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タルパへの応用研究に向けた準備は完全に整った。
もはやタルパに関するいかなる問題も、タルパ現象論を使って記述されるに違いない。

この記事では「タルパとタルパーの関係」がどういうものか、主に実体を中心に見ていく。
まずこの問題を解決することで、その関係性に大きな2つの可能性が生じる。
おそらくは、これまで論じられたことのない領域に踏み入ることになるだろう。

前回の記事で告知したとおり、以降の考察は現象学的な方法論を踏襲する。
出来ればその基本的な理解は前提としたいところだが、重要な部分は説明していく。



§1 タルパ解釈の現象学的分類可能性

先の記事によれば、能動的態度を見出すことは<把握>の一様態であって、自由に対して境界を与える根本的な要因である。
「自由に対して境界が与えられる」とは、その概念構造を考えれば「態度によって起こり得る現象にランダムではない方向性の枠組みを与える」ことと同義であることが分かる。
『機械論における「受動」と「能動」』の§4と『実体の全体性に向けた問い...タルパ現象論による「自由」の話』の§3での考察は、このようにして繋がっている。

これまで何度も引用してきた通り、原初の能動的態度は自分と自分ではないものについての区別によって<把握>されるのであった。
そうであればタルパに関する解釈も、ここに1つの分水嶺を見ることができる。

即ち、タルパを自分の側に置く自分でないものの側に置くかで、大きく2つの可能性が生じるのだ。
ここで決して勘違いしてはならないのは、これはタルパについての何らかの定義ではないということだ。ここから直接に論理的命題を引き出すことは出来ない。あくまでも可能性を自由の境界によって輪郭づけたに過ぎない。
しかし、この違いが後の現象的考察に決定的な違いをもたらすことになる。

二者の個別の場合に触れる前に、ここでの「自分」が何を指すのか、先の記事で残されていた課題を解決せねばならない。ここからは哲学の世界で一般的な用語である「自己」を使うことにする。

<把握>以下の概念を現象学的に検証したからにはその基礎となっている<自己>もまた同様に検証されねばならないが、ここで自己と他者の(そうであることが期待されるという意味での)本来的分離は決して成し得ないことが分かる。
従って日常的には、<自己>は他者から明確に分離される形ではなく、むしろ身の回りの他者的な存在とともに在る<自己>であると言える。

このように自己の境界を定めると、先の2つの可能性が示す意味も明らかになってくるだろう。
明らかに、タルパを自己でない側に置く場合は、先に自己が――本来的である必要は無いが――把握されている必要があるのだ。
「自己を把握する」という語法は、「実体を見出すことが把握の一様態である」という言明に示される<把握>の本質に目を向けるとき、確かにこう言えることが分かる。
あるいは「自己によって原初的な能動的態度を把握する」ことの言い換えと考えてもいい。


よく知られている事実から類推される通り、日常的には後者の可能性が採用される傾向にある。
しかしながら現象的には<自己の把握>が先行するのだから前者の場合を先に考察し、それとの違いをもって後者の場合を考察する。



§1.1 タルパを自己の側に置く場合

タルパを自己の側に置くこととは、自己を把握したうえで、タルパを身の回り(環境)に置いておくということを意味する。
また、この可能性が持つ傾向は明らかに能動的態度の持つ傾向の構成契機を成す。言い換えれば、実体の因示性の構成契機だと言える。

このような態度から、タルパは「どこから」理解されるのだろうか?(構造への問い)
また、「どのようにして」理解されるのだろうか?(方法への問い)

自己の身の回りは原初的な能動的態度によっていち早く理解される対象物である。それらはその時点ではタルパではないが、明らかにタルパはここから理解されるか、あるいはここで理解された副体によって方向性が示されるかのどちらかだ。
この構造への問いの答えによって、タルパの創造の可能性が二分される。即ち、タルパは態度によって直接に理解されるか、または既に理解された副体によってその方向性が示されたうえで「改めて」理解されるかのどちらかである。
前者については一つ注意すべき点がある。このような創造ではタルパの創造に先立ってその対象物を理解する態度が把握されているということだ。したがってタルパ創造に取り組むにあたって新規な態度の把握は全く不要である。
後者はいわゆる設定の話に繋がるのだが、それは後の記事で触れる。

一方で、このような理解を与える態度は原初的な能動的態度から発しているのであって、タルパを理解する方向性はこの態度に依存する。
この態度がどれほど豊かな構造を持つか、言い換えれば副体が取り得る存在様相にどのような可能性を与えることが出来るかによって、理解され得るタルパの存在様相は言わば制限もされるし拡張もされる。
これが方法への問いの答えだ。
タルパを理解することは、自己の把握から発する態度の豊かさ如何に関わっていて、どのような態度を把握するかがどのようにしてタルパを理解するかを決定する。

