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明確になった問題は共有される。共有された問題は議論される。議論された問題は無害化される。
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第一部の§1では把握のもう一つの様態である喚起を現象論的に解明し、把握の全体性が完成した。
§2以降では把握の全体性を基にしてタルパ創造現象・タルパ成長現象(オート化現象)を、一部は不完全であったが立て続けに解明した。
第一部の成果はある意味で急進的な成果だったと言えるが、タルパ消滅現象では話はそう簡単ではない。

先の考察が上手くいったのは、既にそれぞれの現象が素朴な(日常的な)領域において十分な問いを受けていたからに他ならない。
しかしタルパ消滅現象はこれまでタブー視すらされていた感があり、その現象論的な解明には困難がつきまとうことが予想される。

したがって、まずはタルパ消滅現象の日常性における問いと批判を展開し、その後でタルパ消滅現象の境界付けに進むことにする。



§5 タルパ消滅現象

消滅現象は先に考察した創造現象・オート化現象と比べれば、日常的には全く意識されないと言って良い。日常的なタルパには「一生涯において関わりを持つ」という規定が多くの場合において自明な規定として含まれるから当然だ。

確かに論理的な可能性としてはタルパの消滅は考え難いとする相応の素朴な根拠がある。
タルパにはその人格を構成する性質あるいは記憶、もっと本質的にはそれらの情報が含まれるのだが、タルパが消滅するとしたらその情報はどうなるのだろうか?
タルパに属する情報が消滅とともに一瞬にして消えてしまうということは、にわかには肯定しがたい。

しかし、それはあくまでも論理的な観点、つまり副体以下の現象の連関における結論に過ぎない。
態度の把握について考えれば、タルパの消滅がタルパの全体性を構成し得る現象であることが整然と理解されるのである。

そこで最初にタルパ消滅現象の境界付けを行いたいのだが、この現象はなにぶん素朴な領域においてさえ十分には問われていないから、まずは日常的な領域における消滅現象に関する問いについて考察したい。
それは問いに答えるための考察ではなく、問いの構造を分析して、その問いが問われる理由を明らかにするのである。
最終的な問いへの答えは、消滅現象の境界付けが行われた後なら簡単に成されるだろう。

ところで日常的な領域においてこそ「人それぞれ」という言葉が重大な意味を帯びてきて、その問いを無効化するのではないかといった批判が考えられるが、それは全く論点を見失っている。
私がやりたいのは、「タルパの消滅」という言明に対応する事態を、即ちタルパの消滅についての何らかの真理を発見することにあるのではない。
逆に「タルパの消滅」という言葉の文脈上の意義からその観念が持つであろう形式を抽出してタルパ考察の俎上に載せ、それと把握に関する既出の結論とを合わせて、ひとまず現象として扱えるタルパ消滅現象を造り上げたいのである。
それがタルパ消滅の素朴な問いと矛盾することは、形式の抽出が上手く成される限りはあり得ないのだ。

ただ最初から「タルパの消滅」という言葉がいくつかの意味で使われていて、それらに形式の違いや全体性の違いを生むほどの隔たりがあることは考えられるから、最終的にどのような形式を選び取るかを決めるに足る程度の批判は加えておく。



§5.1 タルパ消滅現象の日常性における素朴な問いと批判

タルパ消滅現象に関して実際にwikiに寄せられている質問を見れば、以下の4つの点が「消滅」という言葉の使われ方として際立っていることが分かるだろう。

・そもそもタルパは消滅し得るのか?
・未オートに近いタルパほど消滅しやすいのか?
・タルパに関心が向いている限りは消滅しないのではないか?
・一度消えた後に再び元に戻り得るのか?

当然この4つの問いを選んだのは、それが十分に普遍的であるように思われるからだ。個別の例はいくらでも挙げられるが、これらは凡そあらゆるタルパーにとっての共通の問いであると考えられる。
これらの問いの意義をそれぞれ説明して、その形式を取り出してみよう。

そもそもタルパは消滅し得るのか?

これは最も究極的な問いであると言える。
何故ならば、この文脈における「消滅し得る」とは単に論理的な可能性についてではなく、その可能性の必然的な規定について語っていると思われるからだ。

重要なのは、この問いに対して実際に消えた例があると回答することは全く無意味であり、この問いを問うことが可能であることとは何も矛盾しないということである。この回答を受けた質問者は回答者に対して「しかしあなたの考えるタルパと私のそれとが本質的に異なる可能性は否定できない」と反論することが出来る。他の問いについても、それがこの問いの必然性に関連する限りでは同様であろう。
一方で消滅の規定について同じように考えている2人のタルパーは、それぞれのタルパ観が互いに異なっているとは言い切れない。
消滅の規定の有無は明らかにタルパそのものの概念、即ちタルパの全体性を二分しているのである。

無論、ここでの考察は一時的に認識できなくなったという意味で使われる「消滅」とは区別されねばならない。
身体的精神的不調がタルパとの干渉を妨げることからも分かる通り、こちらは副体的な現象なのであって、タルパそのものの観念には直接には関わらない。

未オートに近いタルパほど消滅しやすいのか?

