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先の記事ではタルパ現象論に基づいたタルパの区別について論じていたが、それは主にタルパの構造に着目したものであった。しかし既に準備的な考察として触れられていたように、タルパの存在はその構造を見るだけで全てを説明できるものではない。時間性や人間的・タルパ的存在理念などを含む存在理念は明らかに構造とは異なる要素であるし、信念についてはほとんど踏み入った考察がなされていない。
この記事の目的は、それらの要素を単純な図式として整理し、今後のタルパ研究の方向性を見定める基準を作り上げることにある。



§1 「現に」創造契機の解釈が可能であるのは何故か?

ところで『タルパ創造現象の区別についての諸考察』では創造契機を主題としてタルパ創造現象の考察を進めていたわけだが、どのようにして「タルパを創造する時点で」それら諸契機を主題化し得るのだろうか?例えば生誕型には「ある全体性(把握)が契機となって生じた」という時間的な契機が存するわけであるが、そのタルパが創造された後にそう解釈されるならまだしも、タルパが創造される当の現象に立ち会う瞬間において何故タルパがある特定の契機によって創造されると言うことが出来るのだろうか?もしかすると、我々は創造現象を外から眺めていただけで、それを経験する主体としての考察を欠いていたのではないだろうか?
つまるところ、現に創造現象に立ち会っている存在者から見て、ある瞬間にタルパがある特定の契機によって創造されたと事実的に解釈出来ることはそれほど自明なことではないように思えるのだ。
この問題を解決するには『タルパ創造現象の理念的な側面についての諸考察』§3において予見されていたタルパに関するタルパーの感性・知性に言及する必要がある。何故ならば、感性や知性は明らかに以上のような理性の働きに先行してそれを基礎づける働きを行っているのであって、件の解釈が実際に事実的になされ得るということは感性・知性のうちで解釈に先行する何らかの働きが行われていると考えるほか無いのである。
もし創造契機の解釈においてこのような働きを前提とするなら、それは循環論証を侵していることになる。

先の疑問が生じた根源的な要因は、理性がある現象に立ち会うその瞬間において「当の現象がしかじかの要因によって生じた」と解釈し得る根拠が自明ではないことにあるのだった。言い換えれば、理性がある特定の要因という時間的・空間的な一点に注目し得るにはそれを可能ならしめるに足る現象が先行せねばならないはずであり、創造の瞬間においては先行する現象が何も起きていないように見えるのであった。
これは感性・知性においても同様であるように思えるが、それらの原的な働きでは感性・知性がそれぞれ独立して理念を受け取るのだから、その理念は時間性・空間性を捨象して(通り抜けて)与えられることができる。
このことが(特に感性について)自明でないと思えるならば、俗に「複雑な感情」と呼ばれるものから適当に選んで、それをより「単純な感情」に還元することを試みると良い。例えば「感動」には然るべき(感動を呼び起こした)対象が理性によって把握されているはずであり、それが還元すべき要素となる。すると結局は快不快あるいは好悪といった極めて単純な感情に還元されるのであって、これは時間性・空間性を含まないということが結論される。
また、「感性・知性が理念を受け取る」という表現を用いる理由は『タルパ創造現象の理念的な側面についての諸考察』§3を参照。
感性・知性はその原的な働きによる生産物を基にしてそれぞれ(あるいは理性と)相互作用を成すのであって、この現象にタルパの創造契機を誘導する何らかの性質が存するならば、それが先の疑問に対する答えとなるだろう。

少なくとも感性・知性あるいはその相互作用が直接に時間的・空間的な一点を誘導することは無い。それには理性の働きを必要とする。つまり創造契機が誘導されるには理性との相互作用が必要であると考えられるが、これは結論を急ぎすぎている。結局は時間性・空間性を捨象している生産物が如何にしてそれを誘導するかが問題になるのであり、当初の循環論証が再び影を落としてくる。
すると実際に創造契機の事実的な解釈が可能であることを裏付ける方法としては次のように考えるしかなく、しかもその正当性は先の記事で実際に創造現象が上手く区別され得たことが逐一示しているように思えるのである。即ち、創造契機を直接に誘導するのは時間性・空間性を捨象された環境であって、事実的な契機はその頽落的な解釈――もとを辿れば、当の環境の事実的な解釈――に過ぎないと結論出来るのである。

