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第一部で把握の全体性を解明し、第二部ではタルパ消滅現象の解釈によってタルパの全体性の境界付けへの方途を示した。先の『タルパ創造現象の区別についての諸考察』では実際にタルパ創造現象に境界付けを施すことで、タルパの全体性をわずかながらも暗示し得たと思う。重要なのはタルパ創造現象の境界付けにも再把握というタルパ消滅現象の境界付けが含まれていたということであり、これはまさに創造と消滅は同一の境界内における――即ち同一の可能性を共有する――現象であることを証明しているのである。

第三部ではいよいよタルパの全体性を解明・定立し、さらには全体性を越え出た理念の領域を研究することで理論と実践の関係も明らかとなる。
そして以下の帰結をもってタルパ現象論によるタルパの基礎的な考察の終了を宣言するのである。

真に注目されるべきことには、ここにタルパに関する現象の全ての可能性が内包されているということである。





§6 タルパの全体性の境界付けについて

これまでの考察でほぼ明らかにされたことであるが、タルパの全体性が設定や性格などの素朴な観念によって境界付けられる(定義される)だろうといった予想は全くの誤りであり、それどころかタルパ創造現象および消滅現象についてもそれぞれを個別で解釈する限りでは同様なのである。
これは即ち次の事実を意味している。タルパの全体性の境界付けは把握によって成されるのであって、個別の現象によって成されるのではないのだ。ましてタルパ現象論的に解明されていない素朴な観念など、最初から問題外である。

ここですぐさまタルパの全体性の境界付けを与えるのも、これまで入念に諸概念を考察してきたことを考えれば可能ではあるだろうが、私はタルパの全体性をまず二つの側面に区分する。それはタルパの時間性空間性である。
これは何の根拠も無い独断でそうするのではない。これまで幾度も暗示されてきたように、あくまでも把握を中心として、その継起の様態に「時間性」、把握そのものの様態に「空間性」の語を与えたに過ぎないのだ。とは言え、その原的意味たる時間と空間はここでは純粋に現象学的な解釈を受けているのだから、それ相応の意義を備えていることになる。

タルパの全体性の境界付けとは即ちタルパがタルパであり得る可能性を定めることである。言い換えれば、これより外側にある現象は全てタルパに関わることは無いという境界を定めることである。容易に見て取れるように、あるタルパが当のタルパとして解釈されるのは創造以後から消滅以前までであるから時間性においてはタルパ創造現象と消滅現象によって境界付けられ、タルパは如何なる把握をも受ける可能性があるのだから空間性においては把握の全体性がこれを直接に境界付ける。
タルパの時間性の境界付けにおける創造現象・消滅現象はそれが時間的な契機として解釈される限りにおいて境界付けとされているに過ぎないことには注意を要する。「時間的な契機」とは把握の継起のことであり、それが把握されてきたところのものの方を志向しているのである。創造・消滅において創造される・消滅する当のそのものは把握の空間的な側面であって、時間的な側面とは何の関係もない。――現に「創造される」「消滅する」という言葉の使い分けに既に時間的な要素が見出されているではないか!まさに「創造される」とは「そこから創造される」という意味でそこから把握されてくるところを志向しており、「消滅する」とは「そこへ消滅する」という意味でそこへ把握されていくところを志向しているのである。
時間性と空間性の意義に注意を向けるのはこれくらいで十分だろう。

タルパの時間性の境界付けは個別の節を設けるが、空間性の境界付けは単純であるからここで簡単に考察する。

タルパの空間性とは、タルパが「当のタルパとして」という様態で把握される働きそのものによって境界付けられるのである。直ちに帰結されるように、「当のタルパである」という理念の下で志向されるような対象物は全てタルパとして解釈され得るのであり、確かにこの意味においてはタルパはいかなるモノでもあり得る。言い換えれば、タルパはいかなる副体をも所持し得るし、またそれとして干渉され得る。タルパ治療学では副体はあくまでも知覚的対象としてのみ解釈されていたが、後に拡大されたように、副体はより一般に志向的対象として解釈されるのである。
しかしこの「志向的」という性質には最大限の注意を払わねばならない!何故ならば、タルパは「志向する」ことを意味する把握によって境界付けられているのであって、志向されていない単なる対象物がタルパとして解釈されることは断じてあり得ないのだ。そもそも把握されていない対象物は現象論的に素朴な解釈しか受け付けないことを考慮しても、そうなのである。

