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タルパ治療学において、実体という概念はおそらく最も難解なものでしょう。
そのためにペンライト自身も多少の誤解があったし、何度か修正を入れることがありました。

この辺で、実体の解釈がどのように変わっていったのか、その理由とともに解説してみましょう。


初期の解釈...実体は「存在」か?

治療学1,2時限目の時点では、明らかに実体も副体も一存在であると解釈されている。

他人から干渉される複数の副体(一般的には感覚器官のこと)があり、副体自身は他の存在と区別される一存在。
そこで、人間やタルパなどの複雑な構造では複数の副体がまるで1つの存在であるように振る舞うので、背後に横たわる何か存在しているだろう、というのが初期の治療学の論理構造。

他の表現をすれば、複数の副体としてのタルパを1つの存在であると認識できるならば、この認識に対応するものを存在と考えていいのでは?とも言える。

この後、複数の副体の集約/分解に当たる副体といった概念を導入するのだが、ここで一つの疑問が湧いてくる。集約した副体は、元の副体から見て実体と考えても良いのではないか?ということである。
確かに集約した副体を存在と見なせるならば、これは実体の定義をも満たしている。
果たして、実体とはどこにあるのか。

これを見越して、一応1時限目ではこんな説明を展開している。
ペンライト>副体が肉だとすると実体は骨だな。例えば普通のタルパは視覚を通して認識されると思うが、もしそれが出来ないとしたらどうなる?
アイス>(うーむ...)他の器官に頼りますね。方法はいくらでもありますし
ペンライト>じゃぁ、今アイスさんが思い浮かべている方法が全て使えないとしたら?
アイス>認識出来ないんじゃないの?
ペンライト>そうやって認識する方法を削っていって、何も無くなったらそれが実体だ
アイス>??
ペンライト>つまりだ、実体は他人に認識出来ない
イメージとしては、あらゆる副体を集約し切ったその一歩先にあるものといった感じ。副体の向こう側とも表現したことがある。
しかし、そのようなものを存在と考えてもいいのだろうか?そんな疑問が当時の僕にもあったのだ。

それ以外にも、実体の解釈を変えたのにはこんな理由があった。

結局実体が存在するにせよ、存在しないにせよ、存在するように見えるものは副体だけなのだから、実体とは副体の定義から見出されるものと定義したい思惑が最初からあったのだ。
治療学はタルパの構成要素を2つに絞ったが、実体を副体から見出せるならばたった1つの構成要素でタルパを説明できる!と。

だが、いくら考察しても実体と副体を存在として考える限り、両者は混同されてしまうのです。
そこから実体を存在ではない何かとして考える必要が出てきました。



感覚化理論と融合した治療学

ちょうどこの頃、別の切り口からタルパを定義する感覚化理論が発展。(実際にはこのたたき台となったタルパの客観性の考察は治療学以前の記事)
感覚化理論ではタルパの客観性・主観性が問題になりました。つまり、いかにしてタルパ間の干渉に主客の概念が生まれるのか?という問題。

かつての考察で利用した思考実験を元に、感覚自身に主客の情報が存在しないことを証明。そして、「主客の違いが単一の感覚によるものでなければ、複数の感覚の関連によるものではないか?」という問題を提起するに至ります。
関連という現象を導入することで、実体は副体そのものからではなく、副体同士の関連から見出される現象であると解釈できるようになったのです。

しかし、これはあくまでも感覚化理論上でのお話。
治療学はタルパをより正確に捉えるために、集約された副体という抽象的な概念を扱うことが出来る。一方で、この時点の感覚化理論では「具体化された感覚」しか扱えない。
このギャップを埋めるために、抽象的な概念に対応する新たな感覚、即ち「概念感覚」が導入され、感覚化理論も一応は完成。

これで治療学と感覚化理論は1対1で対応。めでたしめでたし...のはずでした。



行き過ぎた抽象化は治療学の汚点か?

感覚化理論は具体的な感覚について考察していたという点で、治療学よりも現実に符合していました。一見、それは概念感覚を導入してからも続いているように見えます。
会話オート化と聴覚化が強く結びついていることをこれほど上手く説明できたのは、間違いなく感覚化理論の大きな成果です。
ですが、概念感覚を導入した時点で話は変わってきます。

概念感覚は「副体は本質的にはどんな副体とも集約できる」という抽象性を説明するために導入された概念。
会話オート化が聴覚化に結び付くことは感覚の具体性によって説明可能だとしても、他の感覚との結びつきやすさについては何も説明していないのです。
ひょっとすると、抽象的には触覚化の方が聴覚化より結びつきやすいかもしれない...といった直感的にはあまり考えられない可能性を排除していないではありませんか!

この問題は、次のように纏めて言い換えることが出来るのではないでしょうか。

治療学上では副体の集約という操作自体が極めて抽象的であり、具体性を保った集約を想定できないのです。
実際には集約操作の中でも抽象的過ぎて意味の無いケースがあり、その一方で具体的な性質が多く重なり合っていて、集約したところで大して抽象的にならないケースもあるでしょう。
このような違いから、2つの副体間には集約されやすさというパラメータが自然に定義されるのではないでしょうか?