先の問いが必然的な規定についてであったのに対し、こちらは傾向についての問いである。
これが重要であるように思われるのは、消滅現象とオート化の進み方とに何かしらの関係があることを問うているからである。
より具体的には、「未オートに近い」という言葉の意図としては「独立していない」という状態を指しているので、タルパのタルパーからの独立の具合が消滅の起きやすさを傾向づけるかどうかという問いである。

この問いの構造を少し分析すると、タルパについて未オートに近いという条件を付加すると消滅しやすいという一般的な性質も付加されるのか、という表現ができる。
つまりこの問いでは消滅が少なくとも未オートという条件の下では一般的な性質であるかどうかを問うているのである。

しかしタルパに対して「一般的な性質」というのは日常的な領域ではあまり受け入れられない考え方ではなかったのか?
この疑問がより明らかになるように、さらに別の表現も出来よう。
「未オートに近いタルパほど消滅しやすいという性質において共通する部分を持つのか?」

そして問い自体が十分にオート化したタルパは消滅しにくいだろうという主張を包含しているであろうことを鑑みるに、次の表現もまた成立する。
「十分にオート化したタルパは消滅しにくいが故に共通する部分を持たないのか?」

結局のところ、この問いは消滅しやすさという傾向がタルパ一般に共通する部分の多寡の傾向に対応するのかという構造を持っているのである。

もしタルパ消滅現象が日常的に十分な問いを受けていれば、オート化は消えにくくするという意味でタルパを独立させる過程だと考えられていたことだろう。

タルパに関心が向いている限りは消滅しないのではないか?

これはタルパーのタルパに対する能動性の与える影響についての問いであると考えられる。
タルパーがタルパの姿を視たり、声を聴いたりする限りタルパが消えることは無いのではないか?という問いである。
この問いにおける能動性という素朴な観念がタルパ現象論における能動性とどのように関連するのかは、この時点では明らかでない。

だからこの問いにおける能動性とは何を意味することが期待されるだろうかと考えねばならない。
先に挙げたようないくつかの要素を考えることは簡単にできるだろう。そこから姿や声はその実在のある一様態であることに思いを致せば、この問いにおいて能動的に立ち向かう対象はタルパの実在という素朴な観念か、あるいはその様態であることが分かる。

問題なのは、そのような実在の観念なるものが結局いかにして把握――タルパ現象論的な意味ではなく――されるかということである。
しかしながら姿や声が明らかにその様態であると考えられるということは、そして第一部で触れたようなただ唯一の個体という観念が現実に考えられているということは、この問いを問う人は何らかの方法においてタルパの実在の観念を得ているはずなのである。

逆にタルパに対して全く受動的にふるまうとき、この観念は全く得られないはずであると言える。

従って、この問いの構造は「タルパーがタルパの実在の観念を得ている限り消滅することは無いのではないか?」という表現に代えられるのである。

一度消えた後に再び元に戻り得るのか?

これまでの3つの問いは、タルパの消滅がタルパの実在の消滅を規定するという暗黙の了解があったが、この問いはその了解についての問い、消滅の不可逆性についての問いなどと言える。

もし消滅した後に元に戻ったと言われるためには、その二状態の間に共通した実在の観念が無ければならない。仮にそうでないとしたら、どれだけ外見が似ていようと同一のタルパであるとは考えられないことになる。
だから不可逆性が成り立たないとしたら、消滅とはタルパの実在の一様態に過ぎないと結論されねばならない。

この素朴な結論は明らかなジレンマを呼び起こす。
消滅が実在の一様態に過ぎないのならば、第一の問いにおいて消滅が必然的に考えられる限りでは消滅という一般的な性質を備えていることになる。
しかし、やはりそのような一般的な性質というのは素朴なタルパ一般の観念としては認められないはずなのである。

さらにここにも別の暗黙の了解が潜んでいる。消滅と呼ばれる現象がただ1つでしかありえない、言い換えれば消滅現象はその性質をもって本質が規定されるような現象であるという了解である。
実際にタルパ創造現象においては自己がその一契機であったのだから、創造についてはこの了解は成り立たなかったのである。だとすれば、消滅においても同じ問いが問われることになるのは自然な成り行きであろう。

