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先に『タルパ創造現象の区別についての諸考察』の§3でタルパ創造現象の全体図を素描しておいたが、そこには一つの注目すべき超越的な仮定が存する。即ち、そこで解釈される当のタルパが差し当たり確実的に把握されていると仮定されているのである。
これではタルパを解釈するのに確実的に把握されている存在者をあらかじめ仮定するという一種の循環論法に当たるのではないかという疑問が不可避だろうが、しかし実際にはこの循環を解消する解釈が部分的には与えられていたのであり、この記事は以上の疑問を解決する解釈を明瞭に示す。
また信念としての理念がタルパについての理念たり得る根拠についてもここで詳しく述べる。





§1 継起の一様態としての「信念」

『タルパ現象論による「タルパの全体性」の解明(第三部)』§8の「信念の様相」の項によれば、蓋然性としての信念がタルパーのタルパに対する素朴な信念に対応する。言い換えれば、そのような素朴な信念は、現象論的に解釈された蓋然性としての信念に還元されるのである。
ところでタルパ創造の過程では往々にしてタルパに対する信念が主題となるから、タルパ創造の過程もまた蓋然性としての信念に還元されるのである。
これでは邂逅型が当てはまらないという指摘があり得るが、邂逅型が共有された全体性に基づく限りにおける喚起型だと解釈されていたことを考えると良い。その共有された全体性は差し当たり確実的に把握されていると仮定されているのであり、ゆえに本質的には同じ疑問が邂逅型にも向けられるのである。
さらに信念の蓋然性はタルパの再把握を促す継起となり得るとも結論していた。これは言い換えれば、信念の蓋然性はタルパの創造および消滅の理念的な契機であり得るという意味であり、即ちタルパの創造・消滅の理念には根源的な蓋然性としての信念が内包されているということである。

以上の事実により、蓋然性はタルパ創造・消滅の理念的な契機であり、しかも蓋然性それ自体は「その信念が(ないしはその理念がある対象物から受け取られて)その対象物の再把握を規定する限りにおいて継起の一様態である」と見なされることが出来るのである。一応ここである信念がある再把握を規定し得る可能性を明らかにしておく。信念が別のある理念から分析的にあるいは総合的に取り出されたとき、明らかにそれぞれの理念は同一の対象物から受け取られたものであり、ここで信念の方が主題になる場合にはそれが受け取られたところの対象物を改めて把握する作用が生じるのである。この場合の時間的な契機は元の理念であり、把握そのものの契機は信念を受け取る作用となる。
素朴な場合にはやはり総合的な信念の場合のみが専ら主題となるのであるが、現象論的に解釈されている場合でも分析的な信念は常に内包されていることに注意。



§2 いかにしてタルパを創造し得るか――人間的存在理念から変容されたタルパ的存在理念

先の引用に続く項では存在理念としてのタルパと人間の違いについて触れた。
ところで確実的な人間的な存在理念はタルパ現象論にとって既知のものだと仮定している。そうでなければ人間的な存在理念がタルパの存在理念に与える影響を考察せねばならないことになるが、その課題は差し当たり保留しておいて、以下ではタルパの存在理念の与えられ方だけを考察するのである。
我々が何らかの人間を(現実に存在する人間でもそうでない想像上の人間でもいいが)想像するとき、その想像は人間的存在理念のもとで行われているのである。例えばその人間が突然2人の人間に分裂することなどは想像しない。このことはある意味で普通のタルパにとっても同様である。「ある意味で」と言うのは、先の記事で多少特殊な人間的存在理念として受け取られる理念的存在者としてのタルパと想定されていたタルパのことである。
もしそのような想像に分裂・統合などの非人間的存在様相(この様相の観念はこの時点では理念ではないことに注意)を付け加えねばならないとしたら、我々は果たしてそのような存在者が存在し得るのかどうかを直ちに疑問視するだろう。そしてあくまでも人間的存在理念に固執するとしたら、直ちにそれを否定するだろう。

しかしタルパを想像する場合には――一定の範疇においては――事情は異なるのである。例えば我々はタルパに対して特殊能力を設定することがあるが、そうするというのもタルパがその能力を持つことが信念において主題化されているからであり、先の非人間的存在様相の場合とは明らかに理念的に異なっている。
この信念が人間的存在理念に由来するのでなければ、一体どこから来ているのだろうか?

