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これまでの一連の理論は数式化指向の流れを汲んで「タルパ機械論」と名乗ってきたわけだが、もはやこの名前は妥当ではなくなった。
というのも、この記事では哲学の一分野である現象学の方法論に基づいた考察に挑戦し、ここに書かれた通りの成果を上げた。もはやこの理論は、数式化を必要とはしていないのだ。
特にこの記事以降は応用研究に入っていくので、基本的な方針を改めたこの理論を「タルパ現象論」と称して名実一体を図る。

さて、実体の個別的な側面については<態度>や<目的>といった形で以前から考察を重ねてきた。
これは解釈の難しい実体を分かりやすく説明しようという試みから来ているのだが、一度はその全体性に触れておかねばならない。
以下の考察によって、理論において実体の果たす役割が余すところなく明らかになるはずだ。

実体の範疇の概念に<>を付けるのがすごく面倒なので、これからは付けないと曖昧になってしまう場合にだけ付けようと思う。



§1 実体の<把握>

実体と副体は独立しているわけではなく、明らかに互いに関係し合っている。しかしながら、その関係し合っている様子を日常的な言葉で語ることは出来ない。
日常的というのは別の言い方をすれば平均的とか統計的という意味であり、これらは実体と副体の違いを全く無視しているからだ。

つまるところ、言語的・統計的には、この2つは全く混同されている。

しかしこれまで考察してきた通り、実体と副体を(平均的にせよ欠如的にせよ)同一視する理論はタルパを上手く説明できない。
その理由も、今や明らかだ。
タルパ治療学・タルパ機械論の思想の検証』の§1.3の結論を考えれば、実体の不在概念の解釈の自由は相反する。
そしてタルパやタルパーは、その本質として<自由>であるように見える。実体の全体性を自由であると解釈しても良いだろうか?
この問いに答えるには、自由が現象的に<把握>され得ることを示したうえで、全体性としての資格があることを確認する必要がある。

実のところ、自由という概念も多くの問題を抱えているのだ。
哲学的にもそうであり、タルパの自由意志なるものが定期的に問題視されてきたということは、ある程度長く活動しているタルパーなら既に知っているだろう。

ところで「実体的な概念である<自由>が現象的に把握される」とはどういうことか?

機械論における「受動」と「能動」』の§4ではこう考えていた。
機械論によって論じるということは、自分と自分ではないものの対置によって前機械論的な能動的態度を獲得することから始まるのだ。
「獲得する」とは「その態度による理解を可能にする」という意味で実体を手に入れるということを指しているのだから、まさに<把握>を説明している。

さて、ここで言う<把握>を実体を理解することだと説明することはできない。これでは実体を説明するのに実体の実体が必要で、それを説明するのに...という無限後退に陥る。
<理解>とは<対象物>を副体と見なす実体の働きであって、実体そのものは理解される対象ではない。
<把握>はこれまで触れられなかった実体の一側面であることに注意すべきだ。



§2 <自由>の反対概念としての因果性

以上の考察で把握という新たな語彙を得た。これは専ら現象的な実体の獲得を意味している。
これで自由の概念をタルパ現象論によって考察することが出来るようになる。

これからの話を方向づけるために結論を先に提示しておくが、自由は把握の様態として示される現象なのだ。即ち、自由は実体および副体そのものを考察しても得られない概念である。
何故そのようなことが言えるのか。ここで一見自由とは正反対に見える因果律を見ておく必要がある。
また以下の考察によって、自由が把握の様態であるという結論は決して天下り的でないことも示される。

「ある現象が必ず別の現象を引き起こす」ならば、それらの関係は因果性を持つと言う。この文における現象とは専ら副体的な現象のことである。
何故ならば、因果性を指摘できるということは関係する2つの現象が理解されていなければならない――そうでなければ特定の現象を指して「この現象が」という言い方は決して出来ない――からだ。
そして、あらゆる現象が必ずこの意味での原因を持たねばならない、という主張が因果律である。

