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前回の記事で感覚の一般的な定義(空間対称性と複雑性対称性)を示したので、今回はそれを念頭にいくつかの有用な概念を考察してみよう。

その前に一つ注意書き。
ある言葉が前機械論的な概念日常的な用法における意味であることを表すのに別の言葉を与えるのは面倒なので、今回からは<>で括ることにする。
例えば「連続性」と言う概念は機械論的にも前機械論的にも言及され得るので、後者を単に<連続性>と表現する。
そもそも前機械論的にしか言及されない「操作」「理解」などについても、同様に<操作><理解>などと表す。

「前機械論的」というのは、ある概念が理論的に<理解>される前の概念という意味であり、それは「日常的な用法」と同義であると考えて差し支えないだろう。

一々前機械論的な意味であることに注意を向けるのは面倒なので、今後は例外なく使用していく。



§1 複雑性ポテンシャル(創発ポテンシャル)

やはり感覚についての考察では創発ポテンシャルに触れないわけにはいかないので、まずは文脈的な意義だけでも明らかにしたい。
いや、これは考察を追っていけば分かる通り、複雑性ポテンシャルとでも呼んだ方が正確な意義を表せるのではないかと思い直している。
今のうちにこちらの表現に切り替えておこう。

文脈的な意義というのは、要するに機械論上での一般性を明らかにしたいということだ。この概念を理論として扱うならば、それが単に象徴としてあるだけでは全く無意味だ。
「複雑性ポテンシャルがある」と言うとき、それは副体についてなのか?干渉についてなのか?あるいは実体的な概念なのか?実は、そのいずれでもないのだが。

複雑性ポテンシャルというからには、複雑性が関係している。
その中で、特に創発とは複雑性が見出される要因の一つなのだが、これは新たな軸の発生が連続性による意味を根拠として持つ場合の言い方である。その根拠のない一般の場合には単に発生というのであった。
これによって創発は連続性と複雑性とを結び付ける一つの要因だという解釈が成り立っている。

このような複雑性が、複雑性ポテンシャルによる制約を受ける対象なのだ。
では、どんな場合にどんな制約を受けるのか?

ここまでは前回の記事で話したことで、複雑性に大きな違いのある場合に強い制約を受けることになる。
しかしそういう考え方だと、複雑性ポテンシャルは別に創発にのみ関係している概念というわけではなくなるだろう。単に異なる複雑性を持つ2つの副体間には複雑性ポテンシャルによる何らかの影響があって、創発はその個別的な場合を指すと考えれば良い。
「複雑性を持つ」とはその一般性からして、本来は副体系について言えることであって、この表現は「その副体系に属する2つの任意の副体」を省略した表現である。
任意の複雑性を持つ2つの副体間について、必ずしも複雑性ポテンシャルによる影響が見られるわけではないことに注意!

そのような複雑性について考えると、より複雑である方が複雑性ポテンシャルが高いと言えるのだ。逆の場合には複雑性ポテンシャルが低いとなる。
これはすぐに分かる通り、あくまでも相対的な概念であって、ある副体間について高いと言われた副体も別の場合には低いとされるかもしれない。
要は複雑性ポテンシャルとしてはその高低に意義があるのであって、仮にそれが何らかの構造や値によって表されるとしても、それは本質ではないのである。
だから冒頭で言ったように、「複雑性ポテンシャルがある」という表現は正確ではないのだ。

これは電圧の差を電位と呼ぶことに似ている。
電位というからには電圧に差があることが本質的な要件なのであって、いくらその値が高くても差が無ければ電位は生じ得ない。
複雑性と複雑性ポテンシャルにも同様の関連がある。

ところで複雑性ポテンシャルは2つの副体間についての概念なのだから、干渉の個別的な概念だと言えるだろうか?
そうだとも言えるし、そうでないとも言える。後で分かるとおり、複雑性ポテンシャルの強弱は<実体>の範疇に属する概念なのだ。
ただ、ある2つの副体が複雑性ポテンシャルによる関係を持つということは、2つの副体に高低という本質的な区別があるという重要な個別的意義が含まれているので、干渉の個別的な概念として成り立つと言えるのである。