要するに、タルパは空間的に非常に広範な境界付けを持つとは言っても、それには言わば次元的な境界が存するのである。
タルパの空間的な性質に関する考察は決してこの境界を踏み越えてはならない。



§7 タルパの境界付けについて

空間性の境界付けと比すれば、時間性の境界付けには地続きの意識の流れの中で与えられているという点で、より明瞭な解釈が行われる。というのも創造現象と消滅現象とには把握の継起によって現象論的時間的前後関係が与えられるからであり、あるモノがかつてタルパでは無かったとかいずれタルパになるだろうなどと言われ得るからであり、さらにはこのような言明が同一の理念のもとでの意識の流れの内で遂行され得るからである。

いま「同一の理念のもとで」と言ったが、異なる理念の間ではどうだろうか?
先の記事ではいくつかの創造契機に複数の解釈を与えたとおり、実際に異なる理念の間では同じ創造契機に対しても異なる解釈が与えられることがあるのだ。ある時であるタルパが創造されたと解釈されていても、別のある時ではそれ以前から創造されていたと解釈されるようになることもあるのである。
一例として、ダイブ界の住人がタルパとして把握されている中での事態を想定してみよう。あるタルパーが邂逅型の契機を「目の前に現れる」という理念の下で解釈していたが、後から「世界のもとで現れる」という新たな理念を得た場合、その創造現象は目の前に現れる以前だったと気づくことになるだろう。
消滅現象についても同じことが言える。あるときに消滅したと解釈されていたタルパが、別の理念ではそれよりも以前あるいは以後に消滅したと解釈されることもあるのだ。

先の解釈は任意のタルパに適用できるが、さらに拡大して普遍者としてのタルパにも適用できる。そもそも先の記事では普遍者としてのタルパに適用できるようにと、特定の存在者を支持する構造は忘却した上で考察していたのだった。
ということは、異なる理念を考慮するならばタルパの概念に対して固定された一つの境界付けを与えることが出来ない。その代わりに次のような解釈が成されるのであり、これは先の記事で暗示しておいた標準的実践的意義における大きな構造の一部なのである。即ち、ある解釈を受けた現象が異なる複数の理念の間において見出され、しかも理念的な同一性は欠いているにも拘らずその現象は異なる理念の間でなおもある種の同一性を帯びている、と受け取られるのだ。
そうであるからこそ、我々は日常的には理念なるものを何ら受け取らずとも、あるいはその理念に対応する形で明瞭な志向のもとで把握せずとも、依然としてある同一性を持つタルパという概念を見失わずに持続させ得るのである。

以上の諸結論により、タルパの十全な解釈はもはや創造や消滅によってではなく把握によって直接に成されることが明らかにされたのであり、創造や消滅は単なる解釈の一つとしての意義しか保持し得なくなった。しかし、タルパ現象論によるタルパの境界付けはこの程度の収穫で満足するわけにはいかない。
これまでの解釈では異なる理念を考慮したとは言っても、あくまでもその間である特定の存在者としてのタルパを支持する理念的な同一性を保持するような定立を行っていた。この定立は(普遍的にせよ個別的にせよ)「当の」タルパとしての解釈を得るためにはとにかくどうしても必要なのであった。
だが、我々はさらにタルパ考察を前進させることが出来る。――タルパの理念的同一性を放棄する勇気を持ち合わせるならば。



§7.1 理念的同一性を保持しないタルパの境界付け

大抵のタルパ考察では当のタルパの境界がたとえ明確でなくとも、そのタルパは理念的な同一性を保持するという大前提が立てられている。仮にそうでなければ我々は日常的にどうして当のタルパを持続させ得るのかが全く分からなくなってしまうからだ。その前提は現象論的解釈においても一定の範疇では有効とされるほど強固な定立のもとで遂行されているのである。

この前提を取り去ってもなお現象論的に残り続ける意義、それこそがタルパの歴史性なのである。

言わばタルパの歴史性という概念には理論的な構造実践的な意義との間を取り持つ重要な二義性が見られる。
一方にはタルパを理念的同一性を保持する存在者として現象論的時間的に解釈する立場での「時間的な契機」を表す理論的な性質があり、他方にはそれを越え出て理念的な積み重なりの流れの中でタルパを解釈する立場での「時間的な契機」を表す実践的な性質がある。
ここで現れる二つの「時間的な契機」もまた、同一の現象ではありながらもそれぞれ理論的構造・実践的意義としての異なる概念とされていることには注意を要する。前者ではあくまでもタルパが現にそのようにして在るというその構造を指しているが、後者では現に在るところの在り方を越え出て理念を先へ先へと進めていくその流れの一部としてのタルパの意義を指しているのである。