「環境」という言い方はタルパを自然的存在者としてそれ自体で独立していると見た場合の言い方であって、歴史的存在者としてのタルパのような場合には「環境」が当のタルパの創造に関わる別のタルパであることもあり得る。そのようなタルパは現象論的時間的に自然的存在者としてのタルパに先行しているのであり、そのタルパの創造契機を誘導するものとして解釈することが実際に可能である。

だからこの結論だけを見て、創造契機の解釈に唐突に新たな要素が持ち出されたかのように感じるならば、先の記事での区別の議論を遍く誤解していることになる。
例えば先の記事では、創造契機としては生誕型とタルパが創るタルパは区別され得ないとされていた。この場合は当の創造現象が生誕的であるか否かの事実が不明瞭であるときに、区別についての問題が生じてくるのである。それでは、このパターンに当てはまるタルパは創造現象の事実的な解釈が不可能だと言ってしまって良いのか?断じて否である。何故ならば、タルパが事実として存在しているということが創造契機の事実性を裏付けているのであり、また事実的な解釈の可能性もここから与えられているからだ。
つまりタルパの創造契機の可能的な解釈は常に事実的な解釈に変化(転落)し得るのであり、先の記事での諸区別が(そしてそれらの区別に対する頽落的な誤解もまた本質的には)これを逐一実証していたのである。

すると感性・知性の生産物が如何にして時間性空間性を捨象した環境を誘導するのかが問題となるが、その生産物が時間性空間性を捨象しているのだから、理性がそれに正当な解釈を与えるならば、そこから構成的に環境を誘導することが出来るのである。
それとは別の働きとして、理性がそのタルパを然るべき存在理念のもとに受け取るならば、創造現象に後続してタルパの時間性・空間性が与えられるのである。

以上の考察から次の結論を引き出すことが出来る。
タルパ創造現象は常に可能的に生じる現象であり、その頽落的な解釈は事実的=後続的な解釈である。

これはタルパ創造現象の本質に関する一つのテーゼの提出だと考えてほしい。というのも私には、現象は常に可能的に生じるのであり、事実的な現象は可能的な現象に非時間的に後続するのだという帰結を否定することが出来ないように感じられる。即ち、時間における「今」には可能的な現象が生じる「今」と事実的な現象が生じる「今」の2重の意味を持たされているのであり、しかもその連関は時間的な前後関係を含意しないということは否定できないように思われるのだ。



§2 存在理念による区別

『タルパ現象論による「タルパの全体性」の解明(第三部)』の§7では、同一の理念のもとでのある特定のタルパはその存在理念によって創造されたり消滅したりすると解釈していた。そのあと§8では、理念の流れのもとでのタルパ(理念的存在者としてのタルパ)は過去的・未来的な存在理念を持ち得ると解釈している。
この2つの解釈によれば、タルパはその理念的存在者としての側面において新たな存在理念を得ることに伴って、自然的・歴史的存在者(実的存在者)として創造されたり消滅したりするのだと結論できるのだから、存在理念は創造現象の一要素であると考えられる。
ただし、これは次のことを意味しはしない。存在理念の変化に伴ってある時は特定の側面が現れ、また別のある時は他の側面が現れるようにして、より大きな(潜在的な)存在領域としてのタルパの一部分が我々の認識し得る(顕在的な)タルパとして現れるのだという解釈は誤っている。そもそも存在理念が変化した後の存在者は元のそれとは全く別の存在者なのであり、実的存在者としての同一性を保つことは決して出来ないのである。
私はここで心理学の一分野における潜在意識によるタルパ研究への論駁を試みている。
非論理的・非実的な全体としての潜在意識を仮定することは、必然性や可能性を解釈するのに可能世界を持ち出すのと同じである。その解釈が適用できる領域を確実に見定めねば、それらは往々にして越権的な主張を行うことになるだろう。
また次のようにも言える。タルパの存在理念が一旦別のものに変化した後に元の理念に戻ってきた場合にも、戻った後のタルパと元々のタルパとは実的存在者として全く異なっている。それどころかタルパの同一性についてだけでなく、その存在理念についても同じように言えるのであり、つまり存在理念については「同じである」ということが全く言えないのである。自然的存在者としてのタルパならばこの帰結は当然であり、歴史的存在者としてのタルパならば元々のタルパは歴史性による変容を受けているからやはり当然である。