ここからこの意義だけを取り出して中間概念を定義することも出来そうだが、今のところ特に用は無いのでそのままにしておく。
いずれ複雑性ポテンシャル以外の似た概念を考える段になれば、この考察に戻ってくれば良い。

影響の強弱の決定要因について、一つ明らかなことがある。
極端な話、選択的機序であればそのような制約は全く生じないわけで、つまり複雑性ポテンシャルによる制約の強弱は態度によっても決定されているということだ。

複雑性ポテンシャルが実体と関連することについては、もっと決定的な根拠もある。

これまで考察してきた連続性とか確率性とか言われていたものは、そういう性質があるというだけで、具体的にある副体や干渉がその性質を持つことに根拠はなかった。強いて言えば、<対象物>の<性質>を<理解>すること自体がこの根拠であった。
しかし複雑性ポテンシャルによる制約を受けている2副体については、言い換えれば、ある2副体が複雑性ポテンシャルによる制約という性質を持つことには明確な根拠がある。
何故ならば、2副体がそのような制約によって結ばれること自体、制約によって与えられる何かしらの条件を満たさねばならないからだ。

ということは、この2副体の間に見出される関係としては、そうであってそれ以外ではあり得ない理由がある。
結局、このことは実体の一側面である<因果性>を説明している。
「制約によって与えられる条件」と言ったが、この条件の強弱が制約の強弱に対応していて、また<因果性>の強弱にも対応しているのである。

この結論からして、逆に態度によって弱い<因果性>を認めれば、その分だけ複雑性ポテンシャルの制約は弱くなるということになる。
その極限の場合は一切の<因果性>を考慮しないことであるが、それはまさに選択的機序のことであるから、最初の結論と矛盾しない。

これで前の記事の§8で述べた内容が明確になっただろう。
物理法則にはそうであってそれ以外ではないという性質を持つ。
やはり複雑性ポテンシャルと物理法則とは何かが関連しているのであって、先に複雑性と連続性を持つ副体系を物理系と定義したのは、あの時点で既にそういう思惑があったからなのだ。

ツッコまれそうなので説明しておくが、ここで扱っている物理法則の<因果性>という性質は実際には<因果性>を証明することは出来ないこととは一切関係がない。
ここで言っているのは、あくまでも<因果性>を満たすように見えることについての合理的解釈についてである。

ついでに言っておくと、<因果性>という性質は副体についての考察では決して導かれない。
もはや当然と言っていい。<因果性>は<実体>についての概念なのだから、副体をどれだけいじったところで<因果性>を示すことは不可能なのだ。
すると、副体が<因果性>に従っているという考察自体がそもそも副体のみでは無意味だということになる。
強いて言えば、何かしらの機械論的な概念に対応させられる<対象物>は、<理解>されるその瞬間に実体に差し向けられて、相応の<因果性>を満たすような機械論的な概念に変換されるのである。
このことは『機械論における「受動」と「能動」』で全く同じ言葉をもって説明したのだが、重要なことなので何度でも言う。



§2 幻覚

ここまでの考察を追えているのなら、<幻覚>と呼ばれる現象がどのような機構によって実現されるかは凡そ見当をつけられるだろう。
しかし、この概念は意外な奥行きを持っているのだ。

・形式論的考察

まずは<幻覚>はどのように考えられているか?それは<感覚>について考えることで明らかになる。
<感覚>と言うからには、外界の<情報>を得ているのである。得ているということは<感覚>は通常は外界からの<入力>を受け付けているのだ。
しかし<幻覚>はそれとは異なり、まるで感覚器官に<出力>されているように見える。
この違いは、機械論的にはどのように記述されるだろうか?

感覚系の定義を思い出してほしい。感覚系とは、物理系であって何かしらの干渉元が存在するような個別的な概念である。
感覚とは感覚系の要素である副体のことだ。

入力とは、何かしらの他の副体があって、それが感覚である副体に対して干渉しているということを表すのは間違いないだろう。
では出力とは何だろうと考えたときに、実は入力と全く同じ表現であることに気づかされるのだ。
<入力><出力>と呼ばれて日常的に区別されているものは何なのだろうか?