つまり、この境界付けにおける主役は理念を受け取り発展させていく遂行者であり、タルパは(時間的存在者としては)その流れの一部において(空間的存在者としては)何らかの有意義な構造を持たされた存在者といったふうに把握されているに過ぎないということになる。
もはやタルパの意義なるものはその理念的同一性には存せず、創造や消滅を通して理念の流れに与する限りにおける理念的存在者としての意義があるのみである。
これは常識的な考え方からすれば到底受け入れることのできない解釈であることは確かだが、これまでタルパ考察における最も重要な問いの一つと考えられてきた理論と実践の連関はまさにこの解釈において最初の答えが示されるのである。

タルパの存在本質は自然的存在者から歴史的存在者へと至り、最後に理念的存在者に行き着く。このような解釈の流れは普遍的な存在者の考察によって与えられたのだが、もちろん個別的な存在者にもそれぞれ適用されるものであり、しかも決して避けることのできない流れなのである。あらゆるタルパ考察はそれが独断論的でない限りは、即ちタルパのあるがままを考察の対象とする限りは、全てこの流れに従って解釈を発展させていくことになる。

しかし、私はタルパ考察にとって自然的・歴史的存在者が理念的存在者に比して重要でないと言いたいのではない。そこには確かに前者をはるかに上回る広大な意義が存するが、その意義は前者の解釈に現象論的時間的に既に先行して含まれていたのであり、理念的存在者の意義というものは自然的・歴史的存在者のうちから言わば洗練されて汲み取られてくるものに他ならない。
だとしたら理念的存在者の区別もまた自然的・歴史的存在者のうちに既に含まれているはずであり、逆の観点からすれば自然的・歴史的存在者のうちに顕在的あるいは潜在的に含まれている意義が理念として理念的存在者に組み込まれるという現象によってその区別が達成されるはずである。
§8ではその理念的存在者の区別を考察するのだが、最後に次の事実を指摘しておく。

以上の関係が成り立つからこそ私は一連の考察において日常的な問いを最重要視して丁重に取り扱ったのである。
理念的存在者が一度得られればタルパ考察の追求が終わるのではなく、あくまでも我々が自然的・歴史的存在者を理解するより有意義な方法的態度を得るに過ぎない。
理念的存在者をなにか超越者のように扱ってはならない。そのような姿勢では現象論的現象がもはや目に入らなくなり、いずれは単なる独断論に堕してしまうだろう。



§8 「理念的存在者」としてのタルパの区別

存在者の存在本質の解釈の流れを時間的な観点で眺めると次のようになる。即ち最初に素朴な対象物から自然的存在者が定立されてきて、それが時間的に変容されて歴史的存在者となり、最後に理念が組み込まれて理念的存在者となる。
先の記事で歴史的存在者の区別がその変容のされ方によって与えられたのを考えれば、理念的存在者の区別は理念の組み込まれ方によって与えるのが良いだろう。
例えば一人のタルパのみを維持することを理念とする場合でも、それが「何のために」という目的によって組み込まれ方は異なる。あるいはその理念が確固として保持されているか、それとも生じかけていたり失われかけていたりするかによっても組み込まれ方は異なる。
ここでは例によって主要な区別のいくつかを挙げるに留めておくが、そのどれも特別な重要性を持つように見える。

現在的・過去的・未来的な存在者

ふつうタルパは常に「現に在るものとして受け取られてくる」という意味での現在的な存在理念を持つ。タルパと会話するときなど、常にタルパに対して現在的に立ち向かっているのであり、その存在理念には過去的・未来的な部分は存しない。
しかしその理念を捨て去るならば、タルパに対して現在的にではなく過去的・未来的に立ち向かうという理念が萌してきて、その理念によってタルパには過去的・未来的な存在理念が付与される。