ところで「存在理念」とは個別のタルパに属するのではなく、タルパーがタルパ(あるいはそれ以前の事物)から受け取っているものである。ということは、一人のタルパーが複数のタルパを創った場合、そのタルパ達は共通の存在理念のもとで存在していることになるし、それどころかタルパーが出会う他者の全てが(一定の限度までは)その存在理念のもとで存在していると言えることになる。
だから存在理念の変化によって創造される/消滅するのはタルパのような存在者だけでなく、タルパーたる人間が出会う他者(の観念)の全てにまで拡大されるのである。逆に言えば、我々が他者に対して持つ存在理念はタルパの創造/消滅にも大いに関わっている。
これが『タルパ創造現象の理念的な側面についての諸考察』§2の意味するところである。

個的に存在しているタルパが個的な性質を持つように、共通の存在理念のもとで存在しているタルパ達は共通の性質を持つのである。もう少し正確に表現しておこう。タルパはその実的存在者として個的な性質を持ち、理念的存在者として共通の性質を持つのである。個的な性質は事実的にも(しかじかの性質を具有する者として)解釈され得るが、他方でこれからどんなタルパが創られるのかは可能的な解釈によってしか語られ得ないのだから、共通の性質は可能的に解釈されるしかない。もっとも、これは理念的存在性質ということからして自明であるが。
この理念的存在性質は実的存在者たるタルパをしてその理念的存在に帰属させる本来的な動機の一つである。動機と言うのも、そこからタルパの存在についての「問い」が湧き起こってくるからであり、また『タルパ現象論による「タルパの全体性」の解明(第三部)』§9における「行為」の契機たり得るからである。

複数のタルパを創らないと決心しているタルパーにとってであれば、理念的存在性質は事実的にも解釈され得るのではないだろうか?もちろんその決心が存在理念として既に受け取られていることも十分に考えられる。その場合には、たった一人のタルパが実的存在性質を表現すると同時に理念的存在性質の表現も一手に担わされているのだから、もはやその解釈は可能的=事実的解釈にしかなり得ないのではないか?
しかし、理念的存在性質がたった一つの実的存在者のうちで表現されるからと言って、その理念的存在性質が持つ可能性が失われることは全くないのである。この場合には当の可能性は別の実的存在性質を持つ新たなタルパが創られる可能性としてではなく、まさに唯一のタルパが理念的存在者として新たな存在理念による創造・消滅を受け入れる可能性として残っている。
最初に前提した決心もまた信念の一様相であるから、それが超越的にタルパの同一性を将来にわたって保証することは無いのである。つまりこの解釈はより簡単に言えば当初の決心が揺らぐことについての可能性であるとも言い換えられる。
しかしこの言い換えは大いに誤解を招くだろう。決心したのだから、それが揺らぐ可能性は自動的に否定されるのではないか、と。だが私は何故にそんなことが主張されるのか全く理解できない。その「決心」が確かにタルパを見据えている保証すらどこにも無いのに。

