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前の記事でその片鱗が示されたが、機械論を現実に適用するには、それに先立って諸概念を「理解」することが必要である。
しかしそのような「理解」も、理論の機構に組み込まれることを期待するからには一つの概念として定義されねばならない。
一体「理解」という概念は、機械論にとってどのように理解されるのだろうか?



§1 「理解」の実体性

まず重要なのは、誰かが機械論によってある対象を考察するとき、その誰かもまた機械論によって定められる一つの構造として理解されねばならないということだ。
そのような前提が無ければ、ある対象についての機械論的な「理解」も論じ得ない。

ではここで誰かと呼ばれている論者は、どのように自身の機械論的な構造を理解するのか?
そう考えると、ここでいかなる副体を持ち出したとしても、それを肯定する根拠が無いことに気づくだろう。
機械論による考察を始めるためには、自明のうちに持ち出される副体が必要となるのである。
そしてそのような副体が唯一自身を規定する拠り所とするものが、即ち実体だ。

実体は圏という構造によって示されるものであるが、その本来の意義は目的である。当然ながら、この目的とは自身でないあらゆる対象を理解するための目的であり、方向性であり、方法である。
この目的によってあらゆる対象が再発見され、晴れて機械論的な対象として「理解」されるのだ。

そう考えると、あらゆる「理解」は実体の規定を根拠としている、つまり実体性を持つ概念という言い方が出来るだろう。
この実体の持つ目的や方法に従って、副体の具体的な諸構造が順次定められていく。

しかし、そのような目的としての実体が普段は全く意識されない場合がある。それは周囲の事物に対して目的や方法といった能動的な立場を取らずにまったくの受動的な立場に終始する場合であるが、ここにまず前機械論的な概念としての受動と能動が見出されるのである。
これは後に定める似た概念と区別するために、受動的態度能動的態度とでも呼んでおこう。



§2 「態度」という考え方

では機械論的な受動性・能動性とは何を指すだろうか?
これは受動的・能動的態度について、より広範に態度という概念を明らかにすれば、まずは受動性・能動性に共通の理解を得られるだろう。

例えば因果的機序について言えば、あらゆる結果には必ず原因が見いだされる。これは正確には、「必ず原因が存在するように結果が起こる」と言うのが正しい。「ある結果を起こし得る原因」が起きたとしても、必ずしもその結果が起こるわけではないからだ。
これは言い方を変えれば、因果的機序とは「"必ず原因が存在するように結果が起こる"ように副体を差し向ける」実体なのである。

実体に差し向けられることと副体が自ら他の副体と関係を持つことは明確に区別される。
副体はあくまでも自身の構造に従って他の副体との関係を持っているのであって、副体自体はどこまでも決定論的である。

ところで副体は機械論的に自身の構造が理解されているとき、つまり軸や情報が定まっているとき、それに応じて他の副体との関係も自動的に定まるが、この機構に実体は関係しない。
必然的に実体が関係してくるのはそれ以前であり、それらの副体やそれに伴う概念が機械論的に「理解」される瞬間まで遡ることができる。
即ち実体とは、ある現実における対象物を機械論的に「理解」する際に、その実体の持つ目的・方向性などに応じた形で副体を規定する概念であることが分かる。
言い換えれば、実体は前機械論的な対象物機械論的な概念として「理解」するための態度であると言える。

そう考えると、実体によって理解される副体や概念にはそれに先立つ対象物があって、この関係は完全に不可逆的である。
不可逆的というのも、副体によって定まる関係には(実体圏の双対によって)必ずその逆の関係があり得るが、副体と対象物の関係は逆ではあり得ないからだ。
正確には、ある副体について双対を考慮する一対の関係は(連続性と余連続性のように)同じ意義を持つが、副体と対象物についてはそうではない。

態度が明確になったところで、機械論的な受動性・能動性とは実体に関する概念であることが分かるだろう。態度が対象物を理解するための実体を見出し、その実体について機械論的に受動・能動を論じ得るのである。