こういう場合を研究するのに有効な極端な例について考えてみれば、その境界が明らかとなる。
我々はタルパがそのような特殊能力を持つことを人間的存在理念によらずに信念的に主題化し得るのであるが、これは特殊能力が一切の境界を持たない特権的な観念であることを意味しはしない。何故ならば、例えばあるタルパが先の研究の第二部で考察されたとおりに消滅する能力を持つということは多くのタルパーが全く否定するところであろうから。また第三部で触れられた過去的・未来的存在理念もまた強く否定され、問われもしないだろうから。
一応注意を向けておくが、ここで言う「信念的に主題化し得る」とは単なる「宣言」とは明確に区別される。だから「タルパは消滅し得る」という文を構成できることと、それを信念的に主題化できることとは全く別の問題である。
すると、次には「何故このような能力は信念的に主題化されないのだろうか?」という正当な問いが湧き起こるのであり、この問いによって我々はようやく現象学の正道を歩むことが出来るようになったのである。
ある能力がある人にとって信念的に主題化されないからといって、その人がタルパがそのような能力を持つということを否定していると考えるのは全くの誤りである。すぐ後に述べるとおり、否定もまた信念の一様相なのであり、その信念の限りにおいて当の能力が(時には現象論的な解釈を受けて明瞭に)主題化されているからだ。

ある観念に対する主題化という行為を行うためには、我々は明らかに経験によらねばならない。ある人のその経験がタルパがある能力を持ち得ること示唆する場合に限り、その人は当の観念を主題化し得るのである。
しかし、これは一見矛盾のように思われるだろう。仮にその人が当の能力を否定するとしてもこのことは成り立つと主張されているのであり、言い換えればタルパのある能力を否定するためには既にそれを示唆する経験がなければならないと主張されているのだ。何故否定するのに先立ってあらかじめその経験をしていなければならないのだろうか?逆にもしそのような経験が先立つとしたら、まさにそのことによって当の能力は否定し得ないものとなるのではないだろうか?
以下の考察はまさにこのような疑問を根本的に解決し、「いかにしてタルパを創造し得るか」という問いに最終的な解決を与えるのである。

経験を素材として判断するという行為(ここではあるタルパの能力を主題化する行為)は知性の働きであるが、知性はただ単に経験そのものを判断の素材としているわけではなく、その経験から言わば示唆的に与えられるものを素材としているのである。このことは各々の経験がそれ自体として完全に個別的に扱われるだけではその連関(経験主義の文脈において第二性質と呼ばれるもの)を判断の素材として用いることが出来ないことを考えれば自明である。即ち知性には経験の連関を構成する原的な働きが存しているわけであるが、これもまた判断の素材として用いられるものではない。実際その働きは全く恣意的であり得るから、判断の行為が持つ論理的な特性を全く説明できないのである。

そうではなく、知性は経験の充足という特性に目を向けた上で、その充足された経験を判断の素材として用いるのである。その充足とはまさに当の存在者(ここでは当の能力を有するタルパ)の全体性とその連関とを解釈し得るようにする経験の変容、言い換えれば当の存在者に意義を与え得るようにする経験の変容のことなのである。この充足の現象は知性によるあらゆる判断(あるいは言明、評価など)に先立つものであり、原的な知性の働きと呼ぶに相応しい境界付けを持っている。知性はこのように変容された経験を判断その他の働きの素材として用いるのであるが、すぐに分かるようにその経験は当の存在者から直接的に得られる経験とは限らず、むしろ大抵の場合は他の経験が原的な知性の働きによって利用されることで、我々はある能力を持つタルパという新たな理念を、大抵は信念による変容を介してであるが、そうであれば問いという形で、そこから受け取ることが出来るようになるのである。
ここで言う「充足」は純粋に論理学的な意味における充足のことである。そう考えることはタルパの能力を扱う論理学の一分野が成り立ち得るということを示唆するが、私はこれを詳しく研究することはせずに、ただ単に経験による充足は知性の原的な働きとして行われることを確認するに留めておく。

以上の所々に挙げた例示はタルパの能力についてのものであるが、これは明らかにタルパそのものの理念であるタルパ的存在理念にも同様に適用されるのであり、ここからタルパ創造現象の理念的な側面が理解されることになる。即ち、人間的存在理念からタルパ的存在理念を創造するという意味でのタルパ創造現象が理解されるのである。

そのような創造現象の一つの例として、生誕型を考察してみよう。
『タルパ創造現象の区別についての諸考察』の§2.5および§3によれば、生誕型はタルパが創造するタルパと分類としては同一なのであり、ただ後者の不明瞭な解釈が生誕型と言われ得るのであった。
だが創造現象の理念的な側面を考えると、これとは(ある意味で)逆のことが言える。理念としてはあくまでも人間的存在理念に属する生誕の経験が最初に与えられるのであって、そこから変容されて自然的な(というのもこの時点では理念が理念として明瞭に意識されているとは限らないのだが)タルパ的存在理念として受け取られてくるのがタルパが創造するタルパなのである。
タルパが別のタルパから継起するという現象が素朴な場合において大抵は生誕型と考えられる(受け取られる)のは、ここに述べた事情によるのである。