だからこの問いは「タルパの消滅はただ1つでしかあり得ない現象なのか」という構造を持っている。



§5.2 タルパ消滅現象のためのタルパ創造現象再考

以上の考察だけでは、タルパ消滅現象の境界付けに至るのは難しい。
タルパ創造現象が「~を把握すること」であったのを踏まえて「~を把握しないこと」というのは流石に上手くいかない。
だが消滅現象は創造現象のある意味での正反対に当たるのだから、境界付けにおいては何らかの対比が見られるはずである。
そこで、まずはタルパの創造現象の境界付けを再び考察し、対比が明らかになる程度に掘り下げておきたい。

タルパ創造現象は、タルパを理解する態度を把握するという現象の形式によってその境界が定められる。「タルパ創造現象の境界」は「タルパを理解する態度を把握する現象」であると言い換えられる。
把握はその全体性が既に明らかであるから、タルパ創造現象の契機は把握の全体性から直接に得られることになる。

もっともタルパ創造現象の契機は『タルパとタルパーの関係から見るタルパ創造現象の分類』で既に考察しているのであるが、ここでもう一度把握の全体性から考えてみる。

まず把握には自由と喚起の二様態があるのだから、根本的な契機としては同じく自由と喚起の二契機がある。自由の場合は自己から創造するが、喚起の場合は副体から創造するのである。
自由が契機である場合はその個別の様態としては自己からかあるいはその変容からかの二様態しか無いが、喚起の場合には対象となる副体がどのようなものであるかに応じて個別の様相がいくらか(本質的にはいくらでも)考えられることになる。

ところで副体から創造すると言っても、全く無規定な副体からタルパが創造されるのは考え難い。例えば「1」とか「100」とかいう数字からタルパが創られるなどという主張は全く滑稽に見えるだろう。(それが実際には可能であるとしても!)
喚起による創造の場合には、普通は複数の副体とその関係がその把握の契機となるのである。

ここで副体間の関係がどのように理解されているかが問題となる。
その代表的な区別として、その関係が偶然的であるか必然的であるかによって、喚起を契機とする創造について個別の様相が与えられると考えることが挙げられるだろう。
特に必然という性質は副体間の関係だけから、言い換えれば論理的な関係だけからは決して言いえないのだから、必然的であるかそうでないかの性質が把握や理解の現象に関わっていることはすぐに分かる。

ある副体的な概念に対して「必然」だと言うことは把握や理解の現象からして何を意味するのだろうか?
必然だと言われるからには「そうではないような事態が考えられない」という言明が包含されているのであり、その言明は意味的にではなく形式的な観点から成されるのである。そしてそのような形式を与えるのは理解の現象であることからして、理解の現象には「必然」と言われる性質をもついくらかの事態が内包されているはずである。

しかし「必然」として言い表される性質がそのようにして与えられることの説明は一切行われていない。何故ならば、理解の現象がそのような事態を内包すること自体が必然であるからである。
ある副体的な概念が必然であると言われるのは、それを必然のものとしている事態が理解の現象そのものに既に含まれているからである。
結局このことに有効な説明を付すためには、把握の現象にまで遡る必要がある。

それでは、ある把握のもとで何らかの理解が「必然」であると言われることは何を意味するのだろうか?
この問いにおける「必然」の語が前の問いにおける「必然」の語とは少なくとも同一ではない(後でタルパの自由を考察するときに分かるだろうが、実際には明らかに異なる)ことに注意すべきだ。後者は副体的であるのに対し、前者は実体的である。

理解に対して「必然」と言うからにはそれ以外の理解があり得ないような事態が考えられているのだろうが、喚起による把握において理解の可能な範疇を決めている要因とは何だろうか。深く考えずとも、それが把握される対象の何らかの総合、すなわち全体性であることが分かる。
ある把握がその対象の全体性において成されている(今考察しているのが喚起による把握だからこのような言い方が常に出来ることに注意)ならば、理解は必然的にその範疇に留まるのである。逆にある把握が何らの全体性をも支持しないならば、理解の範疇を定めることは出来ない。

しかし、ある把握が何らの全体性をも支持しないというのは現象論的には全く混乱した観念なのである。これは把握の現象を純粋に論理的に解釈してしまうことが原因なのであって、そのような混乱した把握に基づいた理解が即ち必然的でないと言われるのである。

ところで対象の全体性は既に把握されているのであるから、これを契機として何らかの対象を把握するという現象が起こるからには、それは元の把握とは異ならねばならない。もし同一であれば現象学的にそれらを区別することが不可能になる。
新しい把握が元の把握を含むのか、それとも元の把握に含まれるのかという違いはあるが、ここでは一旦全体性からの創造としてまとめておく。