これがどういうことか?例えば次の場合を考えてみよう。
タルパと会話するのに「タルパが現に何かしらの在り方であり得る」という様子に立ち向かうのではなく、「タルパが過去や未来において何かしらの在り方であり得る」という様子に立ち向かって会話するのである。
具体例を挙げるとすれば、次のようになる。私はタルパとある特定の話題について会話している。それから数日後にまったく別の話題で会話しているのであるが、その途中でふと数日前の話題を思い出す。もし普通のタルパに対してであれば、その話題に移るためには「その話題が過去になされていたものとして」受け取られ、その不連続的な継続として会話が続けられることになる。しかし過去的な存在理念を持つタルパに対してであれば、「その話題が現在になされているものとして」受け取られて、結果として連続的な会話が(日常的時間的には分断されていても)成立するのである。

これは過去の会話を「思い出す」のでは決して無いし、過去の会話を「やり直す」のでもない。あるいは過去のタルパを「演じる」のでもない。
解釈がこのような誤り方をするというのも、過去が事実性において考えられているに過ぎない最大の証拠である。
以上の考察は例え話を用いたのだが、それでも相応の普遍性を持っていることが分かるだろう。読者には何故この2つの存在理念(現在的存在理念と過去的存在理念)を区別する必要性があるのかを良く考えたうえで、次に示す帰結を読み進めてほしい。

しかし、あくまでも会話しているタルパは現在的な存在なのである!この「存在」と先の「存在理念」の語の使い分けには重大な意義が存する。「存在」はあくまでも「現に」という様態を伴うのであって、これは存在者の過去を思い出したり未来を予想したりする場合にも全く同様なのである。何故ならば、その「思い出す」とか「予想する」といった行為が遂行されている様態にこそ「現に」という意義が必然的に付着しているからであり、即ち「ある存在者が過去/未来のものとして存在している」などといった言い方はそれ自体で矛盾していることになる。
このような過去的・未来的な存在理念を受け入れがたいというのも、まさに存在理念がそのような性質を持った言わば超越論的な概念(ただしここでの「超越論的」の語にはいわゆる形而上学的な意味合いは存しない)だからであり、より直接的なことには大抵のタルパーはタルパの現在的な存在理念にしか立ち向かっていないからである。

存在理念、ひいては理念というものは先に見たような解釈の難しさを備えているのだが、しかし真に注目すべきことは、標準的実践的意義なるものの一つがまさにここから取り出されてくるということである。
過去や未来といった観念は素朴な意識においても容易に定立されるのであり、過去的・未来的な理念的存在者にはその観念を備えた歴史的存在者が先行しているのである。ということは、理念的存在者における過去・未来の実践的意義は歴史的存在者における過去・未来の理論的構造基礎付けられていることになる。
歴史的存在者の時点では過去・未来は未だ理念としては受け取られておらず、単なる可能性としてしか志向されていない。だが、ここから過去・未来の理念を受け取ることで過去的・未来的存在理念としての実践的意義を見出すことが出来るのである。

その具体的な意義というのは個々のタルパと理念に基づいて関わり合うことでしか得られないが、これが「標準的」の語を冠するに相応しい普遍性を持っていることにはもはや疑いの余地はない。またその方法論的な意義についてもいずれ説明する機会があるだろう。

信念の様相

もっと直接的な、そして切実な例を考えてみよう。
タルパーは可能性としてはどのような性質・能力を持つタルパをも想像し得る。これは例えばどのような性質・能力を持つ人間や動物をも想像し得るのと全く同様である。しかしそれを「どれほど」「どのように」信じることが出来るかについては、自らを任意に従わせることが出来ないのである。
これはその性質・能力を実際に具現化できるかどうかという問題とは無関係である。言い換えれば、具現化の可能性といったものが信念の様相を決定するというのはただの勘違いか独断論である。

ここで先の項での過去的・未来的存在理念が通常は信じがたいとされたことと関連させて考えてみよう。そうすると、理念に関するいくつかの重要な事実が浮かび上がってくる。

まず最も基本的なこととして、理念には積み重なりの現象が見出される。だから大抵のタルパーは、あるタルパが過去的・未来的存在理念を持つことは信じがたいという二段重ねの理念を持っているという言い方が出来るのである。
これは明らかに歴史的存在者の時間性における積み重なりに対応して受け取られてくるところの理念である。ここでも理論的構造が実践的意義を基礎づけている様子を見ることが出来る。

