態度>は理論を使用する際の「態度」のことである。

いずれも理論によって既に定められた概念からは一般に帰結不可能であり、即ち<実体>なのである。
例えば「1+1=2」という事実は抽象代数における体の公理に由来するが、このような理論的事実のみによって「まだ理論に取り入れられていない対象物を体論によって記述する方法」を考えることは出来ないどころか、それが可能であるかどうかすら確認出来ない。
それらの概念は、副体から見れば「外側にある何か」と表現するしかないのだ。



§1.2 副体による「定義」、<実体>による<理解>

<理解>というタルパ機械論用語は、ある<実体>が副体(副体的な概念)を「見出す」ことだと定められている。同じことであるが、<実体>が<対象物>を「差し向ける」ことだとも表現できる。
一方で、既に<理解>された副体から別の副体を作るような理論的な操作も可能である。

2つの文脈はどちらも副体を見出すということを意味しているが、前者は<実体>が、後者は「副体」がその主語となっている。
この違いは何を意味するのだろうか?

通常の考え方によれば、これはどちらも「定義」という概念を示しているように見える。
ある副体Bが別の副体Aから作られたのであれば「AはBを定義している」と言える。一方で副体Cが実体Vから<理解>されたのであれば「VはCを定義している」と言えるだろう。
しかし、この2つの文脈における「定義」という概念は、主語の違いによって決定的な差異を生んでいる。

「副体」による「定義」

副体による「定義」では一般に、一方が他方を内包しているという関係に帰することが出来る。それは副体そのものが集合として公理化されていることから分かる。
ある副体が別の副体を「定義する」とは、前者と後者が包含関係にあるか、帰属関係にあるかのどちらかであることを意味する。
ただし、定義される側が常に含まれる側(属する側)であるとは限らない。これは文脈によって異なる。

例えば「軸が情報を定義する」というときは情報が軸に属していて、「副体が干渉場を定義する」というときは干渉場が副体に含まれる。
これは逆に言うことも出来て、「情報が軸を定義する」とか「干渉場が副体を定義する」という言明も当然あり得る。
この言い換えが可能であるかどうかは個別的な場合に決定されるのであって、一般的な場合では問題にならない。

従って「副体」を主語とする「定義する」が意味するのは、まさに一方が他方を内包しているということなのだ。
このとき内包する側の様相が定まれば、内包される側の様相も同時に定まる。
上の例で言えば、干渉場の持つ軸が定まれば、それを「定義する」と言えるような副体は干渉場の持つ軸全てを持つ場合に限られる。

このような性質――強いて用語を与えるとすれば同時性とでも言えるような性質は、副体による「定義」を特徴づける性質であり、<実体>による「定義」との本質的な区別を与える

<実体>による「定義」

では、<実体>による「定義する」とは何を意味するだろうか?

<実体>の表現である<実体圏>は個々の部分を見れば副体なのだから、副体の場合と同じことが言えそうだが、次の事実に注意して考えると、決してそのような言い方が出来ないことが分かる。
<実体>はあらゆる可能な副体による<実体圏>として定められるが、そのような個々の副体が実際に存在している必要は全く無いのである。
だから、ある<実体>が見出されるからと言って、あらゆる可能な副体が即座に定義されることにはならないのだ。

例えば<機序>の一つに因果的に可能な副体全てによって成り立つ<因果的機序>があるが、これはそのような副体が現に存在していることを必要としない。
もしそうだとすれば、ある人が石を投げた瞬間に「地面に落ちる」とか「窓に当たって割れる」とか「車道に落ちて事故を引き起こす」と言った因果的に可能なことが全て同時に起きねばならないことになるが、そんなことはあり得ない。実際に起こるのは、その極めて限られた一部分でしかない。
だが<因果的機序>自体はそのような可能な副体全てによって成り立っているのである。

ということは、ある<因果的機序>による<実体>が定めた副体とは別に、まだ定められていない副体というのも考えることが出来ることになる。
<実体>が見出されたからと言って、それによって可能な副体が同時に定められるとは言えないのだ。
即ち<実体>による「定義」には、先に挙げた同時性は成り立たないということになる。