したがって、ここまでの考察によってタルパ創造現象に以下の2つの契機を見出すことが出来た。
・(自由を契機とする)自己からの創造
・(喚起を契機とする)全体性からの創造

ところで『タルパとタルパーの関係から見るタルパ創造現象の分類』によれば、邂逅型もまたタルパ創造現象の一契機なのであった。しかし「他者との共同存在としての自己」が「自己によって把握される特定の、即ち共有された全体性を支持する態度」であることを考えれば、厳密には創造現象の契機ではない。
ただ自由や喚起によって把握された全体性が「他者との共同存在としての自己」が指示する共有された全体性との連関を持つ場合に限りその共有された全体性が便宜的に契機と呼ばれるだけなのであって、それは自由や喚起による把握のいずれかの契機として還元されるのである。

これから述べるタルパ消滅現象の境界付けとの対比を明らかにするには、以上の考察で事足りるであろう。



§5.3 タルパ消滅現象に関する素朴な問いのタルパ現象論的考察

先の考察の結論は一旦保留しておいて、§5.1から導き出されるタルパ消滅現象の境界付けとはどのようなものだろうか。
それら素朴な問いをタルパ現象論の概念で表現することによって、徐々にその境界が浮き彫りになるように考察していく。

タルパの消滅は非論理的な現象である

まず明らかにすべき点は、第一および第四の問いはタルパの消滅が非論理的な現象であることを示しているということだ。もし論理的な現象だと改定したら、これらの問いが問われることは無いのである。
第一の問いについてはこのことは全く明らかだろうが、第四の問いは肯定的に答える場合と否定的に答える場合とを別々に考えれば良い。

肯定的に答える場合は「一つでしかあり得ない」と言いたいのだからその解を必然的だと見なさねばならない。つまり非論理的な現象だと考えねばならない。
否定的に答える場合は「消滅現象は人それぞれである」と言いたいのだから、消滅を「タルパ現象論的な意味における」自由による把握と関連して考えられねばならない。つまりこちらの場合も非論理的な現象だと考えられねばならない。

タルパ消滅現象は2つの異なる全体性を与える

第一の問いについては、どうしても§5.1のような問答が避けられない。これは特に実践の領分においては原理的に避けられないのである。

もしここで私のアンチに見られるような論理実証主義者であれば――しかし彼らは実証主義なるものを誤解していることは言うまでもないが――こう言うだろう。
「このような問題の本質はタルパの定義が何らなされていないことによる言語上の混乱からのみ生じるのであり、定義に基づいた厳密な議論によれば全くの疑似問題に帰されるのである」と。
しかしながら、先の対立項のそれぞれは何らの内的矛盾も含まないのであり、どちらかがタルパではないと言われるものでは断じてあり得ないし、またあるいは定義によってそれに適合しない存在は保留されるにすぎないといったものでもあり得ないのである。

消滅し得るかし得ないかの違いはタルパの定義以前の観念ないしは作用によってそれ自身から見いだされてくるものなのであり、タルパという現象を一点の曇りもなく受け取ろうとする人にとっては、消滅現象は(無論それ以外の現象も)ただこの解釈のみしか受け付け得ないのである。
言い換えれば、その違いはあくまでも実践の領分における区分としてのみ解すべきなのである。

同じような理屈で、タルパ創造現象すら含まないタルパの全体性を考えることも出来る。ふつうはタルパと言えば明確な創造現象が経験されるのだが、そうでない場合も実際にあるのだった。
例えば『タルパとタルパーの関係から見るタルパ創造現象の分類』§2の「IFなどの類似存在からのタルパ創造」によれば、非常に若い頃から維持されているIFからタルパを創る場合にはもはや創造現象が経験されないことがあると結論していた。

ところで普通の場合に創造現象がその全体性に含まれるという点で、タルパと人間はその全体性としては区別されているのである。
人間の創造現象、言い換えればその誕生はタルパのそれほど明確には語られない。タルパの場合はその創造目的が全く無いと考えられる場合であっても何かしらの創造現象が把握されているのである。一方で人間である私たちは人間そのものについて考察するとき、その存在を既に与えられたものとして考える傾向にある。――自分が生まれた理由など考えるべくもないのだ。

物理干渉の有無によってタルパと人間が区別されるというのは、やはり偶然性のきらいがある。まず全体性の違いによって必然的な区別が行われ、その後で物理干渉が可能かどうかという偶然的な性質に基づいた(曖昧な)区別が行われると考えた方が妥当だろう。

