明確になった問題は共有される。共有された問題は議論される。議論された問題は無害化される。
D1.思念体に期待される性質
思念体はその内包の規定に依って「一切の区別を持たない」という性質を持つことが期待される。
D2.脱形式化の定義
内包の規定は明らかに概念の何らかの形式を定めるのであるが、規定を取り除いていくことで概念の形式を取り去ることが出来る。
ある概念の内包の規定をすべて取り除く操作を脱形式化と呼ぶことにする。
T1.思念体は脱形式化によって創られる
思念体が何らかの形式を持つならば、ある存在者がその形式を支持するか否かによって思念体とそうでないものの区別を付けられる。
しかしこれは思念体に期待される性質には反しているから、思念体はそのような形式を持たず、故に脱形式化によって創られるものである。
T2.思念体は脱形式化以外の方法では創られない
人間の認識には必ず何らかの形式が伴う。なぜならば、そのような認識は空間的・時間的な一点において行われているのであり、少なくとも空間的・時間的な関係における形式を支持しているはずだから。
従って、そのような形式を持たないと想定される思念体は、別の概念に対する脱形式化以外の方法によっては創られ得ない。
T3.思念体を他の概念に依存せずに創造することは出来ない。
T1およびT2より明らか。
見ての通り、この考察は甚だ不完全である。
しかしこの考察の目的は思念体のパラドックスを十分な厳密さによって論じることではなく、このような素朴なパラドックスを回避するためにはタルパ界隈において常識とされていることを否定(あるいは少なくとも批判)せねばならないことを示すことにある。
実際にどの部分が不完全だろうか?
T3はT1とT2からの帰結であり、T1はD2における脱形式化の操作が構成可能である限りにおいては自明であるように思える。そしてD1は疑うべくもない。
だから批判の余地があるとすれば、それは「脱形式化は構成可能か?」と「思念体を脱形式化以外の方法で創ることが出来るか?」の2点である。
脱形式化の操作は少なくとも論理学の範疇において構成可能でないことは明らかだと言ってよいが、そこからあらゆる場合に構成可能でないことは帰結されない。
これより、この問いの解決は論理学の範疇のみにおいては不可能であることは分かる。
もし脱形式化が構成可能でなければ、この記事における問いは全て疑似問題だということになる。
その場合には思念体がどのように創られるかが宙に浮いてしまうのはさておいて、第一の問いはこれである。
仮に構成可能であるとしても、T2の真偽が問題となる。
というのも、思念体が脱形式化以外の方法によっても創られるのであれば、それは形式の違い以外の理由によって「異なる思念体」という観念を持ちうる可能性が生まれるからだ。
前の記事『「思念体」と「ナフラ」の一致の証明』では思念体はその内包の規定からして区別不可能であることが証明されているが、そこでは対象が異なるならばその形式も異なるという暗黙の前提が存在している。
脱形式化以外の方法で思念体を創ることが出来るならば、この前提は破れるように思われるのだ。
これが第二の問いである。
この2つの問いのうち1つでも否定的に回答されれば、T3は帰結できない。即ち思念体の創造は他の概念から独立して規定される可能性は残されることになる。
しかしこれらの問いに否定的に回答するには、いわゆる常識について批判的にならざるを得ないのである。
「問いによって形式を暴き出す」とはペンライトのタルパ研究の一大テーマであるが、この考察もその例に漏れない。
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