ただし、まだ定められていない副体についても、後から定められる可能性は当然ある。
そのことを考えると、<実体>による「定義」には言わば時間性があると言えるだろう。
この性質に「時間性」という言葉を当てたのは他意が無いわけでもないが、ここでは単なる仮の言葉ということにしておく。

このような差異があるからこそ<実体>が副体を見出すことには「定義」ではなく<理解>という用語を当てているのである。
「定義」だと、<実体>によって可能な副体が全て定義されている、即ち既に存在しているという感じを受けてしまう。
これに「理解」という別の言葉を当てることで、まだ見出されていない――理解されていない副体があり得るといったニュアンスを与えているのだ。

一方で、<理解>と「定義」のそれぞれに対応するような日常的な現象については混同されやすい。
いわば副体と<実体>の差異を越えて同一視されているのであるが、これが「定義」という言葉の解釈についての難しさを与えているのだ。



§1.3 人それぞれ論を認めないタルパ理論の可能性

ここまでは<実体>という概念が必要だという前提で話を進めてきた。
それはタルパのあり方が人それぞれであるという事実から導かれたのであった。

それならば、もしこの事実を認めないとすれば、<実体>に当たる概念が不要な理論を作ることが出来るのだろうか?
これは、その通りなのである。
タルパという概念に十分な定義を与えれば、<実体>は不要となる。

十分な定義とは何だろうか?
<実体>はタルパはある命題関数と有限の変数とで表現されることの否定によって与えられたのだから、逆にこの条件を満たすような定義であればよい。
つまり、1つの命題関数と有限個の変数とで表現できるような定義であれば、それによって定められるタルパと解釈されるものの集まりは、タルパとして定められる存在全体を意味しながらも単一の集合として成り立つのだ。
後はその集合に加えられる適当な個別的概念を考察すれば、あらゆるタルパに普遍的な性質や関係を論じることが出来るだろう。

言うまでもないが、この条件は非常に厳しい。
例えば、「タルパはチベット仏教由来の概念である」と主張しても、それは現にあるタルパそのものについて何かを定義したことにはならない。それは由来のことを言っているだけで、タルパそのものについては何も言っていないのである。
あるいはもっと身近に「創造型である」という言明を採用しても、これは十分な定義ではないだろう。「何をもって創造とするか?」という疑問自体を解決しなければ、結局最初の議論と同様にして「創造」という概念について<実体>が必要になってしまう。

この例から分かるように、十分な定義を与えるためには解釈の余地を残さないようにせねばならない。
解釈の自由と<実体>の排除は本質的に相容れないのである。
現代タルパのような本来的に解釈の自由が与えられているような対象を論じるには、<実体>を導入することがどうしても不可欠なのだ。



§2 軸は「存在する」のか?

タルパ機械論には、暗黙の了解として持ち込まれた思想がもう一つある。
副体の持つは有限個だという仮定だ。
この仮定自体が正しいことは§1の議論より明らかであるが、これは副体・軸・情報という基礎的な概念の本質に根差す問題であるから、ここで詳しく考えてみよう。

まず理論の対象となる存在者が副体と置かれ、その具体的な様相が情報によって示される。
副体と情報については明らかに「存在する」という言葉の主語たり得る概念である。

では何故副体を情報の集合として考えるのではなく、軸という概念が必要なのか?
これには2つのアプローチがある。「ラプラスの悪魔の排除」と「一般性の説明概念の導入」だ。

ラプラスの悪魔の排除

この話には一度触れたことがある。
人間的な感覚についての機械論的考察』で軸を対称性から再定義した際に、ある副体が無限の軸を持つことは現実にはあり得ないと考察していた。
もしこれを認めると、ラプラスの悪魔のような極端な存在者が現れてしまう。
それを防ぐための最も自然な仮定が軸の有限性なのである。

これは<因果的機序>において最も致命的であるが、それ以外の実体においても、あらゆる副体と干渉可能な副体の存在は理論にとって有害である。

しかし、軸の本質はこのようなその場しのぎの必要性にあるのではない。
それよりも次の理由が軸の本質を上手く語っていて、結局はラプラスの悪魔も自動的に排除できたのだ。