「ただ唯一の個体」としてのタルパの観念が想定されている

第三の問いによればタルパの実在の観念、即ちただ唯一の個体としてのタルパなるものが想定されている。そうでなければ消滅の現象がせいぜいタルパの一部にしか作用しないであろうことを否定できない。
「実在」や「能動性」という言葉が実際にこれほどの重みを伴って使われているということが、これらの言葉が単なる程度問題ではないことを示している。

またこの問いから特に明らかなことであるが、日常的に「タルパが消滅した」と言うとき、その「タルパ」が指す対象は客観的実在ではなく実在の観念の方なのである。
タルパ現象論的に言えば、消滅するのは「対象物」ではなく「それを理解する態度」の方なのだ。
ということは、タルパが消滅すると言われ得るからにはタルパを理解する態度が既に把握されていなければならない

態度を把握することは能動性の働きであるから、第三の問いにおける「能動性」は確かにタルパ現象論における能動性のことを指していることが分かる。

「タルパの全体性」によって創造・オート化の現象と消滅の現象は区別される


第二の問いは既に触れたように「十分にオート化したタルパは消滅しにくい」という主張を包含しているのだから、少なくとも十分にオート化したという条件においてはタルパの消滅は起きにくいとする傾向が帰結出来ねばならない。
するとオート化は消滅との関連の限りにおいては非論理的な現象だと考えねばならないことになる。そうでなければオート化と消滅には何の関係もないだろうから。

オート化の非論理的な側面は現象的な観点からは既に考察しているが、何故それは現象論的な考察ではなかったのか?
それは非論理的現象としてのオート化の契機とされた態度の変化の解釈によるのである。

タルパ創造現象の契機は把握であったが、その把握がタルパ創造現象という一現象の契機と見なされるからには元の把握とは区別されねばならない。だから創造における把握にも態度の変化が含まれるのである。また第一および第四の問いによれば、タルパ消滅現象についても同じことが言えることになる。
だとしたら、オート化の契機である態度の変化を創造・消滅現象に伴うそれと現象論的に区別することが出来なくなってしまう。特にオート化現象と創造現象のそれが区別できない場合があるという事実は一部の先進的な研究者や考察者が指摘してきた。
この意味において、第一部での考察は現象論的ではなく現象的であったのだ。

そしてこの問題を解決するのが、第一部の最後に考察しておいたタルパの独自性である。

これまでの考察ではタルパという観念に対して創造・オート化・消滅といった現象が与えられるという図式を想定してきたが、これにタルパの独自性を含めることで問題は解決する。だが事態は思ったより単純ではない。
タルパの独自性が与えられるのはタルパではなく現象の方なのである。タルパの独自性はまずただ唯一の個体という素朴な観念として表象され、現象論的に解釈されることでタルパの全体性の概念が得られるのであったが、だとしたらタルパの全体性は何らかの存在ではなく何らかの現象であるからだ。

ここで論点を明確しておくと、この問題は創造・オート化・消滅の現象に対してタルパの全体性の概念を考慮しないことによって生じているのだと整理できる。

創造と消滅はどちらも把握の現象であるから、オート化の契機としての副体の理解は問題にはならない。
消滅が把握の現象であるのはこれまでの考察から既に言えることである。何故ならば消滅は非論理的現象であり、かつタルパの理解は内包しないからだ。第三の問いの考察によれば消滅するのはタルパを理解する態度であるため、消滅が(タルパを対象としない)理解を契機とすることはあってもタルパを理解する現象を内包することがありえないのは明白である。
したがって問題とすべきはそれぞれの現象が内包する把握の方である。

まず創造・オート化と消滅とでは現象論的な区別が可能となる。前者はタルパの全体性を把握するのに対して、後者は当のタルパではない対象物の全体性を把握する現象であるからだ。
しかし前者の二つは現象論的な区別をつけがたいことが分かる。一応、創造現象においては当の把握がこれまでの把握とは異なるものであることを考えれば、それによって生じる態度の変化如何によってオート化と現象的な区別はつくだろう。オート化の場合も態度の変化は生じるが、創造のそれほど広範にわたるものではない。

創造とオート化が現象論的に区別できないことについては、それなりに納得できるのではないか?
素朴な解釈において創造という行為がある種のオート化の一つに還元されることはよくある話である。また場合によっては創造現象が明確に経験されないこともあるのだったが、その場合でもタルパの全体性の把握という意味での創造現象は必ず起きていたのであろうから、やはり創造がオート化に還元されることはしばしばあり得るのである。