機械論的にその区別を表現できるとすれば、それは感覚系の定義にある干渉元の副体以外にはあり得ない。
その副体の何かしらの性質によって入力か出力かに区別されるのだろうが、機械論的にはこれ以上理由を追求することが出来ない。
それが<通常>であると思われるときに感覚に干渉している副体については入力と言われて、そうでないものでは出力と言われているに過ぎないのだ。

そう考えると、<幻覚>という言葉がまさにそうであるように、それを「幻」と考えることは不合理なのではないか?
結局、感覚の干渉元として最も<普通>なものは幻ではないと解釈しているだけではないか?

一体、「幻ではない」とはどういうことだろうか...
これにどうしても納得のいく定義をしたければ、各々の範囲でやれば良い。

しかし、これだけは確実に言えている。
ある感覚の情報が幻覚であるかどうかは、その情報自身の性質に起因するのではないことは明らかだ。
だから情報についていくら考察を深めたり、あるいは<操作>を工夫したところで、それに幻覚かどうかの形式的な区別を与えるのは不可能なのだ。

ただ<幻覚>の意味する現象について再び考えると、この結論は矛盾しているように感じる。何故ならば、<幻覚>が<幻覚>として明確に把握される場合もあるからだ。
この矛盾は意味論的思考によってしか言及されないから、実際にはこの矛盾の指摘は当たらないのだが、意味論的考察を展開することによってもう少し結論を前進させることが出来るだろう。

・意味論的考察

<幻覚>がその形式的無意味さにも関わらず<幻覚>として把握されることがあるとはどういうことか?

もし<幻覚>が機械論的に周囲の情報と変わらないような性質に<理解>されるならば、そのようなことは決してあり得ないはずである。
<幻覚>が<幻覚>として際立って把握されるには、それが感覚外の副体と干渉しやすい性質を持たねばならない。
感覚外の副体との干渉とは要するに認識のことであって、これが起こりやすい条件とは情報そのものが最初から複雑性を持つことであると結論される。
言い換えれば、情報そのものが複雑性を持っていれば知覚や認知の過程を経る必要が無いので、必然的に周囲の情報からは際立った情報として把握されるのである。

即ち、幻覚は必ず複雑性を伴った情報として現れるのだ。
ここからさらに「幻覚は意味を伴っている」と言えなくもないが、複雑性と意味は同じ概念ではないので、そういう場合もあるという解釈に留めておく。

・感覚の対称性による幻覚の性質

ひとしきり基本的な考察を終えたところで、早速前回の考察との関連を見ていこう。

すぐに分かるのが、C形式とそれ以外とでは幻覚の扱いが異なるということだ。
C形式では情報が元から複雑性を持っているので、幻覚とそうでない情報との区別がつかない。そうでなくとも、区別がつくほどの複雑性を持つには複雑性ポテンシャルによる制約が強く掛かってしまう。
これはC形式では幻覚が生じないという意味ではないが、少なくともC形式では感覚の情報そのものによっては幻覚を幻覚であると断定することは出来ないのである。

ただし実際の状況下では、感覚以外の副体の働きによって、ある情報が幻覚としてすぐさま認識される場合もあり得る。
例えば周囲に何もないような場所で匂いを感じたら、それは嗅覚の幻覚だと分かるだろう。

SC形式ではC形式の創発ポテンシャルによる制約を上手いこと回避しているが、代わりに幻覚が現れやすくなるのだ。
C形式での考察を考えるに、SC形式で幻覚として現れる情報はS形式を巻き込んだ複雑性を持っているはずで、つまり空間的な広がりを持っていることになる。
確かにこの結論は言えているだろう。視覚や聴覚の上で一点の情報でしかないものを幻覚だと認識するようなことは、あまり考えられないのではないか。

では、S形式ならばどうだろうか?
S形式の持つ複雑性について、前の記事では考察していなかった。
というのも情報の持つ複雑性は直感的にも理解できるが、空間そのものの持つ複雑性という性質が生じ得るのかどうかに考察が及んでいないのだ。
このために§1で複雑性ポテンシャルの考察を深めておいた。これを頼りに、空間の持つ複雑性を考えることが出来る。