一般性の説明概念の導入

タルパ治療学における実体の解釈のその後』で、タルパ治療学は過度に抽象的すぎると言っていた。
治療学では副体の集約・分解や副体間の干渉について、抽象・具体の別を考慮できていなかったのだ。
感覚についてのこの問題は感覚化理論によって、オート化と感覚化との差異を利用して上手く解決された。
このときに考えたオート化と感覚化の差異の拡張が軸という概念にあたる。

実際、オート化と感覚化では何が違うのか?
感覚化では、感覚を通した客観的な干渉が可能であり、より一般のオート化はそれが不可能なので主観的な干渉になると解釈していた。
そのため一般のオート化(の対象となる副体)間での客観的な干渉は、オート化→感覚化という経路を辿ることによって説明されたのだった。

つまりは、感覚化をオート化の個別的な概念として、特別な意義を与えたのだ。
これによって感覚について具体的な議論を展開することが可能となった。
これを一般の副体に関する抽象・具体性の差異として再解釈したものが先の記事で「パラメータ」と呼ばれていたものであり、後にタルパ機械論で軸として定義された概念なのである。

その後は『「連関実在論」改め、「タルパ機械論」の再定義について』の§2~§3の考察によって、それが副体の要素であり情報の集合であるという解釈に至った。
この解釈は非常に便利であり、後に軸を対称性によって定義する際も全く同じ考え方を適用できたのだった。

しかし、一つ疑問が残る。
当初は副体と情報が存在者を表す概念として導入されたのであって、軸はあくまでもその2つとは別の意義を持っている。
それなのに、形式的には副体→軸→情報という一貫した帰属関係によって表されることには、何も問題はないのだろうか?
――「軸」とは、本当は「どこに」あるのだろうか?

この問題への答えが、この記事の§1で暗に示されていたのだ。

副体は集合である。ということは、副体は何らかの命題関数と変数とで表されるそのもののことだ。
ここで、情報に当たる概念はなんだろうか?
それは副体が具体的にどんな状態にあるのかを表すのだから、即ち個々の変数に代入される具体的な値に対応することになる。
軸はこの両者の間のどこかにあるはずだが、命題関数自体はほぼ副体と同義なのであって、変数に代入される値は情報を表すのである。

すると、こう考えるしかない。
命題関数が必要とする「変数」という枠組みそのものが軸なのである。
変数は代入される値が取り得る範囲が定められるものだから、この範囲を規定するものが軸であると言ってもいい。

この考え方は、既存の軸についての解釈と全く矛盾しないどころか、むしろその妥当性を明らかにする。
情報に次元という形の軸を定めることは、情報がその次元で定められる空間上で振る舞うという枠組みを与える。
対称性によって軸を定める場合にも、情報の変化が何らかの性質を保存するという枠組みを与える。この場合の命題関数は、そのような性質についての連言だと考えれば良い。

ところで、このような軸の解釈はラプラスの悪魔を自動的に排除する。
命題関数の変数は有限個でしかあり得ないのだから当然だ。

そう考えると、副体→軸→情報という一連の概念を単なる帰属関係によって定義することは必ずしも妥当でないように思われる。
本来の意義はここで述べた通りであって、あくまでも結果的には帰属関係によって表せるというだけの話だ。



§2.1 情報の下位概念は存在し得るのか?

副体→軸→情報の流れを帰属関係によって定めることにすると、次のような疑問が現れる。
何故、理論はこの3つの概念だけで構成されるのか?例えば、情報の要素としての下位概念があってもいいのではないか?

実のところ、情報の下位概念を考えることは出来る。
その下位概念の集まりが集合であることが保証されれば、理論的な矛盾は生じないからだ。

ただし§2で述べたことを考えれば、結局その下位概念の性質は、情報の具体的な様相として吸収されることになる。
つまり、この3つの概念は存在者に関する理論を形成する上で必要十分な構造であったのだ。
それは"3"という数字に何か神秘的な意味を含んでいるのではなく、単に集合を定める命題関数と変数との関係を無理やり帰属関係として解釈したからに過ぎないのである。
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