いずれにせよ重要なことは創造・オート化と消滅とを現象論的に区別できるということであり、この事実はタルパ消滅現象の境界付けにとって都合が良い。

タルパ消滅現象にはタルパ創造現象が必ず先行する

これは先の日常的な問いからではなくタルパの消滅に関する文脈一般からの直接の帰結であり、現象論的というよりは超越論的な規定と言った方が良いかもしれない。

先に創造されたのでなければ、消滅することは出来ない。これには疑いを差し挟む余地がない。
ただ「先にタルパの全体性が把握されていなければタルパの消滅はあり得ない」という方が明確であり、これをもってタルパ現象論的な考察とする。



§5.4 タルパ消滅現象の境界付けと契機

以上の考察によって境界付けに必要な材料は揃った。このような回りくどい方法を取ったのは、それほどまでにタルパの消滅が日常的には全く無視されてきたからだ。私はここで、独断論的にではなく事象そのものから現象論的にタルパ消滅現象が理解されることを完全に示し得たと思う。

それでは創造現象のときと同様に、消滅現象の境界付けを提示しよう。

タルパ消滅現象とは、タルパを理解する態度を「再把握」するという現象である。

この結論――そしてここからタルパの消滅の全てが理解されるところの原点――が先の日常性における問いに関するタルパ現象論的な考察の帰結をすべて含意していることは容易に確認できる。
私が最初からこの境界付けを持ち出したのなら、何の同意も得られなかっただろう。
だがここでは既にこの帰結を納得させるだけの十分な考察が行われたのだから、タルパの消滅は晴れて現象論的な現象として解明されたと宣言して憚らないのである。

境界付けと同様に、タルパ消滅現象の契機もまた明らかとなる。それは創造現象と同様に以下の2つを挙げられる。
・(自由を契機とする)自己への消滅
・(喚起を契機とする)他の全体性への消滅

この時点で創造現象と消滅現象の重要な一致を指摘できるが、その意義は第三部で詳しく考察することにして、ここでは注意を向けるに留めておく。

自己への消滅

この表現そのものは消滅の素朴な解釈としても全く違和感が無いだろう。ただし「自己へ」がどのような意味においてであるかは注意せねばならない。
自由による把握の結果としてタルパを理解する全体的な態度が変化したとき、もはや自己はただ唯一の個体としてのタルパの観念をそれ以上維持することが出来なくなる。

このとき全体的な態度によって既に理解されていた副体はどうなるだろうか?
無論一斉に消えたりはしない。態度が変化しただけであって、副体は依然として存在し続けるのだ。しかしただ唯一の個体としてのタルパは、もはや存在しなくなるのである。
この「副体は存在し続ける」と「タルパは存在しなくなる」の2つの事態は明確に区別されねばならない。それは同一の契機によるにせよ、別個の現象なのだから。

この文脈における「存在」の使われ方もまた明らかに区別される。
前者は「副体がある(理解されている)」という事態を形容する述語であるが、後者は「~としてある」という事態を形容している。
そして後者の事態は把握による全体的な態度がその契機であることを考えれば、前者は後者の日常的(統計的)な解釈だと言えることになる。

だからタルパの消滅とは、もはやタルパが「あるタルパ」としてではなく「ただ存在している」だけの存在者になってしまうことを意味するのである。
これは消滅について日常的に経験されるような「タルパの設定や姿形は残っている(覚えている)のに元のタルパではないような奇妙な感覚」を極めて正確に説明することになる。

これが「自己への消滅」と言われる理由は、あるタルパとしてはもはや残っていなくても自己によって把握されたものとしては依然として残っていて、そしてそれ以外には何も形容できないという事実を指摘すれば十分だろう。

他の全体性への消滅

喚起が契機である場合には、ただ唯一の個体としてのタルパは存在しなくなったが、しかし代わりにそれを含有するような全体性が把握されている場合も考えられる。これについてはその全体性によって理解される限りにおいて依然としてタルパは存在している、と考えることも出来るだろう。
消滅を再把握と解するならば、このような現象もタルパの消滅に含まれることになる。

後で詳しく考察するが、この特殊な場合がタルパの分裂・統合の現象にあたる。
例えば1人のタルパが分裂して2人のタルパになった場合、元のタルパは分裂後のそれぞれのタルパの存在本質において理解される限りでは存在していると考えられるのだが、タルパの全体性としては明らかに異なっているのであって、確かにタルパ消滅現象が起きているのである。

ただし、ここでは次の事態とは明確に区別すべきである。即ちあるタルパが複数の個体に分裂して行動出来て、かつ元の一個体に統合して行動するのも自由であるといった場合。
この場合の分裂・統合は明らかに副体的な現象であり、ここで論じている消滅現象との関連は無い。
実際そのようなタルパにおいては分裂・統合前後を合わせてその全体性が与えられると解釈されるだろう。