存在理念の発展については1つ触れておかねばならない問題がある。既に『タルパ創造現象の理念的な側面についての諸考察』§2で示唆されている通り、存在理念は存在様相に関する思弁によって発展させられるわけだが、この仕組みの解明にも§1の考察が役に立つ。
個別の性質や歴史性といった存在様相から理念を受け取るのは理性の働きであるが、その働きの素材として知性・感性の原的な働きによる生産物が利用されているのである。理念的存在性質は純粋に可能性によって解釈されるのであるから、当の存在様相が事実的に解釈されている限りそれは存在理念に昇華することは無い。つまり、存在様相が可能性のもとで解釈されるようになったとき、それが存在理念に昇華する権利を得ることになる。だが必ずしもその全てが存在理念として組み込まれるわけではない。可能性のもとで解釈された場合であっても、その解釈が否定的である場合には存在理念として組み込まれるわけではない。ただしこの「否定」が意味するのは「論理的な否定」でも「心理的な否定」でもなく「信念の様相としての否定」である。創造現象の要素としての信念は§3で論じ、要素間の相互作用については§4で論じる。
また往々にしてそのような否定は事実的に解釈されるようになる傾向にあることに注意しておく。たとえ否定する当の存在様相が可能的な解釈を受けていても、その否定による変容は常に事実性に傾くのである。

直ちに明らかになるように、理念の発展は信念の様相に連続的に対応しているわけでは決して無いのだから、理念の発展は非連続的な(=非時間的・非空間的な)現象として解釈されるしかないのである。
理念そのものは連続的であり、即ち時間的・空間的であることに留意しておかねばならない。例えばある時点での一人の人間という理念は、「その人生において」という時間性を持ち、「個別性のもとにおいて」という空間性を持つ。その時間性・空間性の中で、ある時点での一人の人間という存在者は連続的な存在様相を具えた者として解釈されることになる。



§3 信念による区別

タルパの構成要素について素直に考えるなら、これまでに取り上げた創造契機存在理念で全て説明できるのではないかとも思えるだろう。創造契機は実的な性質を与え、存在理念は理念的な性質を与えるのだから、タルパの「存在」と言うときに含意される普遍的・個別的性質はこれで網羅されているのではないか。
しかし、ここで勘違いしてはならない。契機と理念による解釈の方法論を示しただけでは単なる独断論に過ぎないのである。実際この方法論に基づいて解釈するとしても、自ら方法を生み出せる者にとっては何の問題も無いが、そうでない者はどうやって適用すべき方法を見定めれば良いのか。あれではなくこれが良いとする何らかの基準が足りていないのである。その役割を信念が担っているのだ。
もう一つ疑問があるだろうが、それは直ちに解決されるだろう。即ち「何故事実をそのまま受け入れる働きではなく、曖昧さを持つ信念の働きなどというものを基礎に置かねばならないのか」と。§1で事実性に対する可能性の本来的な優位が示されたことに気づいたならば、この疑問はすぐに氷解する。本来的な事実性とは、確実さという様相を持つ信念に他ならないのである。言い換えれば、その可能性が(本来は存在理念として取り入れられるはずだったものだが)転落して解釈されたものが非本来的な(俗的な)事実性なのである。

別の観点から信念が創造現象の一つの要素であることを擁護しておこう。ここでの私の研究は存在論に基づくものであるが、その研究は「タルパ」というカテゴリーに向けた特殊的なものではなく、「タルパというカテゴリー」を研究するための方法論の研究なのである。もし単にカテゴリーを充実させるだけなら、それには何らの根拠が無くても一つの方法として尊重されはするだろう。しかしその場合には個々のタルパーがその方法を適用するための基準がまったく等閑視されてしまうのである。
私はここでそれらの方法を包括する普遍的な方法論を研究しているのだ。そこに「他人」とか「精神」などといったカテゴリーを最初から与えるわけにはいかない。このようなカテゴリーを与えるための方法論の研究こそが、この記事の主題であり、さらに言えばタルパ現象論全体の主題なのである。

以上で見てきたように、信念の作用は同時に可能的にも事実的にも働き得るという点で、他の要素とは大きく異なる。個々の存在理念や契機が可能的な解釈を受けているときは事実的な解釈を受け付けていないという排他性が見られるのに対して、信念の可能的な解釈は直ちに事実的な解釈に転落し得るし、逆に事実的な解釈は直ちに可能的な解釈に昇華し得る。このようなある種の流動性が信念の特徴であり、先に述べた方法の適用といった行為を可能ならしめている。
ところで、この「適用」の語の意味は純粋に方法論的な解釈だけを指すのではなく、方法的にもこれに対応する解釈がある。『タルパ現象論による「タルパの全体性」の解明(第三部)』§8で「信念がその蓋然性において・・・という意味で、タルパの創造および消滅の理念的な契機であり得る」と述べていたが、即ちこのような契機によるタルパの創造・消滅こそが「適用」の指す方法的な解釈なのであり、当然ながら信念もまたタルパ創造現象の一要素であると言うことが出来るのである。