次に「人間はこのような実体を任意に持つことが出来るだろうか?」という問題が浮上してくる。そうでない限り、実体について何かを論じるということ自体にもはや意味がなくなる。
これを考えるために、まずは受動的・能動的態度それぞれについて少し考察する。

・受動的態度

受動的態度とは周辺環境の認識について目的や方法を持たないことである。
しかし、このような態度はあらゆる可能性においてただ1つしか見いだされない。
2つの異なる受動的態度があるならば、その2つは周辺環境について異なる認識を持つと考えねばならないが、「他と異なる認識を持つ」と言うこと自体、一方が他方に対して能動的態度を取らない限り決して言及し得ないからだ。

この考察によって、受動的態度に対応する実体が明らかとなる。
その実体は機械論的に導かれるどのような副体も区別することがない。また必然的に副体同士の関係によっても区別されないのだから、副体は個別具体的な構造を一切持たない
従ってそのような実体とは副体以外の機械論的概念を全く認めないという性質を持つ。

受動的態度は前機械論的概念であるから機械論的に考察することは出来ないが、部分的には実例を挙げることは出来る。
科学の非科学的な存在に対する態度がまさにそれだ。

科学が非科学的な存在を前にしてそれを肯定も否定もしないという科学的な立場を取るとき、科学という態度そのものは受動的態度と化している。
しかし重要なのは、科学という態度から発する非科学的な存在の否定は能動的態度に属するということだ。同様に、強引に科学という態度によって理解を試みることも、また能動的態度である。

すぐに分かる通り、このような実体もただ1つでしかあり得ない。ではこの実体について、機械論的に受動性・能動性の別があり得るだろうか?
この疑問を解決するには先に受動性・能動性の定義を明らかにせねばならないから、しばらく保留しておく。

・能動的態度

普通の環境では、2人の人間がいれば環境について異なる認識を持つであろうから、必然的に能動的態度を取ることになる。当然ながら、能動的態度は無数に存在し得る。これに対応する実体もまた無数に存在し得る。
「異なる認識を持つ」という言及が可能であるということは、その実体によって見いだされる副体には個別具体的な概念が定められ得る。
今までの記事で前提としていた実体は全て能動的態度を持っていたことが改めて理解できるだろう。

能動的態度は「現在の態度とは異なる認識を持つ」という観点によって、任意に能動的態度を決定することが出来る。
そのような態度の切り替えによって可能な態度は、元となる態度によって何かしらの制限を受けるだろうが、少なくともあらゆる制限を受けずに決定される能動的態度は必ず存在する。
それについては§4で考察する。

ちなみに「異なる認識」という点に注目すると、他の理論や思想によってタルパを研究・考察する際の態度もまた能動的態度を持つことになる。ということは、機械論的にはそれに対応する実体が見いだされると言える。
機械論は他の理論などに対する理論ではなく、他の理論を置き換える理論として、それらに対して共通の理論的土台を提供し得ることは是非とも強調すべき特徴である。

それでは、保留していた受動性・能動性の定義を明らかにしていく。



§3 実体についての受動性・能動性

実体が見出されているということは、既にいくつかの副体や個別具体的な概念が「理解」されている状態である。少なくとも、その実体を見出す契機となった対象物については、明らかに副体として「理解」されている。

そのような副体は態度に直接規定される副体として、論者が機械論によって論じる際に特別な役割を持たされる。
能動的態度は任意に取り得ることによって、この副体に関する個別具体的な概念もまた任意に定められることが分かる。
副体はあくまでも自身の構造に従っているだけなのだから、周辺環境に対して能動的に「理解」するということ自体は実体によって成されることになる。

このようにして、態度によって見いだされる副体を基点として、その態度を問いただすことによって周辺環境を能動的に理解することを機械論における能動性と定義する。
これが確かに機械論的な概念であることは、能動性の基点として何かしらの副体が理解されている状態にあることから改めて理解できる。
言い換えれば、能動性とは特定の副体によって支持される概念であると言える。