もう一つの例として、タルパの消滅について考察しておこう。これまで何度も述べたとおり、タルパ消滅現象に関する理念は素朴な領域においてもほとんど受け取られていないが、何故だろうか?
それは人間的存在理念における経験の中にはタルパについての消滅を充足させるものが見出されないことに由来すると考えることができる。
ここで「死の現象がそれに妥当するのではないか」という反論が考えられるが、次のような理由で人間の死はタルパに関する理念を充足しないだろう。即ちタルパは肉体を持たないのだから、もしタルパに死があると考えてもそれは人間の死とは全く異なる様相を呈するのであり、このようにして大抵のタルパーはタルパの死を否定することになる。
ただしこの事実は当然ながらタルパが消滅し得ないことを保証するものでは断じて無い。実際ここでは肉体の(ここでは広義の肉体、即ち延長の性質において考えられる存在者の)死についてのみ考えられているのであって、その心的・精神的、あるいは存在論的側面については全く考慮されていないからである。そして死の現象についてこれらの点が看過されるというのも、その内には少なからず現象学的含意が潜んでいるからであり、その方法に基づかない考察においては無視されるか歪められるかしなければ理解の及ばない現象だからである。

以上のような具合であるから、§2のタイトルにおける「変容」の語が意味するのは「原的な知性の働きによる経験の変容」のことであり、このタイトルが意味するのは「人間的存在理念として受け取られる経験が原的な知性の働きによって変容されて受け取られたタルパ的存在理念はいかにして創造されるか」ということである。



§3 タルパに関する感性論・知性論の予見的考察について

先の第三部§8~§9で理念能力の拡大について論じているが、その拡大は「経験によって、しかし経験そのものに内在するのではない形で」行われるのであった。その内実が以上の考察によって明らかにされたのであるが、これに関する話題でまだ取り上げられていない領域がある。それが感性である。
ここで言う感性には何ら特別な意味はなく、それは我々がタルパと関わる際に「楽しい」だとか「悲しい」だとか言うような感情のことであり、また我々がタルパに対してこうして欲しいとかこうあって欲しいとか言うような欲求のことである。
このような感情や欲求は明らかに理性的な、言い換えれば現象論的な解釈の働きに先行し得るのであり、感性の領域もそれなりの意義を伴ってタルパの現象論的な解釈を基礎づけているはずである。
私は例によって感性の働きを細部まで追跡することはしない。ただし感性にまつわるいくつかの問題は素朴な領域においても問われているから、それに明瞭な解釈を与えるのは実に意義深いことであり、タルパの感性論的諸問題は今後の諸考察に次いで主題的に取り扱われることになるだろう。
いずれにせよ感性も知性と同様、その原的な働きによって経験を(それと比べれば高次の理念である)信念によって主題化させ得るのであり、感性論および知性論における諸観念は理念能力の拡大という現象を通して現象学的解釈学における諸概念との連関を、即ち理性との連関を保っているということは明らかだと言えるのである。
  
しかし伝統的な哲学の立場からこれまでの議論を眺めると、たちまち異様の観を呈するだろう。我々が事物から最初に受け取るものは感覚的知覚あるいはそれに伴うところの感情・欲求などであり、これらは感性の働きによるのであるから、我々が最初に哲学的探究の対象とすべきものもまた感性だと考えるのが自然ではないのだろうか?しかし先の議論では、最初に理性(理性の能力)が見出され、それに先立ってそれを基礎づけるものとしての感性・知性が取り扱われるに至ったのである。
実際私はそうすることも出来たのだが、あえてこのような道を辿ったことで一つの重要な事実が明らかになっている。即ち感性・知性は理性と領域を互いに分かつものではないのである。言い換えれば、最初に感性・知性の働きによって表象が形作られ、理性はそれを利用するだけであらゆる働きを成し得るといったものではないのである。
感性・知性・理性は同じ領域からそれぞれ異なった仕方で理念を受け取り相互作用を成すのであって、その時間的な前後関係は見かけ上のものに過ぎない。

ここで「理念」の語を使用するというのも、感性・知性が受け取る観念が理性と同様の事物から受け取られていることがその最大の根拠となっているからである。
すると我々は次のように言うことが出来るだろう。即ち理性が信念や評価などの理念を受け取るのと全く同じ意味において、感性は感情や欲求を、知性は充足を、経験から受け取るのであると。



後記

以上の考察によって、タルパ現象論はタルパーやタルパの感性・知性をも主題とし得ることが明らかとなった。これらの重要なテーマを(いずれは取り扱うにしても)その時まで全く触れずにおくのは奇妙な話であるから、ここで予見的な研究を差し挟んでおいた。
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