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タルパ機械論の応用第一弾はこちら。
というかタルパ考察企画のツイート自体、実は機械論を応用していたのだ。



§1 オート化と訓練

これをテーマの一つに選んだ背景には、当然ながら会話オート化訓練指標がある。
ここでは従来の会話オート化状況指標が受動的な分類であるという欠点を、能動的に分類し直すことで改善した。


まず大前提として、このオート化は広義のオート化である。即ち、任意の副体に対応した概念である。
副体そのものは受動・能動の差異を持たないから、これを受動的に解釈したものが既存の状況指標であり、能動的に解釈したものが訓練指標であると、表面的にはそう解釈できる。
無論、この考察の関心は副体自身にあることを忘れてはならない。受動と能動の差異はその対象についての考察によって抽象化されているのだ。

ところで感覚化理論の発展を知っているならば、このツイートの要旨は副体・感覚・オート化の対応関係に訓練を付け加えたものであると、単純に理解できるだろう。

しかしながらペンライトは、オート化については能動的に捉えることの優位性があると考えている。
それを次のツイートで示している。


ここで如実にタルパ機械論と関連する。まさに、先に投稿した記事で示した通りなのである。

最初にオート化と任意の副体は対応するといったが、機械論では形式的には否定されている。
ある単一のオート化は、タルパの側に目を向ければ、複数の異なる副体に対応するからだ。


ここでは相当平易な表現を用いている。
乱雑な集合体とは設定が不連続的であることを示している。部分的に取り出すとは、後にオート化した副体から見たときに、そのような表現が出来るということだ。
実際、設定に忠実に従うタルパは、その一側面として設定としての副体と同一の姿を見せるはずだ。

そして浸透させるという言葉が連続的にするという概念を示している。この浸透という表現はなかなか当を得ているのではなかろうか?
ある連続的な副体が設定を忠実に反映していると仮定することは、連続的な副体上で設定間に共通な性質が見出されることを意味するから、まさしく設定が浸透しているのだ!

実際にはオート化が設定に忠実であるとは限らないが、その場合でも浸透という表現を使用して良いだろう。


以上の考察を踏まえれば、全てのオート化に浸透過程が先行するという表現は何も間違っていない。
むしろ、ありのままの事実を表したに過ぎないのである。

ペンライトの理論における設定の定着という考え方の発端は古く、融合仮説中期には既に応用されていた。
その本質が即ち、副体の連続性に対置される設定の不連続性なのである。


ここでは狭義のオート化ではないオート化、つまりより抽象的な領域におけるオート化にまで拡張している。
抽象的な領域とは感覚を表す副体からの干渉を経る副体とも言えるし、また感覚を表す副体の創発としての副体とも言える。後者は前者の特殊な場合である。

ここで、またしても機械論での言及と一致するのだ。
何故ならば、ある感覚に対応する副体が連続的であるからといって、そこから干渉を経た副体も連続的だとは限らないし(前者の例)、その副体の表す意味が連続的であるとも限らない(後者の例)
そう考えると、狭義のオート化に対応する副体は、広義のオート化に対応する設定と見なせるのである。


ここで機械論上での設定の扱いを、通常のオート化の分類に結びつけている。
2つの方向性の前者は創発に、後者は干渉に、それぞれ対応させているのだ。

この考察によって、オート化は一般的に3つの分類を持つことが分かる。
もっとも、個別的にはそれぞれがさらに複数の分類を持つことになる。


さて、機械論の考察で「並ぶ」や「続く」という順序を表す言葉を個別具体的に解釈するときは、それが前の方なのか後の方なのかに注意しなければならない。似たケースでも逆の言い方になることがある。
しかしそのような言い回しは、結局は順序という本質に目を向けさせているだけなのだ。どちらが前であるかは本質ではない。

このツイートにおける後続するもその例外ではない。むしろこの使い方は混乱を招いてしまっている。

先の記事で触れたが、純粋に集合論的に考えれば、会話オート化は個別言語のオート化の集合として理解されるのである。つまり個別言語のオート化は会話オート化に含まれるという関係にある。
この包含関係においては、会話オート化が個別言語のオート化に後続すると言いたくなるだろう。実際、それも1つの解釈である。