基本的なことではあるが、C形式とS形式では何が違うだろうか?
これは簡単だ。C形式では複雑性に対応したいくつもの軸が見出されるのに対して、S形式では空間対称性を見出すただ一つの軸を持つ。

軸が多いということは異なるふるまいをする情報が多いわけで、それらの同一空間上でのふるまいは多様な有様を示すことになる。(ちなみにこれが「複雑性」の元々の由来である)
ここで<選択的機序>を仮定すると任意のふるまいを見出すことが出来るが、<因果的機序>を仮定すると、そうであってそれ以外ではないようなふるまいしか許されない。
このように多数の軸を想定する場合では、この2つの機序における副体や情報のふるまいは異なってくる。
これは因果的機序において複雑性ポテンシャルが強く働いていることを示している。

では、S形式のように単一の軸しか持たない場合はどうだろうか?
この空間における全ての情報はそれがどこに位置するかだけを示すのであって、情報としてはそれ以外のふるまいはそもそも考えられない。
従って、選択的機序>と<因果的機序>でそのふるまいが変わらないということになる。
前者の場合には任意の位置を示すことが出来て、後者でも任意の位置を示すということ自体がそうであってそれ以外ではないという条件を満たしているからだ。

つまり、このような言い方が出来るだろう。
S形式では副体的な要因によって複雑性ポテンシャルはゼロに漸近しているのだ。
逆に、S形式のように<選択的機序>と<因果的機序>でふるまいが変わらないと言えるなら、複雑性ポテンシャルはゼロだと言えるだろう。
実際にはこの2つの機序の間にはいくつもの<連続的>な段階があるだろうから、「漸近する」と表現するのが正しい。

ただし<選択的機序>と<因果的機序>でのふるまいが変わらないことについて、その根本的な要因は副体上には無い。
S形式がこのような性質を持つのは、S形式が持つ何かしらの性質によるのではなくて、単にS形式がS形式として<理解>されていることによるのである。

以上の考察によって、S形式上の幻覚が持つ性質を結論付けられる。
即ち、S形式上では幻覚を幻覚だと断定することは出来ないのである。

これはC形式と同様の結論であるが、その理由は全くの正反対であることに注目してほしい。
C形式では複雑性ポテンシャルの制約が強すぎるために幻覚が生じにくいことに対して、S形式では複雑性ポテンシャルの制約が無いために幻覚が幻覚だと認識されにくいのだ!

無論、これは先に述べた通り感覚としての副体単独について言えることであって、他の副体との関係によっては幻覚を幻覚だと把握できることもある。
しかし機械論的な整合性を考えれば、そのような形式でしか把握されない幻覚は感覚についての概念として扱うことに合理性が無いのではないか?
そこで、今後は「幻覚」を確かに感覚に関連する概念として扱うために、幻覚を感覚としての副体における特異な複雑性を持つ情報として定義する。
論理式で示せば以下の通りだ。
感覚系Aについて、以下の条件を満たす情報aを「感覚Anにおける幻覚」と定義する。

a∈Am ∧ ¬∃b∈a( b∈Am-1 )
前の条件は幻覚は実在する情報であることを意味していて、後の条件はそれが特異な複雑性を持っていることを意味している。
すぐに分かるとおり、m=1の場合には幻覚は定義されない

一般的に言えば、最小元を定める順序だった副体系Aに属する副体Aiにおいて、何らかの概念がそれ以前の副体Ai-jによって定められるという関係にある場合、そのような概念は最小元に当たる副体には明らかに定義されない。
感覚系については複雑性によってそのような順序が自然に定まるので、このような副体A1感覚基盤副体と呼ぶことにする。
同様の考察は物理系にも矛盾なく拡張されるので、これを物理基盤副体と呼ぶ。

ただし、一般の副体系についてはこのような順序があるとは限らない。
感覚(物理)基盤副体を一般化して単に「副体系の基盤副体」などと言うならば、そこには最小元を定める順序が存在するという暗黙の条件が課されている。