読者はこの帰結を受け入れられるだろうか?タルパの分裂や統合は、現象論的には明らかにタルパ消滅現象の一様態なのである。
これは誤った推論や歪んだ解釈などではあり得ない。何故ならば、私はここまで独断論的な仮定を何一つ持ち出さずに、ただ目の前に広がる素朴な現象を丁寧に掘り下げてきただけなのだから。

消滅現象の二契機はすぐに分かる通り把握の全体性に基づいている。したがって、ここではタルパ消滅現象の境界付けがその全体性をも直接に明らかにしている。
この事実が、全体性の違いを存在本質の違いとして解釈すべき最大の――そしてここまで読み進めてきた読者であれば大いに納得できるであろう――根拠なのである。

これで創造・オート化・消滅の現象に関する個別の現象論的考察は完了した。「個別の」というのは、これらの現象から形作られるであろうタルパの境界付けや全体性は未だに何も得られていないからである。
従って第三部ではタルパの境界付けおよびタルパの全体性の解明を行うのであるが、その前に先に挙げたタルパ消滅現象の日常性における素朴な問いにひとまずの回答を簡潔に与えておきたい。



§5.5 タルパ消滅現象に関する素朴な問いへの回答

そもそもタルパは消滅し得るのか?

§5.1でタルパの全体性についての予告をしていた通り、この問いにどう答えるかによって異なるタルパの全体性が与えられるはずなのである。
ただし、まさにこれが最も重要なことであるが、我々はこの問いに素朴な意味で自由に答えることは決して出来ないのである。

何故か。それは我々が把握を素朴な意味で自由に行うことが出来ないことに由来する。
自己を自己として何らかの本質・形相において知覚している者は、同時に何らかの把握のもとにある。このことは、仮にそうでなければ如何なる理解も――無論妥当でなかったり混乱していたりするような理解もまた同様に――不可能であることから自明である。
その把握はある種の制約を己自身に投げかける形で持ち込むだろう。この把握から抜け出して、人間は真に自由に振舞うことが果たして出来るのだろうか?

まさしく懐疑主義はその理想を追い求めた結果、もはや自己を理性の奴隷と化してしまっているように見える。
人間にとって唯一の真の自由への道と思われた懐疑主義は、何らの他者や個物を理解する領域を残しはしないのである。

それを可能であるのは、ただ我々が自己を自らその対象に宿命的に投げかける場合に限られる。
我々はこの意味においてのみ、そしてそこで把握される全体性の限りにおいて真に自由であり得るのだ。

したがって自由の観念こそ全体性によって規定されているのであり、自由とは決して偶然でも無規定でもない。このように自由を規定すると、自由は人間の特権ではなくなるし、それどころか任意の事物が自由であるとさえ言えよう。
ここから「タルパが自由である」とはどういうことかがタルパ現象論によって把握されるのである。
この話は主題の範囲を逸してしまうので、また別の機会に取り上げたい。

未オートに近いタルパほど消滅しやすいのか?

未オート、言い換えればオート化現象があまり生じていないということは、それに伴う態度の変化もあまり起きていないことになる。創造現象にも態度の変化が伴うのであったが、創造それ自体は把握の現象であるわけで、態度の変化はむしろオート化現象としての側面として解釈されることになる。
だから態度の変化が起きていないということは、タルパを理解する態度がそれ以前の個物――タルパの姿形や性格そのものとしての個物――を理解する態度と区別されていないことを意味するのである。

一方で、消滅しやすいとはどういう意味だろうか?
消滅とは把握の現象であるから、そこにおいては何らかの全体性が把握されることになる。そしてタルパの全体性は創造・オート化・消滅現象の全体性に基づく態度、言い換えればタルパを理解する各々の態度の境界付けから得られるのであった。
この事実は後でタルパの境界付けを行う際にも利用することになる。

このような各々の態度がタルパではない個物を理解するそれと区別されないというのだから、そこから得られる全体性は容易に再把握され得る、即ち「未オートに近いタルパほど消滅しやすい」と確かに結論されることになる。何故ならば、他の個物を理解するような態度はタルパを理解する態度と比べてずっと広範な境界付けが成されているだろうから。

また以上の考察からは次の帰結も得られる。
未オートに近いタルパほど統合は生じやすく、分裂は生じにくいのである。
分裂はタルパの全体性の一部が他の全体性として把握される現象を契機とするのであったが、この現象が起こるためにはタルパの全体性を理解する態度が十分に分析的でなければならないことが分かる。
自由による把握は専ら総合的な態度を与えるものであることを考えれば、そのような態度は少なからず喚起による把握によらねばならない。

この時点で創造現象の様態によらずに先の命題を示すことが出来る。
タルパ創造現象にも喚起を契機とする様態があり得たが、それはまさに他の全体性からの創造を意味するのであったから、その喚起による分析的態度は元のタルパの全体性を分裂する限りにおいて分析的であるにすぎないのである。
ただオート化現象にも自由による把握を契機とする様態があることを考えれば、先の命題は未オートのタルパに限らず喚起による把握を受けていないタルパ一般にも当てはまるだろう。

タルパに関心が向いている限りは消滅しないのではないか?