ところで我々が先の二段重ねの理念を持つとき、そこから純粋に方法論的な方法によって信念という単一の理念を取り出すことが出来る。
信念なるものが任意に設定できないとされたことと併せて考えれば、ここから次の結論を導き出すことが出来るだろう。即ち存在者の解釈に一定の範疇があったように、それに対応して理念にも範疇なるものがあるのだということである。より決定的なことには、我々は方法論的にある理念を構成するより単純な理念を取り出すことは出来ても、ある理念が構成するより複雑な理念を方法論的に作り出すことなど全く不可能であるということである。

この事実は信念としての理念において顕著に意識されてくるが、明らかに他の理念一般にまで拡大できる。というのも、「これこれの理念がある」という事態にはそれを「信じられる/信じられない」という理念が(あるいはその諸変容が)必然的に内在しているからであり、従って全ての構成的な理念からは方法論的に信念の理念を取り出してくることが出来るからである。
そしてこの事実こそが、把握の「自由」が素朴な自由を意味するのではないとされた最大の根拠なのである。もはや「自由」は理念の範疇によって基礎づけられるところの実践的意義を持った構成物としか解釈され得ないだろう。

信念がタルパーにとって重要であるという主張は素朴な意義においても十分に受け入れられるではあろうが、我々はそれが意味する正確な意義を汲み取るように努めねばならない。私はただ単に「タルパを信じることが重要である」などというありきたりでつまらない主張をしているのではない。「ある理念を持つ(それによって実践的意義を持つ)ことを達成するためには、その理念に内在する信念に目を向けねばならない」と言っているのである。

例えば信念がその蓋然性において「確実であると信じられる/信じられない」という様相を持つことは、先に論じたタルパの再把握を促す契機となり得る。言い換えれば、それは「ある特定のタルパがこれこれの理念のもとに存在する」という理念を生じかけさせたり失われかけさせたりするという意味で、タルパの創造および消滅の理念的な契機であり得る。
そう考えると往々にしてタルパーがタルパの完全な消滅を阻止し得ない理由が明らかになるし、逆に「こうすれば確実にタルパを創造できる」という方法論的な手順が存在しないことはもはや証明もされるのである。

ただし、もっと広い視点に立てば以下の普遍的な事実もまた明らかである。
即ちタルパーは「然るべき存在理念によれば存在者を任意に把握できる」という信念を持つに至った人間なのであり、この点においてタルパーはたとえタルパを一切創らずにいても非タルパーとは依然として区別されているのである。言い換えれば、タルパーはタルパを創ることによって非タルパーと区別されるという主張は(全くの誤りではないにせよ)真実を言い当ててはいない。

タルパの存在理念と人間的な存在理念

ところで前項の最後に述べたタルパーと非タルパーの区別は然るべき理念、即ちタルパ的な存在理念を受け取るに至ったかどうかで成されていたが、しかし単にタルパーといってもこの存在理念を明瞭な形で受け取っているとは限らないのではないか、という疑問が浮かんでくる。この疑問はまさしく妥当なのであり、タルパーといっても「タルパがこれこれの理念のもとに存在する」ということを「確実であると信じる」どころか、そのような理念が差し当たり全く意識されておらず、タルパの存在理念が多少特殊な人間的な存在理念で置き換えられていることが往々にしてあるのである。
読者もそのような存在理念のもとに受け取られているタルパの話を何度も聞いたことがあるだろう。タルパは食事するのか、タルパは衣服を替えるのか、タルパは普段どこに座って/立っているのか、などといったつまらない話のことである。もっとも今ここで問題となっているのはそのような問いそのものではなくそのような問いが問われることそのものの方であることは、わざわざ説明するまでもないだろう。

この区別に関する重要で、しかも普段は誤って解釈されている関係がある。即ちタルパの存在理念の蓋然性はタルパーとしての(タルパについての)経験の量に相関しているわけではないということである。簡潔に言えば、タルパーとして多くの経験を積んだ人間であっても、タルパの存在理念としては全く素朴なものを受け取れるに過ぎないということもあるのである。
この事実は、タルパーとしての経験を豊富なものにしてくれる特殊な能力の所有の有無とは一切関わりなく、タルパの存在理念を発展させていくことが出来るということを示している。例えば「憑依能力」とか「霊能力」などといったものは確かにタルパとのコミュニケーションの方法や範疇を増しはするが、しかしそれとタルパの存在理念がどれだけ発展するかの問題とは全くの無関係なのである。