では受動性の定義とは何だろうか?
能動性の要点は態度を問いただすことにあるのだから、受動性にはこのような指向は見いだされないだろう。
つまり基点となる副体が存在して、それを元に他の副体を理解することは出来るが、態度が変化することはないような場合を機械論における受動性と定義する。
これが機械論的な概念であることは能動性と同様に確認される。

このような受動性・能動性はいずれも機械論的な概念であるから、既に実体が定まっていることが前提となる。そして、その実体は他の副体や概念を「理解」するという性質を共通に持っているのである。
ところで受動的態度では実体はいかなる目的も持たないのであったから、他の副体や概念に対する「理解」は決して生じ得ない。
従って、受動的態度には受動性も能動性も定義されないのである。

この事実は、「機械論によって論じるとはどういうことか?」という根本的な問いに答え得るものであるから、慎重に考察すべきだろう。



§4 機械論によって論じるということ

何かしらの対象物を機械論的に理解して、それについて論じるとき、必ず何かしらの目的があるだろう。目的を一切持たずに、しかし機械論的に考えるという状態はあり得ない。
一体、そのような最初に現れる目的は如何にして発見されるのか?
言い換えれば、前機械論的な思考は如何にして能動的態度を発見して機械論の中に入っていくのだろうか?

最終的に能動的態度はある特定の副体を機械論的に「理解」することによって機械論による考察に着手するのであるから、まずは現実における何らかの対象物に注目せねばならない。
しかし注目するだけでは、それに対する能動的態度を持つことにはならない。
ある対象物に対して能動的態度を取るには、その他の対象物との区別をつけねばならないが、注目するということは単にそれに先立っているに過ぎないからだ。
注目するということ自体は受動的態度によっても可能である。

では注目した上で、他との区別をつけるにはどうしたらよいだろうか。
区別することには他のものが関わってくるのだから、これは他との関わりによって成されるはずだ。この他のものとは注目されないものを指している。
つまり、注目されないものが内在するように注目することが出来れば、それは区別を達成することが出来る。

そして、この区別の最も基礎的なものが自分自分ではないものについての区別である。
ある対象物を自分と対置して自分ではないものとして注目するならば、そこには必然的に注目されないものとしての自分が内在するため、その対象物に対して能動的態度を取ることが可能となる。
これが先に述べた最初に現れる目的であり、前機械論的思考が最初に発見する能動的態度である。

即ち機械論によって論じるということは、自分と自分ではないものの対置によって前機械論的な能動的態度を獲得することから始まるのだ。
人間は通常このような能動的態度をいくつも得ているものだが、その全ては自分に関する対置を唯一の共通な根拠としている。



後記

タルパ治療学で初めて実体という解釈問題が現れてから3年ほど経った。この概念も、さらに元を辿れば後期融合仮説にまでさかのぼることが出来る。その問題も、この記事でほとんど解決しただろう。
実体とは前機械論的な対象物を機械論的な概念に置き換えるための態度であった。
即ち、現実を理論に置き換えるためには必ず無ければならないものだったのだ。
副体の集約・分解やら概念感覚やらで説明が試みられたが、これが実体の解釈の全てだ。

先の記事で話したように、2018年からタルパ機械論は応用研究のフェーズに入っていく。応用するということは、現実との整合性も少しは気にする必要があるということだ。
言ってしまえば、これまで「ただし摩擦は生じないものとする」で計算してきたものを、摩擦を考慮する必要が出てくるのだ。
こういう時に態度としての実体の考察が、そのような現実をより良く近似するためにどうしても必要になる。

この記事で述べたことが後の考察の土台になることは無いだろう。
しかし「機械論によって論じる」ということが現実から遊離した机上の空論ではないことを示すためにも、今回の考察は絶対に必要であった。
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