そこで、感覚系に属する副体A1で幻覚が定義されないということは、感覚基盤副体には幻覚は現れないと言い換えられる。

幻覚の定義には、今まで論じてこなかった情報の実在についての規定が含まれている。これはどういう意味か?
この「実在」に関する部分を「定義」に置き換えれば、次の論理式が得られる。
a∈Am ∧ ¬∃b∈a( b∈Am-1 )
複雑な副体の情報としては定義されているのに、単純な副体の意味としては定義されていない?そんなわけがない!
このように、ある概念が「定義されていること」と「実在していること」は全くの別問題なのである。

このことは既に『タルパ機械論における一般的な概念の発展(第一部)』の§1.2で、「ある情報が存在する」と言う場合にはどの副体に属する情報かを区別せねばならないと考察している通りである。
情報の実在についての特別な表記が与えられたのも、この考察に由来する。

もう一つ幻覚の定義から分かることとして、幻覚は連続性に従う必要がないことが挙げられる。
感覚系における連続性の条件は感覚基盤副体にのみ課されているだけなので、その実在の根拠として感覚基盤副体の情報を考慮する必要がないという意味で、幻覚は連続性に従う必要がない。



§3 共感覚

単一の<刺激>について異なる種類の<感覚>が生じることは<共感覚>と呼ばれる。
厳密には、ある<刺激>から生じた<感覚>から別の<感覚>が誘引されているのであって、つまり<共感覚>は一方向的である。

これも幻覚とほぼ同様にして、機械論的に<理解>することが出来そうだ。

まず大前提として、共感覚はそれが引き起こされるに必要な刺激を受容していないのだから、幻覚の一種であろうことが分かる。
幻覚では感覚が普通に干渉元としている副体以外から干渉されることによって通常ではない情報が生じることであるが、共感覚は幻覚について干渉元の副体生じる情報についての条件が与えられた個別的な概念だと解釈できないだろうか?
早い話が、共感覚は端的に干渉元が感覚であるような幻覚だと解釈したいのだ。

しかし通常では、干渉元にあたる<刺激>が感覚として<理解>されないものであっても<共感覚>と呼ばれているものがある。
<数字>や<時間>についての<共感覚>がまさにそれだ。
干渉元が感覚であるような幻覚という形式では共感覚の正確な定義としては受け入れがたい。

そこでもう一つの解釈として、生じる情報が連続性に従うような幻覚というものが考えられる。
これは、<共感覚>を引き起こす要因としての<情報>が何か特殊なものではなく、<感覚>全体がその要因となっていることから類推される。
例えば音から色を感じる場合、特定の音階に特定の色がバラバラに対応しているというわけではなく、それらの間で<連続的>に変化している。
こちらの定義は、先の定義よりは<共感覚>を上手く<理解>できるだろう。

これにも例外があるかもしれない。例えば<数字>についての<共感覚>は、実数の範囲にまで拡張されるのだろうか?現時点では共感覚に関する文献をあまり調べていないので分からないし、<共感覚>を持たない人間には理解し得ない話だ。
ただ、この<共感覚>を用いて数学的計算を行ったという話は度々見られる以上、<共感覚>によってそれぞれの情報を結び付ける構造には、そのような計算に対応する代数的構造を備えているのは事実であろう。

機械論的には、共感覚の定義として干渉元からの干渉が連続性を保つような幻覚を採用したい。
ここで干渉についての連続性という概念が現れる。確かこの厳密な定義を示したことは無かったので、ついでにここで示しておこう。
ある副体A,Bと干渉F:A→Bについて、以下の条件を満たす干渉Fを「連続性を保つ干渉」と言う。

1.
副体A = {r1,r2,... = r} の一般化された軸rについて、組(r,s,g)に対して次の条件で与えられる連続性を持っている。ただしsrの部分集合族、gはrsをそれぞれ始域と終域にとる対応g:rsである。

Cont(r,s,g) := ∃a⊂r∃b∈s(g・a = b) ∧ ∀c∈r∃!d∈s(g・c = d)