以上の2つの問題に対する回答によって、タルパを自己の側に置くということがタルパの理解に与える影響が明らかとなった。
ここで特に注目しておくべきことは、このような傾向を持つ能動的態度は必然的に多くのタルパを創り出す傾向をも持っているということだ。
自己とともに把握されているところからタルパが理解されるのだから、この傾向を持つのは至極当然なのである。



§1.2 タルパを自己でない側に置く場合

一方で、タルパに関する日常的な解釈では後者の影響が大きい。

タルパを自分でないもの側において能動的態度を取る場合、まず先に自己を把握しておいて、その外側からタルパを理解することになる。しかしながら自己の外側の現象学的検証は自己の内側(=自己)のそれよりもはるかに難しいという問題に突き当たる。
何故ならば、自己として把握されているものは既にその時点で自己とともに検証されているが、自己の外側はさらなる検証を待たねばならないからだ。

ところで自己の内側と外側とでは、その検証の仕方が異なる。
『機械論における「受動」と「能動」』の§4によれば、この「検証」とは注目がその役割を直接に果たすのであるが、自己の内側に注目するより自己の外側に注目する方がより困難である。
そもそも注目が原初的な能動的態度を把握する契機が自己なのだから、自己の外側を把握するためには先に自己を把握しておくだけでは明らかに不十分であり、それ以上の態度を把握しておく必要がある。
この事実はやや不都合である。態度が把握の傾向に対して言わば「自然でない」場合を考えねばならないからだ。そして日常的なタルパ創造現象のほとんどはそうなのである。
タルパ現象論からの純粋な帰結と日常的現象は、しかし一切矛盾しておらず、前者から後者を導くことができる。これについては§2で考察している。


ここで前者の場合と同じく、タルパの理解の構造と方法への問いが生じる。

タルパがどこから理解されるかについては先にある程度触れている通りであるが、これは例えば風船の外側と内側などといった単純な対比によっては喩えることの出来ない問題だ。
そこで§1.1の考察を踏まえれば、次のように言うことが出来る。

タルパを自分でないもの側とする場合、タルパは自己の身の回りからは決して見出されることは無いのである。これはまた、タルパの創造に先立つ態度が未だ把握されていないことをも意味する。
まさにこの意味において、タルパは自己の外側から理解されるのである。これが構造への問いの答えだ。

次にタルパがどのように理解されるかを考える。
先立つ態度が把握されていないということは、当然ながらその把握から始めねばならない。何故ならば、把握において最も基本的な注目は自己から為されるのだから、タルパの創造に臨むその態度は依然として自己の外側に目を向ける準備は出来ていないからだ。
これが方法への問いの答えである。

さて、以上の考察によって§1.1との相違点も明らかになっただろう。
タルパを自分でないもの側におく場合は、常に新たな態度を把握していくという自己にとってやりづらい方法を取る必要がある。
したがって前者の場合とは異なり、極めて少数のタルパのみが創られる傾向にある。



§2 欠如的様態による日常的なタルパ創造現象の解明

以上の結論がタルパについての何らかの定義でないことは§1で既に注意を向けた通りであるが、これは何度注意しても足りないだろう。
というのも日常的には「後者の態度を取りながらも多くのタルパを創り出す」ような場合が散見されるのであり、ややもすればこの事実が反論材料であると認識されかねないからだ。他にも創造・邂逅型やIFのような類似存在など、標準とされる解釈との整合性も現時点では鮮明でない。

しかしながら、これらの現象は先の解釈によっても十分に説明できるのである。
ここまでは能動的態度が把握の傾向に自然に従うと暗に仮定していたのであり、日常的な現象に応用する場合は既にある程度の態度が把握されているという可能性を考慮せねばならない。状況によっては、それらの態度が把握の傾向と相反することも考えられるのだ。
そのような状況を「自然でない状況」と考えるならば、「自然な状況」における何らかの傾向が妨げられたり歪められたりしたものと解釈することが出来る。

そこで先の結論から日常的なタルパ創造現象を欠如的様態として解明しておき、そのような疑念を払っておく。

「後者の態度を取りながらも多くのタルパを創り出す」現象

例えば、既にタルパwikiなどでタルパに関する知識を得ている場合がある。この知識はそれ自体としては副体的な概念に過ぎないからタルパーへの強制力などは持たないのであるが、その形式がタルパーのタルパ観を規定するまでに至ると話は違ってくる。
これまではそのような知識を一切前提していなかったので、日常的な場合には可能性の一つとして考えねばならない。