しかし包含関係の順序としての本質に目を向ければ、言い訳がましくはあるが、後続という言葉自体は大した意味を持たず、それに続く表現がその本質なのである。

この例では、ある副体Aのオート化が別の副体Bのオート化の必要条件であることを「AはBに後続する」と表している。
だからこそ、個別言語のオート化が会話オート化の必要条件であることが、「個別言語のオート化は会話オート化に後続する」と表されたのだ。

逆に「会話オート化は個別言語のオート化に後続する」と言いたければ、先の条件を十分条件に置き換えればよい。
そうすれば「BはAに後続する」となり、この言い替えが可能である。


これとは別に、より直接的な例を挙げるとすれば、会話と視覚、聴覚と触覚、味覚と嗅覚などに当たる。
これらが通常は共感覚と呼ばれるものであることには、すぐに気づくだろう。

すると、このツイートの例はその特殊な場合であって、普通な意味での空間としての性質を持つ副体が絡む場合である。

動作のオート化という概念は、普通な意味での空間という特殊な性質を持たされた、やや人為的な概念である。
即ち、重力を考慮したり、他の物理的な存在との相互作用を考慮するためのオート化なのだ。
リアリティを求めるならば必須であるが、タルパにとっての必要条件ではない。

干渉によるオート化の進行とは、はじめは単に共感覚的なものであると理解すればよい。
広義のオート化についても事情は同じである。


この関係性は、機械論的というよりは統計的な内容にあたる。

成長初期では連続的な副体の数が乏しく、干渉による進行を期待できないのだ。
普通な場合では、せいぜい会話オート化や視覚化が達成されていれば十分と見なされていて、聴覚や触覚は考慮されないことが多い。
そこで連続的な副体を補うために、まずは創発を先行させる必要があるのである。
おそらくそれは、会話オート化から進行することになるだろう。

一方、充分に成長したタルパでは、意識的に訓練しない限りは双方が日常的な範囲内で進行することになる。


今までは受動能動を抽象化して副体について考察してきたのだから、これを能動的に解釈し直すことによって、そのまま訓練についての考察となる。
ペンライトは複合的な訓練は初期では避けるべきと言ってきたが、これがその理由である。



この2つのアプローチも、古い段階から使われてきた。
機械論的に解釈すれば、情報の抽象性に相当する概念である。
必然的に、この訓練は浸透過程を終了していなければならないことが分かるだろう。


この分類は、とりあえず一般的な性質から明確に分けられるといった程度の意味でしかない。
特に会話オート化は感覚化から離れているため、さらに多くの段階に分けられるのである。
(ただし会話オート化状況指標の5段階はそういう意味で会話オート化を正確に捉えているわけではない。あれは単なる素朴的な近似である。)


ここではオート化とタルパーの副体を関連づけている。
タルパーの副体が訓練されるとはどういうことか?

これは視覚化について考えてみれば分かりやすい。
視覚化すると言っても、それは物理的に存在するものと同じように見えているわけではないのだから、その視覚情報は感覚器官ではない副体で受け取っているのである。

さて、その感覚器官ではないが視覚情報を受け取る副体は、最も個別的な場合では対象のタルパごとに存在することになる。2人のタルパがいれば、本来の視覚を含めて3つの似た副体が存在している。
これらの副体は、同じ空間上に存在していると言えるか?別の表現をすれば、これらの副体は視覚を空間として定義している軸を同様に持つか?

これには反論があるかもしれない。
しかし、本来の視覚とタルパを見るための視覚が全く相互作用しないという状態はあまり考えられないのだ。
視覚化の訓練に黒い画用紙を用いる手法があるように、これらの副体同士は明らかに相互作用しているのである。
とすれば、少なくとも干渉場では作用している。即ち同じ軸を持っているということだ。

そう考えれば、視覚化の訓練にVRや残像を利用することには正当な根拠があると解釈できる。
それらを見ること自体は訓練にはならないが、それらを通して見えないものを見ることを訓練することが出来るのだ。



§2 オート化と暴走

タルパ考察企画の直前に、このようなツイートがあった。


初出はいつ頃だったか忘れてしまったが、この表現も比較的古い。
少なくとも治療学~感覚化理論の間には既に出ていたのだ。


このブログでは普段から暴走のほとんどはタルパーの責任であると言ってきたから、この表現は単なる論理的な操作による導出である。
しかし、通常は企画での言い方が受け入れられやすいだろう。


先の記事ではオート化とは複数の副体に対する現象の総称だと言っていたが、この言明とは矛盾しない。
形式的には、ある連続的な副体が存在するならば、それを切断(あるいは分割)することによって、設定することが可能だからだ。設定と見なせるならば、オート化の対象と見なせるだろう。
元から不連続な副体についてはオート化の対象となり得る。