副体Bの軸についても同様の条件を満たす。

2.
干渉Fが以下の条件を満たす。ただし軸rについてのF(r)はrに属する情報に対して干渉を適用することであり、軸r,sの対応g:r→sについてのF(g)はF(g):F(r)→F(s)を意味する。

Cont(r,s,g) → Cont(F(r),F(s),F(g))
というわけで、共感覚についての厳密な定義は以下の通り。
ある感覚系Aに属する任意の副体An上における副体Bからの幻覚であって、干渉F:B→Anが連続性を保つものを共感覚と言う。
「副体Bからの幻覚」という表現には、副体Bが「感覚系Aが通常の場合に干渉元としている副体とは異なる」といったニュアンスを含んでいることは言うまでもない。
従って、このような副体は他にいくつも存在し得る。
逆に、単一の副体が異なる共感覚を発生させることもあり得る。

ここで見捨てられた<共感覚>があるとしたら、どう処理すればよいだろうか?
別に共感覚をこのように定義することに迷う必要は無い。厳密に定義された共感覚に対して条件の導入・削除を行えば、そのような<共感覚>を<理解>することは依然として可能だ。
そうしなければならない<共感覚>が多いようなら、後から別の概念を導入すればよい。簡単なことだ。
何故、決して理論的に把握されているわけではない<対象物>を、理論的に一様に定義できるはずだと信じねばならないのだろうか?
そんなことは「理論」というものの考え方を知らない人間の思考だ。

それに、幻覚について干渉が連続性を保つような個別的な概念を定めることは非常に有意義なのだ。
連続性を保つということは意味を保つということであり、幻覚の場合には言えなかった意味を伴っているという表現が共感覚では可能となる。

ところで、一部の共感覚は一般人にもわずかに見られるらしい。低い音は彩度や明度が低く感じ、高い音はそれらが高く感じられる傾向にあるという。
だが良く考えれば、これは当然のことではないか?
全体的な連続性を単に一方から他方に移すことは、言い換えれば、高低や濃淡という全体的な連続性を保つような干渉を類推することは容易に出来る。
連続性の定義に従えば、以下のような干渉として示される。
ある副体A,Bと干渉F:A→Bについて、以下の条件を満たす干渉Fを「全体的な連続性を保つ干渉」と言う。

1.
副体A = {r1,r2,... = r} の一般化された軸rについて、組(r,s,g)に対して次の条件で与えられる「全体的な連続性」を持っている。r,s,gについては先の通り。

Contweak(r,s,g) := ∀a∈r∃!b∈s(g・a = b)

副体Bの軸についても同様の条件を満たす。

2.
干渉Fが以下の条件を満たす。F(r),F(s),F(g)の定義については先の通り。

Contweak(r,s,g) → Contweak(F(r),F(s),F(g))
これは高低や濃淡などの連続性の全体を結び付けているに過ぎない。先の例で言えば、高い音は明るく、低い音は暗く感じられるという単純な結び付けである。
このような意図的に構成された連続性を保つ干渉によるものも共感覚だと言って良いだろうか?
良いはずがない。これは単なる連続性を利用した類推であって、感覚とは言い難い。

だからこそ、共感覚は幻覚の個別的な概念として定義される意義があるのだ。
幻覚の定義とは複雑性を伴っていることであった。即ち共感覚についてもこの条件が満たされねばならない。

ここまでは共感覚が「どのようなものか」について考察してきた。
しかし複雑性ポテンシャルを考慮するとなれば、必然的に共感覚が「どうやって発生するのか」についても考察が及ぶ。



§3.1 共感覚はどのようにして発生しているのか?