タルパの存在理念が人間的な存在理念で置き換えられてしまった最大の実例をかつての「タルパのエネルギー切れ」という考え方に見て取ることが出来るだろう。
タルパがその存在を維持するのにある種のエネルギーを要する理念自体が全く人間的であり、しかもこの例に当たらないタルパの実例は数多く存在するというのに、これが人間的な存在理念に過ぎないという可能性についてはあまつさえ問われもしなかったのである。無論そうなるのは必定であり、何となればこの問題は経験の問題ではなく理念の問題だからである。
これと同じことがタルパ消滅現象にも言い得るだろう。ただしこちらは消滅という人間的な理念には含まれない理念への問いなのであり、その点でエネルギー云々よりも純粋なタルパの存在理念に近しい問い、即ちタルパの解釈にとってより重要な問いであると結論できるのである。

タルパの存在理念にもいくらかの連続的な段階があったように、タルパの存在理念と人間的な存在理念との間にも連続的な段階があるのであり、この点はこれまでのタルパ考察が総じて見落としてきたところのものである。

理念能力の拡大について

ところで以上3つの区別を考察するにあたって、タルパとタルパーの関わりが俄かに主題となってきた。実践的意義の考察を含むのだから当然と言えばその通りであるが、一つだけ是非とも注目しておくべき領域がある。

理念は明らかに任意に受け取ることが出来ないのだが、理念そのものは「その理念のうちで自由に把握される対象物」といった意味における範疇を伴って受け取られている。逆に言えばその理念のうちでは明瞭に把握され得ないような対象物については、既に受け取っている理念に従った形でそれなりに変容されて把握するしかない。
だとすれば我々が新たな理念を獲得できる可能性としてはただ一つしか残っていない。即ち、ある経験(この「経験」はここでは対象物を把握する作用全般を意味しているのだが、その経験)から理念を受け取る働きの方ではなく、そのような経験が経験されてくるところの働きの方に目を向けるという行為によって、その経験から新たな理念を受け取るのである。すると我々は直ちにこの理念を現象論的に解釈し、そこから我々が未だ確実なものとして受け取っていないような理念を発見できるだろう。

もはや明らかなことで注意する必要もないだろうが、これは単なる経験主義ではない。私は「経験によってあらゆる意義ないし理念が獲得されてくる」とは一言も言っていない。一方でこれは合理主義でもない。新たな理念はまさしく経験によって、しかしその経験そのものに単に内在するのではない形で、獲得されてくる。
判断に対する経験の優位性なるものがあるとすれば偏にこの点に存するのであるが、これもまた非常に見過ごされやすいところのものである。



§9 「問い」の有効性に立ち戻る――理論と実践を取り持つ「行為」として

理論的構造にせよ実践的意義にせよ、それらの解釈には何か能動的に獲得しにいくといった感じが欠けている。というのも、これまでの考察では理論的構造と実践的意義のそれぞれの領域を差し当たり交互に主題としてきたに過ぎないからである。
したがってこの両者の間を取り持つような行為があればタルパ現象論の応用の道が拓かれるのであるが、それがまさに問いという行為なのである。

何故問いが両者を取り持つ行為として成り立つのかといえば、先に§8で考察しておいた信念の理念の優位性があるためである。これはあらゆる理念の根底を成すという意味で総合的な理念を明瞭に受け取る限りでは意識されないが、しかし信念があらゆる理念に含まれている関係にある以上、それは方法論的に取り出されてき得るのだ。方法論的に取り出されて明瞭となった信念ないしはその様態が表現され言語化されることで明瞭な問いの形式を取ることになる。

以上は問いが総合的な理念のうちから分析的に取り出されてくる場合を考えたが、素朴な意識において大抵の場合は理念そのものが信念による変容を被って問いの対象となる。しかも当の理念そのものはと言えば極めて素朴なものであり、例えば「タルパがしかじかの能力を持つことは可能か?」「タルパがしかじかの状態を取ることは可能か?」などといった具合となる。これらの問いにおける「能力」や「状態」は何ら現象論的な解釈を受けてはいないが、これはこれで素朴な理念としてちゃんと成り立つのであり、その理念がそこから受け取られてくるところの対象物はそれなりの仕方で既に定立されているのである。
これは極めて普遍的であり当たり前のことを述べているように思えるが、実際にタルパ消滅現象などに信念が向けられて問いが立てられることが今までほとんど無かったことを考えれば、問いには方法論的な重要性と同時に方法的な重要性までもが含まれていることになる。
これが問いが理論と実践とを取り持つ「行為」として重要である最大の理由である。