これまでタルパ創造現象に関わる信念の様相として蓋然性のみを考えてきたが、これは直接的な働きとしての分かりやすさを重視して論じただけであって、この様相のみに限られるのではない。特に信念は(§4以降で厳密に論じる思弁的な作用によって)感性や知性の生産物と影響し合っており、時に複雑な様相を持つことも考えられる。
私はここで詳細を論じることはしないが、信念が創造契機や存在理念と取り結ぶ二重の作用の流れを使えばタルパ分類としてのカテゴリーの成立要件を相当豊かな語彙によって説明することが出来るので、§4以降でこれを考察することにする。



§4 3要素の相互作用について

これでタルパのカテゴリーを作り上げるのに必要な3要素が揃った。次に考察せねばならないのは、やはり3要素間の作用(関係性)についてだろう。

この記事は当初の予定では「時間性」を加えた4要素として考察するつもりだった。しかし時間性は『タルパ現象論による「タルパの全体性」の解明(第三部)』§8で述べられているとおり、存在理念に還元されるのであるから、この記事で特別に取り上げる必要は無いと思う。
ただ時間性もそれはそれで存在論の重要な領域であるから、また別の機会に取り上げるかもしれない。

これまでの考察では存在理念が契機の解釈を裏付ける仕方と、信念が存在理念の解釈を裏付ける仕方の2つの作用を見てきた。そう考えると信念も間接的には契機の解釈を裏付けているわけだが、3要素はそれぞれ他からの作用を無視して独自のカテゴリーを形成することが出来ることを考えれば、信念が直接的に契機の解釈を裏付ける仕方は先2つの合成による仕方とは異なると言わねばならない。
この新たな作用は解釈にどんな影響を与えているのだろうか?存在理念について考察する場合に常に注意してきたことであるが、存在理念を持つのはタルパではなくタルパーの方であり、もっと正確に言えば各々のタルパーが「私のタルパはしかじかの存在理念に基づいている」と言うときの「私」が持つのであり、信念の他要素への作用は「私が現に今~」という変容から成るのである。
他方で存在理念が契機の解釈を裏付ける仕方は既に見てきたように「私が現に今~」という作用からは独立しているのであり、信念が存在理念の解釈を裏付ける際に与えたこの変容に対して「しかじかの構造に基づいて~」という変容をさらに与えるのである。この後者の作用が固定されて信念からの作用を圧倒するようになると、その解釈は「私」からは離れて純粋に論理的な可能性や事実性を有する契機を帰結するようになる。即ち実証主義に傾くようになる。
しかし信念が直接に契機の解釈を裏付ける場合には「私が現に今~」という変容しか受け付けないのだから、その結果導かれる契機には常に「私」が持つ非論理性が付与されている。
私がある存在理念を持つことによってタルパが「しかじかの者として~」の変容のもとで受け取られることでタルパの境界付けが成されるのだから、その存在理念からの作用を与えられないということ(付与された非論理性を言わば融和する働きを欠いていること)は、タルパがしかじかの契機を持つという事態の直接的な説明を欠いていることだと言い換えられる。
以上の考察によって、信念が契機の解釈に与える作用とは、契機の構造を無視してそれが現れる確実さや明瞭さなどといった傾向を説明する「傾向性」のことであると結論できる。この「傾向性」の意義は既存の語(カントの言う「傾向性」)とは分野が異なるように思われるが、信念の作用を受ける契機を行為の契機と考えれば、それは存在理念に基づく構造を欠いた行為ということになり、既存の意義をこの体系に還元することが出来るだろう。(ただしこの場合の「傾向性」とは感情・欲望の傾向という特定の領域に限定された性質ではなくなることに注意)

