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タルパ消滅現象に関して実際にwikiに寄せられている質問を見れば、以下の4つの点が「消滅」という言葉の使われ方として際立っていることが分かるだろう。

・そもそもタルパは消滅し得るのか?
・未オートに近いタルパほど消滅しやすいのか?
・タルパに関心が向いている限りは消滅しないのではないか?
・一度消えた後に再び元に戻り得るのか?

当然この4つの問いを選んだのは、それが十分に普遍的であるように思われるからだ。個別の例はいくらでも挙げられるが、これらは凡そあらゆるタルパーにとっての共通の問いであると考えられる。
これらの問いの意義をそれぞれ説明して、その形式を取り出してみよう。

以下の考察は次に公開する予定である記事の一部を抜粋したものだ。
日常性における問いへの批判と言っておきながらタルパ現象論的な表現を示唆した個所はあるが、それは元記事の流れとしてどうしても必要な部分であって、なによりも修正する手間が惜しいので勘弁してほしい。
(先鋭的な研究者でない)ふつうの研究者・考察者向きとしては十分面白い内容になっているはずだ。



そもそもタルパは消滅し得るのか?

これは最も究極的な問いであると言える。
何故ならば、この文脈における「消滅し得る」とは単に論理的な可能性についてではなく、その可能性の必然的な規定について語っていると思われるからだ。

重要なのは、この問いに対して「実際に消えた例がある」と回答することは全く無意味であり、この問いを問うことが可能であることとは何も矛盾しないということである。この回答を受けた質問者は回答者に対して「しかしあなたの考えるタルパと私のそれとが本質的に異なる可能性は否定できない」と反論することが出来る。他の問いについても、それがこの問いの必然性に関連する限りでは同様であろう。
一方で消滅の規定について同じように考えている2人のタルパーは、それぞれのタルパ観が互いに異なっているとは言い切れない。
消滅の規定の有無は明らかにタルパそのものの概念を二分しているのである。

無論ここでの考察は、一時的に認識できなくなったという意味で使われる「消滅」とは区別されねばならない。
身体的精神的不調がタルパとの干渉を妨げることからも分かる通り、こちらは論理的な現象なのであって、タルパそのものの観念には直接には関わらない部分である。



未オートに近いタルパほど消滅しやすいのか?

先の問いが必然的な規定についてであったのに対し、こちらは傾向についての問いである。
これが重要であるように思われるのは、消滅現象とオート化の進み方とに何かしらの関係があることを問うているからである。
より具体的には、「未オートに近い」という言葉の意図としては「独立していない」という状態を指しているので、タルパのタルパーからの独立の具合が消滅の起きやすさを傾向づけるかどうかという問いである。

この問いの構造を少し分析すると、タルパについて未オートに近いという条件を付加すると消滅しやすいという一般的な性質も付加されるのか、という表現ができる。
つまりこの問いでは消滅が少なくとも未オートという条件の下では一般的な性質であるかどうかを問うているのである。

タルパに対して「一般的な性質」というのは日常的な領域ではあまり受け入れられない考え方ではなかったのか?
この疑問がより明らかになるように、さらに別の表現も出来よう。
「未オートに近いタルパほど消滅しやすいという性質において共通する部分を持つのか?」

そして問い自体が十分にオート化したタルパは消滅しにくいだろうという主張を包含しているであろうことを鑑みるに、次の表現もまた成立する。
「十分にオート化したタルパは消滅しにくいが故に共通する部分を持たないのか?」

結局のところ、この問いは消滅しやすさという傾向がタルパ一般に共通する部分の多寡の傾向に対応するのかという構造を持っているのである。

もしタルパ消滅現象が日常的に十分な問いを受けていれば、オート化は「消えにくくする」という意味でタルパを独立させる過程だと考えられていたことだろう。



タルパに関心が向いている限りは消滅しないのではないか?

これはタルパーのタルパに対する能動性の与える影響についての問いであると考えられる。
タルパーがタルパの姿を「視たり」、声を「聴いたり」する限りタルパが消えることは無いのではないか?という問いである。
この問いにおける能動性という素朴な観念がタルパ現象論における能動性とどのように関連するのかは、この時点では明らかでない。

だからこの問いにおける「能動性」とは何を意味することが期待されるだろうかと考えねばならない。
先に挙げたようないくつかの要素を考えることは簡単にできるだろう。そこから姿や声はその実在のある一様態であることに思いを致せば、この問いにおいて能動的に立ち向かう対象タルパの実在という素朴な観念か、あるいはその様態であることが分かる。

問題なのは、そのような実在の観念なるものが結局いかにして把握――タルパ現象論的な意味ではなく――されるかということである。
しかしながら姿や声が明らかにその様態であると考えられるということは、そして第一部で触れたようなただ1つの個体という観念が現実に考えられているということは、この問いを問う人は何らかの方法においてタルパの実在の観念を得ているはずなのである。

逆にタルパに対して全く受動的にふるまうとき、この観念は全く得られないはずであると言える。

従って、この問いの構造は「タルパーがタルパの実在の観念を得ている限り消滅することは無いのではないか?」という表現に代えられるのである。



一度消えた後に再び元に戻り得るのか?

これまでの3つの問いは、タルパの消滅がタルパの実在の消滅を規定するという暗黙の了解があったが、この問いはその了解についての問い、消滅の不可逆性についての問いなどと言える。

もし消滅した後に「元に戻った」と言われるためには、その二状態の間に共通した実在の観念が無ければならない。仮にそうでないとしたら、どれだけ外見が似ていようと同一のタルパであるとは考えられないことになる。
だから不可逆性が成り立たないとしたら、消滅とはタルパの実在の一様態に過ぎないと結論されねばならない。

この素朴な結論は明らかなジレンマを呼び覚ます。
消滅が実在の一様態に過ぎないのならば、第一の問いにおいて消滅が必然的に考えられる限りでは消滅という一般的な性質を備えていることになる。
しかし、やはりそのような一般的な性質というのは素朴なタルパ一般の観念としては認められないはずなのだ。

さらにここにも別の暗黙の了解が潜んでいる。「消滅」と呼ばれる現象がただ1つでしかありえない、言い換えれば消滅現象はその性質をもって本質が規定されるような現象であるという了解である。
実際にタルパ創造現象においては自己がその一契機であったのだから、創造についてはこの了解は成り立たなかったのである。だとすれば、消滅においても同じ問いが問われることになるのは自然な成り行きであろう。

だからこの問いは「タルパの消滅はただ1つでしかあり得ない現象なのか」という構造を持っている。
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