もっとも、設定することが可能というのは、現実的に可能かどうかは問うていない。
例えば会話オート化について意義のある設定を行うことは難しい。


オート化が人それぞれな方向をとる事実を、訓練の能動性によって説明している。
これを原理とするのが人それぞれ論なのであるが、それでもオート化の可能な方向性は実体による制約を受ける。
訓練が能動的でも、その目的としての実体が受動的なものであれば、その能動性は空想でしかない。

実体が受動的であるということは、可能な副体全体が受動的であるということだから、それらがタルパーにとって外的な要因による制約を受けていることを指す。
もし読者が「○○はタルパでは不可能である」といった主張を真に受けているのであれば、目的そのものが受動に陥ることには最大限注意しなければならない。
とは言え、人それぞれ論を絶対視するならば、最初からそのような外的な制約を受けることを望まないであろうが。

ちなみに、タルパーのタルパに対する能動/受動という概念は、まだ深く考察されたわけではない。むしろこの企画で初めて理論への導入を試みたのである。


ここで、オート化の対義語としての暴走を定義した。
対義語とはあくまでも極端な場合の表現であり、その中間にはいくつもの段階がある。

その段階的な変化こそが本質なのであり、オート化や暴走はその一側面に過ぎない。
逆に言えば、この2つの概念はその間の段階的な変化によって1つの概念に抽象化される。


...従って、このように解釈されるのだ。



先にオート化についての訓練を3つに分けたが、それはオート化限定ではなく一般的な結論であった。ならば暴走にも同じ基準を用いることが出来る。

設定は故意でなければ暴走の原因にはならないとあるが、故意ならば結局その方向性が正しい方向性となるため、暴走の原因を設定に帰することは考えられないのである。
また個々のオート化に対する抽象・具体性は単一の副体での分類であって、これも原因にはならない。

すると唯一残る可能性は、新たな副体が発生する可能性のある場合に限られるが、一方の創発はやはり除外される。
創発はある副体の不連続な意味を設定とするオート化の一形態であるため、設定と同様の理由で暴走の原因にはなり得ない。

必然的に干渉を利用したオート化、即ち既存のオート化の関連づけが暴走の主原因となるのだ!
その具体例が次に示されている。


ここで述べたことが暴走には当たらないという指摘もありそうだが、ここでは主に暴走の原因を主眼としている。

普通にタルパーが想像するような暴走は(タルパ戦争で有名なように)もっと派手で分かりやすいエピソードを持つが、だからと言ってその原因も分かりやすいものだとは限らない。
原因の大半は些細なことなのだ。しかし、些細であるために気づかれない。
ここに挙げた例も、その一つである。

ただしこの解釈における暴走は、俗的な認識とは異なるかもしれない。
例えば他者に危害を加える目的を持ち、そのための設定を作ったタルパはいずれ暴走すると考えられるだろう。
しかしこの解釈では、このタルパが暴走に至る過程や程度も、健全なタルパと何も変わらないのである。

この結論は、オート化が副体間の関連によって定義づけられたことを考えれば当然のことである。
オート化はそれを見る主観によって異なるのだから、暴走もその通りなのだ。


このようにして、最終的に、オート化・感覚・訓練・暴走の4概念が同じ土台で語られるのである。
これらが実に整合的な関係を保っていると、今まで誰が知り得ただろうか?

まだまだタルパ機械論による考察手法は不完全である。理論的にも実践的にも、実用化への道のりは長い。
それにしても副体という単一の概念によってこれほど多くの事実が説明されることには、数学におけるオイラーの法則の偉大さを想起せざるを得ない。



後記

タルパ考察企画における一連の考察は、いずれもより正確な定義を目指すものであったから、具体的なオート化訓練法を知りたいタルパーからすれば期待外れだったかもしれない。
実際、タルパの研究/考察者の中でもここまで純粋に理論を追い求めることを目的としているのはペンライトぐらいなものだ。
他の大半は、理論は実践を強化するための脇役としか見ていないのが現状である。

これからはこのブログでも実践的な内容に入るだろうから、改めてペンライトの立場を明らかにしなければならないだろう。

例外的な事象は、現実に対する理論の無力感を示すものではない。
より完全な理論が存在することの、何よりの証拠である。
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