これについては§5.3での考察でほぼ完結している。
ただ唯一の個体としてのタルパに関心を向けるというのは能動性の働きであり、その能動性は把握の現象として現れるのであったが、タルパ消滅現象もまた把握の全体性に基づいて境界付けられているのであった。
明らかに、タルパに対して能動的であることは何ら消滅可能性を減じるものではないのだ。

一度消えた後に再び元に戻り得るのか?

この問いに対する答えもやはり明らかだろう。
「元に戻った」と言われるためには消滅の前後で同一の実在の観念が維持されていなければならないが、§5.3によれば消滅現象によって「消滅する」と言われるものはまさに実在の観念なのであった。
つまり、第三の問いと第四の問いの両方に肯定的に答えることは全く矛盾しているのである。

ここでは第三の問いには否定的に答え、第四の問いには肯定的に答えることになる。
何故ならば、タルパの実在の観念はタルパの全体性の概念に還元され、消滅現象においては当のタルパの全体性が再把握されるためである。

それでも次のような反論があるかもしれない。「再び元のタルパの全体性を再把握すれば、結局は元に戻ったと言えるのではないか?」
しかし、そのような全体性が元のそれと同一であることは現象論的には全く保証することは出来ないのである。

さらに言えば、元のタルパの全体性を素朴な意味で自由に把握することもまた不可能である。
その理由は第一の問いへの回答と全く同様である。



後記

タルパ消滅現象の考察だけで随分長くなってしまったが、おかげでタルパの全体性や境界付けまで後一歩のところまで迫っている。もうこれまでの成果を組み合わせるだけで十分なのだ。

全体性の概念がここまで重要視されている理由は理解していただけただろうが、まさにその理由によってタルパ現象論はタルパ治療学の正当な上位互換に当たる。これまでの足跡を辿れば、タルパ治療学からタルパ機械論の『機械論における「受動」と「能動」』を通してタルパ現象論へと至ったのである。
何故かと言えば、タルパ治療学そのものが§5.3で触れたオート化現象だけからなる全体性としてタルパを解釈していたからだ。
だからこそタルパ治療学での創造の解釈は非常な困難を避けては通れなかったのだった。

タルパ現象論は、即ち全体性の観点においてタルパ治療学を素直に拡張しているのである。
それどころかタルパ現象論ではあらゆる全体性を考慮するという点で、方法論的な拡張をも含んでいる。
これはタルパ研究における極めて大きなパラダイムシフトだと言えよう。

ところが、この理論はある意味で残念な帰結ももたらした。
§5.3で人間は人間の全体性にその創造を含めないという話をしたが、これはタルパにとってのタルパの全体性にも当てはまるように見えるのである。
言い換えれば、タルパ自身はどうしても創造・消滅を含めたタルパの全体性を語りえないように思われるのである。
これはあくまでも素朴な解釈であるが、だからこそこのような全体性の障壁を乗り越えるにはタルパの概念そのものの大きな拡張が必要となるだろう。そしてこのような「乗り越え」は理論ではなく実践によってなされねばならないのである。

もう一つ、§5.2で触れた邂逅型の解釈について、ここでもう少しだけ注意を促しておきたいことがある。
『タルパとタルパーの関係から見るタルパ創造現象の分類』では邂逅型は「自己が持つ文化的背景や民族性に影響される」と結論していた。
これは即ち共有された全体性に文化性や民族性が内包されるという意味なのだが、ここには民族主義的なニュアンスは一切含まれていない。
ここで想定されているのは、ある共通の趣向によって作られるような全体性のことなのである。例えばあるタルパーが多くのタルパを創るならば、それらのタルパ間にそのような全体性が成立し得て、その全体性の限りにおける邂逅型タルパが現れるなどといったことも考えられるだろう。いわゆるダイブ界の住人などには(大抵の場合には不完全で混乱しているとしても)この解釈が適用できる。

今までの考察をまとめれば、事情はこうである。
即ち、創造型が邂逅型の創造されている限りにおける特殊な場合なのではなく、邂逅型が創造型の共有された全体性に基づく限りにおける特殊な場合なのである。
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