このように因果律を捉えることの最大の問題点は、人間の行為までもが全て因果律によって説明されてしまうことにある。
人間の行為は自由であるはずだという直感的に正しい主張は、因果律とは矛盾する。

先の因果性を少し弱めて「ある現象は別のある現象を引き起こす傾向にある」と考えても、結局は同じことだ。
この問題の本質は因果性が成り立つこと自体にあるのではなく、それが成り立たないときに行為が全くランダムに起きるように見えることにある。

さて、この話をタルパ現象論のモデルに置き換えるとどうなるか。

因果律における原因と結果はどちらも副体的な現象だと仮定していた。
その上で人間の行為について考えることは、行為もまた副体的な現象の範疇であると暗に仮定することを必要とする。
この仮定は正しいだろうか?

確かにタルパとの会話や視覚・聴覚への干渉ではそうかもしれない。
これらは副体間における体験や感覚における受容の例である(受容は体験の個別的な概念だ)が、これ以外にも行為と考えられるものがある。

日常的には、実体が対象物を理解することも行為と呼ばれているのではないだろうか?
例えば『タルパ機械論の既存概念への適用』の§3で説明したオート化がその一つだ。
不連続的な副体(設定)から連続的な副体を見出すのは実体の働きである。

すると日常的な文脈における行為を副体的な概念に押し込める解釈は全く的外れだということになる。
因果律は副体的な現象から成り立つのだから、人間の行為は部分的には因果律の範囲外にあると言わねばならない。

本当にこのような解釈が上手くいくのだろうか?
行為が因果性を持たないとしても、ある実体が行為の主体となるとき、対象物を<理解>する何かしらの<方向性>を持っていることを自らの実体に内包しているはずである。
そのような方向性が無いとすれば、実体による対象物の理解は完全にランダムであるということになるが、この結論は全く受け入れられない現実離れした回答になってしまう。
即ち、副体間の現象における因果性と理解の現象における方向性とは別の性質であって、一方をもう一方に還元することは出来ない。

理解の現象における方向性は、因果性のようにある種の特定の性質を持っていると言えるだろうか?それとも、異なる理解はそれぞれ全く別の現象として扱われるべきだろうか?
しかしこれは(方向性という言葉を当てた通り)明らかにある種特定の傾向を持った性質を説明している。
ここに体験の現象における因果性と理解の現象における方向性のアナロジーを説明する準備が整った。
日常的にはこの二者が全く混同されていることも、このアナロジーによって明確に理解されるのである。



§2.1 因果律と因示律のアナロジー

因果関係に「因果性」や「因果律」という言葉があるのだから、理解における方向性にも同じ意味の言葉があれば、これからの考察を進めるのにとても便利だ。
ここでは実体が対象物を理解する現象が方向性という性質を持つことを因示性という言葉で表現する。また、全ての実体がこのような性質を持たねばならないという原理を因示律と言う。

因果律では原因結果があり、これらはどちらも副体である。
一方で因示律では原因示されるものがあり、前者は実体だが後者は副体である。

この2つの現象によって得られる副体は、場合によっては全く同じであることがあり得るし(副体であるから「同じである」ということが言える)、少なくともそのような場合を考えることが可能だ。
この可能が、因果律と因示律とをアナロジー的に捉えることの可能性をも支持しているというわけだ。

つまり得られるものがどちらも副体であることが、このアナロジーの直接的な由来になっているのだが、別の言葉で言い換えれば、結果論的な方法は因果性と因示性を混同するとも言える。
これはまさに、冒頭で触れた統計的には実体と副体は区別されないという現象を見事に説明している!
何故ならば、このアナロジーが起きるということは、その原因において実体と副体とを混同しているからである。

他にはどんな例があるだろうか?
不連続性と確率性の密接な関連について』の§4で述べた俗的な確率についての考察にも当てはまる。俗的な確率(パーセント値で表される定量的な確率)は必然的に結果論的であるからだ。
もっとも、その記事で既に「統計的に導き出す」という示唆的な表現が含まれていたのだが。