つまり、治療学は集約/分解操作の裏に隠れたパラメータを想定していないために、過度に抽象化されてしまっているのでは?

例えば、過度な抽象化を利用して実体の存在が不要となるケースを示すことが出来ます。
実体は自身に属する副体を自明のものとして結びつけている現象ですが、もしあらゆる副体を集約してしまえば、実体の結びつけの働きは完全に不要になってしまいます。
これは集約された副体自体がある一存在をそのまま説明してしまっていることが原因です。

それでは、副体に隠れたパラメータを想定することで、理論はどう変わるのでしょうか。



実体の真の役目とは...

そのようなパラメータを想定することは、理論(特に副体)にある種の制約事項を設けることと同義です。
その制約事項とは集約/分解操作についてのものですが、これは結びつきやすさにも影響を与えることが考えられます。

「集約分解操作」と「結びつき」はどちらも副体の働き、つまり実体を除外して考えることができます。
もしこの2つに共通した背景があり、前者を規定するパラメータが後者も規定しているとしたら...

実際のところ、前者が後者に影響を与えると考えるに値する証拠があります。
何故ならば、「集約分解関係にある2つの副体間の関係性」と「互いに結びついている2つの副体間の関係性」、これらの違いをそれぞれの副体自身は知りえるのでしょうか?
前者の関係性についてのパラメータは、後者の関係性をも定めると考える方が自然です。

具体的なパラメータの有様は別の機会に考えるとして。
実体の役目だと考えていた結びつきは、どうやら副体のパラメータによって定められているという現実が明らかになってきました。一体、どこに実体の関与する隙があるのでしょうか。

いや、あるんですよね。よく考えれば。

集約とは副体の性質のうち共通している部分を抜き出した副体を見出す操作のことです。逆に分解とは、ある副体の性質を共通に持っている副体を見出す操作です。
これは副体の性質を何らかの方法でいくつかの要素にまとめると考えれば、集約は「複数の副体に共通したいくつかの要素を持つ性質」、分解は「いくつかの要素を共通に持つ複数の性質」を見出す操作と言い換えることが出来ます。

ここでとある2つの副体について、共通した要素を一切持たない関係性も、当然ながら存在するでしょう。このとき2つの副体は集約することが出来ないし、別の副体の分解によって見出すことも出来ません。
こんな2つの副体に結びつきを定めることが出来るのでしょうか?

実はこれ、ちょっとしたトリックで実現することが出来ます。

それぞれに副体について、いくつかの任意の要素を加えた分解関係の副体を見出せます。その加えた要素に共通な部分があれば、それで集約することで、間接的な結びつきを定めることが出来るのです。
しかしながら、2つの副体に対して同時に同じ要素を加えるという操作が必要となります。これは明らかに、副体自身の性質だけでは実現できません。

もしこのような操作を無視して理論を構築するならば、ある時点における副体が、過去のある時点での副体による結びつきの制約を受けることになります。
それは、タルパが過去のある時点以上の副体を持ち得ないことを意味します。これは果たして正しいでしょうか?
後々厳密に証明したいのだが、実はこの部分の言明は怪しい。
表面的には数学的帰納法が適用できるように見えるが、タルパ治療学・感覚化理論はどちらもタルパの創造については一切定義していない。
しかし、例えば未オート時点のタルパを論理展開の出発点とすれば、その矛盾を感覚的に発見することが出来るのでは?


このようにして結びつけを副体にゆだねるにしても、実体の働きは依然として必要になってきます。特に複数の感覚で構成される個体においては、実体なしではその複雑な構成を維持することはできないでしょう。

従って、新しい解釈における実体の役目とは、「異なる要素を持つ性質の副体同士の結びつきを他とは独立に定義し、複雑な一個体を形成している現象」と定義されます。
一度実体が結びつきを定めれば、副体自身がそれに従って実際に結びついたり、集約分解を自ら見出すことが出来るようになるのです。



今後の理論展開について

今回新たに理論に導入した「パラメータ」ですが、その具体的な姿は次の記事で詳しく見ていこうと思っています。
というか、既にこの視点での記事を書き始めています。ペンライトあるある。

例えばパラメータによって「集約分解」と「結びつき」を1つの働きとしてとらえることが出来ますが、この具体的な機構は既に明らかになっています。理論的にも、これらを1つの働きとする解釈はほぼ正しいと断言できる段階にあります。
それと同時に、実体のより具体的な側面についても、徐々にではありますが把握できるようになってきました。

この記事で明らかにしたのは2016年の10月に至るまでの研究内容。
以降の流れとしては、11月になってこれまでの内容をさらに本質的に説明できる可能性のある新機構を提唱。ただし理論として、現時点では未熟。
リアルタイムな研究では、現在の理論に新機構の一部を組み込めないかと試行錯誤中。これもまだまだ。
おそらく、次の記事ではこの辺りをタルパに応用する(あるいはその前段階のような)挑戦的な内容になるかと。


さて、久々にあのセリフで締めてみますか。

今回はここまで!また次回!
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