ここで「タルパは自分とは関係のない他人として扱わねばならない」といった態度をタルパーが得ているとしたら、どうだろうか?
そのタルパーが§1での前者の立場を取るならば、その結論を考えるに把握と態度の傾向が相反する現象が起こり得る。
しかし現象的にはあくまでも前者が先行するのだから、結果的には多くのタルパを創りつつも自己の外側に置くといったタルパ創造現象が起こるのである。

ここで挙げた例は数ある内の一つであるが、最も頻繁に見られる日常的な現象であるので、特別に指摘しておく価値があるだろう。

創造・邂逅型との整合性

把握と態度の傾向が相反しないという意味で、ある現象、その形式的な性質を示す境界、およびそれの経験に自然かそうでないかという性質を与えるとしたら、果たして「創造・邂逅型」というタルパ創造現象の分類は自然なのだろうか?
この問題に答えるには、創造型と邂逅型が§1における前者と後者の立場においてそれぞれ自然かどうかを確認すればよい。

創造型はどちらの立場においても自然であることがあり得ることはすぐに分かる。自己の内側に置くにせよ外側に置くにせよ、自己が創造したという経験を持つことは可能であるからだ。
そしてこの可能性からして、自己が創造していながらタルパ創造現象を認識しないという可能性もまた考えられる。この場合にタルパーは邂逅型であると判断するだろうが、無論実際には創造型なのである。

では、邂逅型は自然であり得るだろうか?
これは単独の実体を考察する限りでは決定されない問題である。自己はただ唯一の自己としての実体に関わるのみであるから、この範囲では創造型の問題しか論じ得ないのは当然だ。

ここで自己に対する他者を考える必要が出てくる。
自己が他者と、副体間の現象としてではなく実体間の現象としてどのように関わるのかといえば、自己はただ一つの実体しか持たないのであるから、必然的に自己の実体に他者的な部分としての態度を持たざるを得ない。ここで他者の実在を仮定して良いのなら、現象的には他者の理解した副体から言わば刺激されて、自己がそのような態度を把握するのだと言える。
この「副体から刺激されて態度を把握する」という言い方はここまでは一切触れていないが、実は把握のもう一つの様態なのである。
これについては後の記事でタルパの設定を考察するときに改めて取り上げるつもりだ。


そう考えると、結局のところ邂逅型もまた自己によるタルパ創造なのである。
ただ創造型と異なる点として、その自己というのは他者との共同存在としての自己であるというニュアンスがある。

ここから特に注目すべき帰結として、邂逅型の場合ではタルパ創造現象に自己が持つ文化的背景民族性に影響されるであろうことが確認できる。

これに反論しようとして文化や民族性に依存しないタルパを作ると、それは必然的に創造型になってしまう。
邂逅型がこのような性質を持つことは、邂逅型という形式によって支持される言わばアプリオリな規則であって、個々の実例によっては決して反駁され得ないのである。
そういう意味ではむしろ創造型のほうが、設定という副体的な要因が関係し得る点で、その形式による規則を示すことがはるかに難しいのである。

IFなどの類似存在からのタルパ創造

これまでの考察によってタルパ創造現象にまつわる日常的な観点からの疑問はほぼ解決されただろう。しかしタルパ創造現象にはIFなどの類似概念が関連することもあるから、最後にこの問題を解決しておきたい。

といっても現象的には「タルパ」や「IF」といった名詞はそれの指す存在が持つ形式的な性質を極めて緩やかに境界付けているに過ぎない。即ち、ある決まった態度で理解される副体としての定義ではないのだから、わざわざタルパとIFに存在者としての越えがたい区別を設ける理由は何も無いのである。
だからそのような理由があるとすれば、それは常に自然でない理由と言えるのだ。

したがって、例えばIFをもとにタルパを創るような場合には、もはや明確なタルパ創造現象が経験されない場合もあるのであり、仮にそれが経験される場合にはやはり何か自然でない理由によるのである。
経験されない場合「も」あるというのは、日常的には他の態度によってそのような自然でない理由が正当化されることが多いという意味である。例えば何らかの儀式を導入する場合などがまさにそうである。



後記

先に何かしらの定義をしておいて、それから厳密な論理に基づいて研究すべきだという指摘は、もはや飽きるほど受けてきた。
しかし、だ。その人はその定義には何らの責任も負わないのである。正確には、責任を負える立場にないのである。
なぜならば、その定義には一切の必然性が無いのだから。反例を挙げられても、それは単なる偶然であると説明するのがその人の成しうる全てであり、さもなくば自らの誤りを認めねばならないが、その必然性もまたその人には全く理解できないのだ。

それは研究者たる私が望むところではない。

いい加減、タルパ研究ではこんなやり方が通用しないことを認めようではないか!
我々が成すべき第一のことは、「タルパ」という言葉がその内容によらずに形式のみによって定める境界線を見ることであり、個々の定義はその形式のもとで必然の内に成されるべきなのである。
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