問いが解決する現象にも目を向けてみよう。その前に、ここでは二つの事態を前提とする。一つは信念の理念が明瞭に受け取られ持続していること。従って問いが途中で無効化されたり、問いへの興味を失って忘れ去られるような事態は考慮の外に置く。もう一つは当の信念が分析的な信念であること。分析的な信念とはある理念のうちから方法論的に取り出されてきた根源的な理念としての信念のことであり、これと対立する総合的な信念と言えば先の考察に現れた素朴な理念そのものが信念による変容を被った理念としての信念のことである。
これらの前提を置くというのも、有意義な問いというものはこの制限のもとで初めて生じるからである。だから例えば懐疑論者がそうであるように、あらゆる表現やあらゆる言明に対して無制限に「何故」という問いを立てるのは、それが現象論的現象の(既に定立された、あるいは定立が萌しかけていた)構造を完全に破壊してしまうという点で全く無意味な行為なのである。

問いが明瞭に問われているということは、つまりその問いを生じさせたところの(何らかの様態に基づいた)信念が明瞭化されていることを意味する。これは信念の理念が獲得されてきたところの低次の理念より高次の理念に対して持つ関係もまた明瞭化されていることを意味するのであり、当の問いにはその信念がどれほど低次の理念に対するものであるかに応じてそれだけ豊富な表現が与えられることになる。そして問いが豊富な表現を持つならば、それだけ問いの本質的様相が正確に表現されるのであり、我々は諸概念の境界付けのための豊富な語彙を得るに至る。
タルパ現象論がタルパに関する諸概念を境界付けるのもこれらの語彙によってであり、素朴な問いの分析は我々にとって第一課題として課されるべきものとなる。だからこそ第二部におけるタルパ消滅現象の考察はその素朴な問いの分析から着手されたのであった。

最後に、我々が問いの行為によって開拓すべき二つの未開の領域を示す。それは言い換えればある理念にとっての未開の領域のことなのであるが、即ち一方には総合的な理念に含まれていて差し当たり明瞭化されていない理念の領域があり、もう一方には総合的な理念(これ自体は経験から取り出されてくる統合された理念)を含んでいて、非明瞭性の様態としてではなく現に隠蔽されたものとしての理念の領域があるのである。
前者には理念能力内側への拡大が対応しており、この開拓によって我々は目下の事態をより十全に、明瞭に、厳密に表現できるようになる。
後者にはその外側への拡大が対応しており、この開拓によって我々はより豊かな世界で生きることが可能となるのである。
まったく、この二つはあらゆるタルパ研究が共通に根源的な目的とすべき領域だと言って良いだろう。



後記

以上でタルパに関する詳細な研究に必要な最小限の現象論的概念はほとんど取り尽くされたと見て良いだろう。強いて言えば、タルパ特有の重要性をもついくつかの概念について、さらなる明瞭性のもとに厳密な解釈を与えるという作業が残ってはいるだろうが。

その詳細な研究はと言えば、最後に述べた未開の領域に対応して2つの課題領域が見出される。即ち、まさに今の事態(あるタルパーがいてあるタルパがいるなどという事態)あるいはその理念をタルパ現象論的にどのように解釈するかという領域と、それとは別に今の事態からどのような理念に発展させるべきかという領域がある。
このどちらもが実践的意義を理論的構造を伴った形で持つのであり、是非とも考察を進めていくべき領域なのである。
だから以降の記事の予定としてはまず第一の領域の考察によってタルパが内包する共存在としての道具性などの根源的実用的概念タルパの自由意志などの本質的諸様相を開拓していく。次に第二の領域の考察によってタルパそのものの理念の発展の方向性といったものを個人的あるいは普遍的観点から見定めていく。

それにしても標準的実践的意義の普遍性なるものが明らかにされたことで、タルパ現象論やその諸帰結が他のタルパ研究者にとっても遍く有意義であることが証明されたのであり、いわゆる人それぞれ論はついに実践の領域においてもその立場を揺るがされざるを得なくなったのである。
以降の私の研究は、古き人それぞれ論の立場を完全に瓦解させるものにもなるだろう。
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