ここまでは因果性や因示性が現象に特定の性質を与えるところを見てきた。
それは<自由>とは一見正反対の性質に目を向けることで、自由が満たすべき要件を――ある意味で、その内側から現象的方法をもって――調べようと試みたのである。
以下では無因果性・無因示性として、ある現象がランダムに起きるということについて考察する。
そして自由にまつわる最も難しい問題の解決、即ちランダム性との境界を確定することをもって、その要件を明確に述べることを目指す。



§3 実体の全体性としての<自由>の証明

日常的には、ある現象が何ら原因を持たないときに、その現象はランダムであると言われる。
しかしここでの「原因」が日常性の統計性によって因果性と因示性の区別を失っていることに注目すると、この言明の致命的な問題が浮かび上がってくる。
一体、ランダムであるとは無因果性のことを言っているのか?それとも無因示性のことなのか?あるいは、その両方なのか?

ある現象が無因果性を持つと言える場合、それは副体的な原因を持たないということを指している。
ある現象が無因示性を持つと言える場合、それは実体的な原因を持たないということを指している。

このように並べて書くと、2つの性質の内部連関が自ずと浮き彫りになるだろう。
以下に自明な2つの命題を述べる。これらはどちらもランダム性の異なる側面に注目したものだ。
「ある現象が無因示性を持つならば、必然的に無因果性を持つと言える」
「ある現象が無因果性を持つ場合でも、因示性を持つことがあり得る」

最初に「ある現象が原因を持たないときにその現象はランダムであると言われる」と述べたが、それは厳密に前者の意味においてである。
何故ならば、後者の場合は因示性による現象の方向づけがなされるからだ。
(よって当然であるが、この「因示性による方向づけ」とは統計的な確率に偏りが見られるという意味ではない)

では、後者は一体どんな現象を表しているのだろうか?

副体が存在するということは、それに先行して実体による差し向けが起きていなくてはならない。だから実際のところ、それがそれ自身として体験される概念は全てこの現象によるのである。
体験とは『感覚の補助的な概念としてのクオリアについての考察』の§3によれば副体的な概念同士の連関の順序付けのことであったから、逆向きに辿っていくと必ずその現象に行き当たる。
この記事の主題であるクオリアとは、まさにこの現象の一例だ。クオリアが一存在ではなく現象として語られたのも、これが理由である。
そして因示性による現象の方向づけをその対象となる副体の一般的な形式によって分類することにすれば、クオリアとは感覚についてそれ自身として体験される概念として、因示律に従っていると言える。

最も重要なのは、この現象をもたらす実体が現象的に獲得されているということにある。
即ち、この現象は能動的態度に支持されている!

能動的態度はそれを任意に決定できる(これが現象的に可能であることは既に示されている)のだから、このような態度は把握の一様態であり、またこれが現象的に示され得ることの境界である。
そして自由は、まず最初に把握の様態によってその境界が与えられることになる。

以上の考察によって、自由が把握の様態であることが示された。
また、§1で述べた全体性としての資格については、自由が現象的に示され得ることの境界として与えられることから確認された。



後記

「タルパ現象論」と改めたこの理論は、いよいよタルパを説明する基礎理論として完全なものとなっただろう。
この記事では、これまであらゆるタルパ理論が抱えていた問題の構造を余すところなく説明し、少なくともそれを問題として提示できるようにするという点で、全く新規な考察に取り組んだ。
この記事に書かれたことは、理論と現実の空隙を埋める最後の1ピースだったと言っていい。

ここでは触れていないが、自由にはもう一つの問題がある。
「自由を私が意志することが出来るか?」、つまり「自由は私の自由意志であり得るか?」ということだ。
もし「私が自由を意志すること」が出来なければ、それは自由とは言えないだろう。

この問題は、実体と私の関係を決定する上で極めて重要な位置にある。
僕は今まで「実体」が即ち「私」のことであると断言したことは無い。しかし、それは一見正しい主張のように見える。
「実体」が「私」でなければ、「私の自由」は一体どんな自由であり得るのだろうか?

そしてタルパという存在こそが、この問いによって私の自由の境界を示す重要な鍵となる。
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