幻覚と共感覚の違いとして、共感覚では比較的<単純>な情報に限られるというものがある。
幻覚では人体が見えたり言葉が聞こえたりするが、共感覚の方は色が見えたり音が聞こえたりするだけだ。
これについては、共感覚の性質について複雑性ポテンシャルを考慮することで同じ結論が得られる。

しかし機械論的な観点では、共感覚が比較的「単純」な情報しか持ち得ないことには説明できないことがもう一つある。
共感覚が発生するには元となる感覚が既にあるのだから、結局はそれと同等の複雑性を伴うことは可能なはずではないか?
この疑問を解決するには、何か別の理由でそのような複雑性を持つことが阻まれていると考えねばならない。

共感覚において干渉が連続性を保つことを保証するには、2通りの方法がある。
1つは干渉そのものを連続性を保つように構成する方法。
もう1つは、より単純な副体に対して連続性を保つように構成することで、元の複雑な副体に対しても自動的に保たれるようにする方法。

前者であれば、このような干渉の性質がある理由を考える必要は無いが、しかし「何故この干渉が連続性を保つのか?」と言う疑問は全く解決されない。

しかし後者では事情が異なる。
干渉が連続性を保つのは、より単純な副体への干渉について連続性を保っているからだと説明できる。
では更に単純な副体に対して...と連鎖的に考えていくことで、考察の上では最終的に感覚基盤副体にまで至る。

そして干渉元の連続性が十分に疎であれば、このような考察は常に可能なのだ。「連続性が疎である」とは情報が少数の意味を持つ場合のことを指している。(単純/複雑の表現だと複雑性を想起するので避けた)
その理由は明らかだろう。逆に十分に密な連続性、つまり情報が多数の意味を持つ場合についてはそうではない。
整理すると、干渉が連続性を保つことは干渉元が疎で干渉先が密ならば可能であり、逆に干渉元が密で干渉先が疎ならば不可能なのだ。

これはあくまでも干渉が連続性を保つことが可能な要件を説明したに過ぎない。
しかし、干渉が連続性を保つことを無条件に説明し得るケースがある。

それが感覚基盤副体だ。
感覚基盤副体は定義によって連続性を持たねばならない。
この連続性は一般的なものでよくて、別に連続体濃度を持たねばならないというわけではないが、通常の感覚については連続体濃度を持ち得るような考察を展開することは可能であった。

もし感覚基盤副体が前機械論的な理由によって連続体濃度を持つと仮定されるならば、共感覚において干渉が連続性を保つのは自明だと言わねばならない。何故か?
連続体濃度を持つということは、その軸に属する情報は無限に存在する。(そのためには別にℵ1でなくてℵ0でも良いのだが)
このような軸について干渉を定めるにはどうすればいいか?

干渉を情報の一つ一つについて定めるやり方では、これは決して成し得ないのだ。
このような場合にも干渉があると言えるなら、それは情報が従う一定の規則によって干渉を定めたとしか考えられないが、これは一般的な連続性の存在を裏付けている。

気づいた方もいるかもしれないが、これは集合論における選択公理とある意味で等価な考察である。
選択公理は有限集合については全く自明だが、無限集合についてはそうでないのだった。
同じように有限の濃度の軸では連続性を保たない干渉を常に考えることが出来るが、無限の濃度の軸ではそうではない。


そろそろ共感覚に話を戻す。共感覚が比較的単純な情報しか持ち得ないような、複雑性ポテンシャル以外の理由とは何かという問題だった。
もし共感覚を生んでいる干渉がそれ自身によって連続性を保つことを保証できているならこの問題には答えようがないが、そうでなければこれに一定の解釈を与えることが出来る。

干渉がより単純な感覚への干渉について連続性を保っているということは、その分だけ連続性の粗密の関係性が複数の感覚にわたって満たされねばならないことになる。
これを一方の感覚について言えば、複数の感覚にわたるような単一の条件が課されていると言える。
結局これは、感覚が持つ複雑性の様相についての条件だと言い換えられるだろう。

複雑性の様相とは何か?
連続性という概念はどんな意味を持ち得るかとか、どんな意味が互いに関連しているかといった具合に具体的な様相が考えられる。ならばこれを複雑性によって結び付ける構造にも同じように具体的な様相が考えられる。
複雑性は連続性の意味に関係しているから、複雑性の様相とは複雑性によって単純な副体の意味がどのように複雑な副体の情報に結び付けられているかということを意味する言葉だと考えれば良い。