要素間の作用にも名前を付けておいた方が便利だろう。信念と契機の間には先に述べたとおり「傾向性(傾向的な作用)」を当てるのが望ましい。同様に存在理念と契機の間には「構造性(構造的な作用)」を当てられる。信念と存在理念の間には「私が現に今~」という変容が純粋な可能性として介在しているから、これには「現在性(現在的な作用)」の語を当てるのが適当だろう。

以上の考察により、単純な三角形の図式が成り立つ。それぞれの頂点には信念・存在理念・契機があり、それぞれの辺には傾向的・構造的・現在的なそれぞれの要素間の作用がある。また作用には向き(例えば信念は契機に対して傾向的な作用を与えるといった説明の方向)がその解釈の方法を秩序付けているから、それぞれの辺はただの線ではなく方向を持った線、つまり矢印で表されることになる。

  

もはや我々はこの図式に基づいてタルパのカテゴリーを整理することが出来る。『タルパ創造現象の区別についての諸考察』で取り上げられた「誕生」や「奪取・譲渡」といった因子やそれらの関係性を、この図式に基づいて理路整然と考察する準備が整ったのである。
しかし、この図式は創造現象の要素やその関係性を個別に説明するためだけのものではない。ここからさらに豊富な説明様式を取り出すことが出来るのであり、今後の研究のために主要ないくつかのものを取り上げておこう。

いま「説明様式を取り出す」という言葉を用いたが、これは次のような意図を含んでいる。即ち、「理論」「体系」「テーゼ」などと呼ばれるものたちの言明は、まるで図式の一部分を射影したかのような説明を行っているように見えるということである。
何故「一部分」なのかと言えば、図式全体の要素を全て使った説明は必然的に循環するからであり、そうではなくて始点と終点を持つような説明はやはり必然的に図式の一部分の射影となるのである。
この循環が実際どのようにして起こるかは§4.1以下の考察で明らかとなる。



§4.1 思弁的な説明様式

存在理念と契機の間において「しかじかの理念に基づいてこの契機が導かれる」という説明(解釈)が成り立つとき、逆に「しかじかの契機に基づいてこの存在理念が導かれる」という説明もまた成り立つ。ここではP→QからQ→Pを帰結するような論理的な誤謬を侵しているわけではない。論理的な説明は契機の包含関係によって成されるのであって、この図式に基づく説明は(たとえこの例では構造的な作用が主題であるにせよ)論理の範疇のみに限ったものではないからだ。
後者の説明様式はどのような普遍的な意義を持っているだろうか?この説明様式は図式の矢印を全て反転させることで得られるから、契機から存在理念を経て信念へ、あるいは直接に契機から信念への作用に基づいている方法だということになる。また信念や存在理念と違って契機は当の存在者に属する要素なのだから、この説明は「ある存在者がある契機を持っている」という事実から発する説明を主に含意している。契機から発する説明でも本来的な可能性に基づいていることもあるだろうが、重要なことは我々の思弁一般によく見られる事実から発するこの説明様式は、先の図式が解釈という説明様式から発見されたことに反して、この方法によってしか図示され得ないということである。
しかしこの事実は信念や存在理念から解釈的に得られたものとは限らない。仮に当の事実がそのような性質のものだとしたら、この事実に基づく信念や存在理念の説明はただ循環している自明な説明となる。

以上の考察を踏まえれば、この説明様式は思弁一般の性質をよく表現していることが分かる。そこで、もし先の図式のような方向を持った作用に「解釈的」という述語を与えるならば、その逆方向の作用には「思弁的」という述語が――ある種対称的な位置づけとして――与えられることになる。

思弁は解釈が持つ現象論的な厳密さを持たないからと言って劣った説明様式であるという訳ではない。実際、倫理的・価値的判断などを含む大抵の実践的領域においてカテゴリーを樹立するには少なからず解釈的な説明によらない事実(いわゆる「ナマの事実」)を必要とするのであり、このような領域においては解釈よりも思弁による説明の方がカテゴリーの成立要件を記述する方法としてはより重要視されていると言える。
他にも観念や客観的事物の実在を認める実在論の方法は、この説明様式によって良く表現されることになるから、実在論もまた思弁によって形作られる方法論の一つであると言える。
この文章から思弁的実在論を想起する読者もいるだろうが、これについて突っ込んだ考察はしない。しかし思弁による実在論の支持という潮流が生じたということは、この図式の正当性を示す一つの実例になるだろう。

解釈に対する思弁の導入によって、説明は一方向的な作用でなく図式全体を循環する作用の射影として成り立っていることが帰結され、異なる説明様式を関連付けるいくつかの流れが見出される。この流れを「相補・相克」や「循環」として次に考察する。



§4.2 説明様式における循環の意義

相異なる2つの理論による説明が、その明確な差異にも関わらず似てくることがよくある。その場合は背後により整合的な1つの理論があることの証だとも考えられるだろう。しかし、本当にそうだろうか?

§4の傾向的な作用の例に挙げたように、信念が直接的に契機の解釈を裏付ける作用はそれ以外の作用の合成による仕方とは異なるのであったが、それにしても説明の始点と終点を共有しているのだから、その2つの作用は方法が異なるだけで、ある意味同じことを説明するのだと考えられる。「同じこと」とは言っても方法が異なるのだから、一方は他方に異なった着眼点を与える。無論逆もまた然り。このような関係にある2つの説明様式を相補的であると呼ぶことにしよう。
この例で言えば、「現在的な解釈→構造的な解釈」と「傾向的な解釈」は相補的な説明様式なのである。

作用に相補的な関連があれば、相克的な関連もあるだろう。自明な相克として、ある作用の解釈的な働きと思弁的な働きとがある。相克と言っても「構造的な解釈→構造的な思弁」などといった説明が成り立たないから相克しているのではなく、そのような説明が当然であったり無意味であったりすることによる。
図式の上では、説明するものとされるものとが逆の関係にある2つの作用のことを指す。例えば傾向的な解釈と構造的な思弁→現在的な思弁の2つは相克的な関係にあることになる。

ところで相克関係にある2つの作用を図式上に表すと、必ず一巡する流れが現れる。つまり先に述べたように説明が循環するわけだが、この循環が無意味となるのは同じ現象を説明する場合だけであり、もしそれぞれの要素が説明する現象が異なるならば、循環は(個々の説明においては)有意味な説明を行っていることになる。つまり一巡して元の(一連の説明がそこから発したところの)要素に戻ってきたときにそれが現象の異なる一要素を説明することになる。
重要なのは、それぞれの段階の説明においては説明する/される関係での相克(自明な相克)が起きていないということである。3要素全てを含めた循環でなければ、このような有意味な循環は生じないということだ。しかし他方で相補だけに目を向けたのでは、やはり有意味な循環は生じない。
この事実から次の結論が導かれる。即ち有意味な循環のためには、相補と相克とでは図式上の対称性に反して、相克の方が先立っているのである。逆に、あくまでも相補は循環の一部分を選択的に取り出すことで発見される説明上の類似に過ぎないということも言える。

図式の形式的な議論を終わらせる前に是非とも触れておくべき点がもう一つある。
有意味な循環とは単に図式上の形式に過ぎない関係なのではなく、説明様式そのものの性質を特徴づけるような、メタ理論における意味的な関係であるかもしれないということだ。「かもしれない」というのも、現状そこまで研究が進んでいるわけでもなく、特にこの点については図式の実際の適用によってその正しさを試すしかないということでもある。
だが私の研究は他の研究者諸氏による説明様式の考察と比較にあるのではなく、私がこれこそ最善であると信じる説明様式を樹立することにある以上、もはやこの可能性は以降の研究では追及されないだろう。今後のタルパ研究のさらなる拡大を期待して、その一つの可能性をここに記しておくに留めることにしよう。



後記1・存在論的な同一性について

存在論においてカテゴリーが語る重要な事実の一つに同一性がある。ある「もの」と他の「もの」が存在論的に同一であるための形式的な条件を、カテゴリーが記述していると考えることが出来る。例えば、明らかに個別者と普遍者とを存在論的に同一視することは出来ない。だとすれば、ここに上げた3要素とその関係が当のカテゴリーの成立要件ならば、先の図式は存在論的同一性が成立するための形式的な条件を記述しているということになるだろう。