すると、共感覚が一方の複雑性を他方の複雑性にその様相を保ちつつ対応させる(これは要するに個々の感覚について連続性を保つことの言い換えだ)には、干渉としての構造以外にもそれぞれの感覚系の複雑性の様相にも依ることが分かる。
それぞれが大きく異なる複雑性の様相を持つようなら、それらの間に複雑性ポテンシャルとは全く別の理由によって共感覚が生じ得ないと結論できる。

即ち、共感覚が生じるためには、あるいは共感覚を生じさせる干渉が生じるためには、以下の2つの条件を満たさねばならない。

・(共感覚について)複雑性ポテンシャルによる制約
・(共感覚を生じさせる干渉について)感覚系の複雑性の様相による制約

この2条件は完全に独立しているわけではないだろう。
後者が全く成り立たない場合、前者については成り立つかどうかすら考えることが出来ない。

ということは、複雑性ポテンシャルは同じような複雑性の様相を持つ感覚系の間でなら単なる値の比較としての意義を持つが、そうでなければこれを単に値として比較することは出来ないと言える。
複雑性ポテンシャルという概念がどういった構造を持つか、徐々に明らかになってきたのではないか?

ここでは複雑性ポテンシャルを自明に比較できる例として、次の考察を挙げておく。

ある2つの感覚系がその全ての副体について共に離散位相による連続性を持っていて、かつその濃度が連続体濃度を持っていて、さらに単純な副体における意味には必ず複雑な副体における情報が対応するならば、その感覚系の間では常に複雑性ポテンシャルを値として比較可能である。

これが確かに言えることは、先の2条件の後者について考えればすぐに分かる。
形式的に複雑性の様相が同一であることを保証することは出来ないが、あらゆる意味は必ず情報として扱われるという条件を課すことで、自動的にそれを保証できるのだ。

この条件は特殊すぎるように見えるが、しかしそうではない。
かつてのタルパ治療学や感覚化理論では、実際にこの条件が土台とされていた。
<現実>という概念を全く直感的に捉える場合、これら3つの条件はある意味で自然に満たされると考えられるのである。
日常的に「この物質の構造は他のものより複雑だ」などと言うとき、機械論的な複雑性の比較としてこれを見るならば、3つの条件が当たり前に満たされているはずのものとして考えられている。



後記

<幻覚>も<共感覚>もタルパを説明する概念としては頻繁に引用されるものであるから、関連概念の考察として都合の良い題材だった。

ところで、今回の記事はずいぶん遅くなってしまった。と言うのも、この記事では明らかに次の研究段階である代数的表現の可能性を考慮したからだ。
表面的には幻覚と共感覚の定義をしただけのように見えるが、それには共通の土台として複雑性ポテンシャルという概念が横たわっている。
この概念は複雑性を持つ副体系には常に何かしらの形式で現れるものだが、具体的な条件を与えることで、それに応じて複雑性ポテンシャルも有意義な形式を持つようになるのだ。
この記事ではその例として、感覚系という概念を据え置いた。即ち物理系であって、干渉元が常に存在するという条件を課したのである。

感覚も共感覚も、その条件を物理系に一般化すると定義できない。「干渉が存在する」という条件が満たされないと、これらの概念は論じられないのだ。

だが一貫して物理系に一般化出来る考察もあった。
複雑性の様相に関する考察では干渉の存在を前提としていないので、物理系にも一般化出来る。
§3.1の最後に挙げた複雑性ポテンシャルを値として比較するための条件は、感覚系から物理系にそのまま一般化可能だ。
これがまさに代数的表現の可能性につながっている!

これまでに副体系というある種単一な構造については詳しい考察を与えてきたが、それらの構造の関係を代数として表現するためには、まずはその構造について比較可能な概念がなければならない。
その概念の一つがまさに複雑性ポテンシャルで、感覚について考察することで複雑性ポテンシャルが常に比較可能となる条件を考察したのだが、結局その条件は物理系によっても与えられると結論された。
だから機械論的な概念に代数的表現を与える場合には、物理系についての考察を深めれば良いことが分かっただろう。

これ以上の考察は後の課題として取っておく。
今はとにかく、タルパの関係概念を明らかにするという明確な目標があるのだから。
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