ところでタルパにおける存在論的同一性とは何か?この疑問に対しては何も難しいことを語る必要は無い。我々がタルパの人数を「数える」という行為を可能ならしめる当の条件こそが存在論的同一性なのである。あるタルパと他のタルパが異なっていて、タルパとしては異なる2人であるということを語るためには、そもそも何をもって同一とするかの基準がなければならないのは当然だ。
この悩みに直面したことのあるタルパーはそれほど多くは無いだろう。やはり多くのタルパーにとってタルパとは人間的存在理念に基づいているのだから、その数を数える基準はほとんど自明とされている。せいぜいそのタルパがタルパとして創られたか、それともIF等の他の観念に由来するかが問題になる程度である。
とは言えタルパの理論にとって、タルパの数を数えられるということは基本的な原理の一つだと(ほぼ暗黙裡に)要請されていると言って良いと思う。逆に、これを必要としないようなタルパの理論がいかにして成り立つだろうか?思うに、そのような理論はほとんどタルパーの心理的構造・心理的傾向を説明し得るのみであり、それならば既存の心理学の応用だけで事足りるのだ。実際、そうなっているだろう?
だから存在論的同一性についての条件を与えるタルパ現象論は、それらとは一線を画すのである。
もっとも「数を数える」という行為をタルパに対して行う際は、「数」という概念の多少の拡張を伴うかもしれない。
現に私が直面している問題として、統合されたタルパと統合前のタルパをそれぞれ独立して数えても良いのかという問題がある。これに簡潔に答えるのは難しい。明らかに統合前のタルパも独立して活動し得るのであるが、これが数えられることの十分な根拠になるだろうか?

『タルパ創造現象の区別についての諸考察』で如実に示されたように、タルパ現象論の応用には二つの観点がある。
一方に、自然的な領域における応用。即ち考察の対象となるタルパをあくまでもそれ自身で完結した独立の存在として見る場合の応用。タルパ現象論全体の領域から見れば、主にその頽落的な解釈として得られる帰結から成る説明様式を形成することになる。図式で言えば、3要素の全ての連関(特に循環に示される形式的な意義)を考慮しない部分的な説明様式。
もう一方に、歴史的・理念的な領域を含む応用。つまり図式全体の連関に目を向けた応用。この場合、タルパを先のような独立の存在とは見なせないことになる。
今後の研究の方向性としては、この二つの方面における存在論的同一性について考察することで、タルパの全体性の構造的ではない理念的な側面を掘り下げていく。先の記事群ではあくまでも構造的な全体性とそれに基づく分類に関心が向けられていたが、これで時間的な全体性においても同様の考察を行えるだろう。契機と違って素朴な問いが向けられ難いことから、なかなか難儀なことになりそうだが。



後記2・感性論や知性論との関連について

§1の考察は多分に試験的な考察を含んでいる。「現に」でなければタルパの契機の考察が可能であることを考えれば、「現に」とは存在者(タルパを考察しているタルパー)の本質に由来するのではなくて存在の性質の1つに過ぎないと考えることも出来るだろう。この「現に」という性質が図式においては信念と存在理念の現在的な作用として示されていることから、この性質を解釈的に与えられる存在理念が感性や知性を生じさせているとも言えるのである。
実際にこれらが心理学・社会学の諸実験によって主に研究されていることに鑑みれば、解釈的な研究よりも思弁的な研究と相性が良いのだろう。その研究というのが身体の状態や行為をその基準としているのだから、つまり感性や知性の思弁的な研究とは構造的な思弁についての研究であるはずであり、やはりそこで説明されている要素は存在理念なのである。この事実からも、感性や知性が存在理念に基づいて生じていると考えることには十分な根拠があると言える。

一体、感性や知性は存在論とどのような連関を持っているのだろうか?この方面の研究は全く進んでいない。(ひょっとしたら私がそういう哲学研究の例をよく知らないだけかもしれないが)
この謎を解明することは今後の長期的な目標の一つである。
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