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タルパ現象論による「タルパの全体性」の解明(第二部)』に続いてタルパの境界付けを行う第三部を投稿する予定であったが、先にタルパ創造現象の区別に関する考察を済ませておきたい。
例えば創造型や邂逅型についてはどのような契機によって把握されるかが明らかとなったが、しかしどのような境界において把握されるかは依然明らかでない。
ここではそのような素朴な諸観念をタルパ現象論によって解明することで、それがいかに混乱した観念であるかを明らかにし、またどのような注釈をつければその混乱を除去できるかを明らかにするのが目的である。

ちなみに消滅現象を主題としないのは、『タルパ現象論による「タルパの全体性」の解明(第二部)』での事情と同様である。ただし今後投稿される第三部においてタルパの境界付けが明らかになった後では(また第二部においても既に注意を促したように)、創造現象に対応する形で一挙に解明されるだろう。



§1 諸注意

この記事では単に諸観念の解明の例示が目的であり、ゆえに深い考察には立ち入らずに観念を確認するだけにしておく。
その際にはそれぞれの観念ごとに個別の分析を行うのではなく、現象学的手法によって包括的な区別を試みる。「包括的な区別」という言葉は違和感があるだろうが、要するに「総合的な解釈に基づいた、分析的でない区別」といった程度の意味だと考えて良い。分析的な区別は事実的な要素を考慮する必要がどうしても出てくるのであり、そうなると例の人それぞれ論が理論の領分に土足で踏み込んでくるのである。
このような事態を防ぐためにも、包括的な区別という言葉遣いに最初に注意を向けておくのは有意義であると思う。

ここで言う「区別」というのはあくまでも方法論的概念なのであり、方法的概念と混同されてはならない。例えば大半のタルパ考察がその土台とするところの「分類」なり「定義」なりとは別の次元の概念であると考えられねばならない。
これらは似た意義を持つように思われるが、その方法論的基礎付けが保証されるのは以下に述べる区別のみなのであって、分類や定義は「そのように考えられる傾向がある」といった統計的な調査における仮定や帰結としてのみ役に立ち得るか、あるいは不当にもそこから理論的洞察を引き出そうものなら全く混乱した解釈しか得られないのである。



§2 タルパ創造現象の区別についての諸考察

タルパ創造現象については、現在進行形で様々な解釈や分類が試みられているのはよく知られているところである。
創造の様態や変容として考えられ得るものとしては、既に粗方分析された創造型邂逅型分裂と統合、そしてまだ触れられていないものには生誕型版権タルパ奪取・譲渡ダイブ界の住人タルパが創造するタルパなどがすぐに挙げられる。

無論それら以外にもIFなどの心理学上の存在者、あるいはパートナーやガイドなどのいわゆる霊的・高位存在を契機としてタルパが創られることがあるが、結局これらを解明するためには前者では個別的な学問領域が、後者では存在者の存在についての境界が与えられねばならず、それがどういうわけか謎とされる(あるいは未解明のままである)限りではそのような契機を解明する目的・動機をタルパ現象論は一切有しない。
しかし、それにしても次のことだけは明らかである。即ちそのような存在者を契機としてタルパを創造することは、他の全体性からの創造の契機に還元されるのでない限り、あるいはその存在本質が実は自己に基づくのだと解釈されるのでない限り、妥当な現象であることは決して出来ない。
だからここで未解明なものはそのままにしておいても、タルパ創造現象の区別の考察にとって重要な領域が取り残されるということは一切無いのである。



§2.1 生誕型

以下で度々同じ分析を行うことになるが、これらの既成概念を現象学の領域に持ち込むにはまず概念に付着している日常的な意味内容を全て剥ぎ取らねばならない。
この時点で「生誕型」という言葉の持つ心理学的・生物学的な意味はこの概念の構成物からは一旦除外される。例えばそこで創られるタルパが子供であったり、あるいはそのタルパを創ったタルパ(タルパー)から何らかの性質を譲り受けるなどといった意味としては、もはや生誕型は解釈され得ない。

依然として「誰かによって創られた」という意味は残っているが、「創る」のタルパ現象学的な解釈は既に与えられているから、「誰かによって」という意味の解釈の重要性が浮き彫りにされるのである。
「~によって」という作用はその原因が自己であるか他者であるかでタルパ現象学的には解釈の分かれるところであるが、少なくともそのどちらかであることは確実であるから問題ない。

この「誰か」という意味もまた先の分析が行われねばならない。現時点では、安易に「ある特定の人間やタルパ」のことと解されてはならないからだ。ここで「誰か」がある特定の存在者を指示するという論理的な構造もまた剥ぎ取られ、それは差し当たり単なる把握された存在者、即ちある全体性において把握されている存在者のことと解される。
ここから、確かに生誕型はタルパ創造現象であり得ることが解明されるのである。
全ての生誕型タルパが創造型タルパだと考えることには反論もあるだろうが、邂逅型が創造型の特殊な場合であることは明らかなのであり、「生誕型」の語が含む素朴な意義が不当に歪められたということはない。

しかし、この契機を次のように解釈すると別の次元での把握の契機なるものが浮かび上がってくるのであり、しかもそれがタルパ現象論にとって根源的な現象であることは認めざるを得ないように思われる。即ち、生誕型から「~から生まれた」ことについての素朴な意義を全て取り除いたとしても、そこには依然として「ある全体性(把握)が契機となって生じた」という意義だけは把握そのものの理念的な性質として残るように思われるのだ。
この契機は把握そのものの契機である対象物と混同されてはならない。生誕型タルパがこの意味で「~から生まれた」と言われるとき、それは対象物ではなく別の全体性を指しているのである。
つまり把握の契機には二つの全く異なる次元がある。一方には対象物に注意を向ける実的な契機があり、他方では全体性から継起する理念的な契機がある。
この「継起」という表現が重要なのであり、ここには純粋に現象論的な時間性の概念が見て取れる。あらゆる把握は(そして当然ながらあらゆる理解もまた)どの異なる2つを取ってきても絶対的に時間的な前後関係を与えることは出来ないが、把握の継起ではそれが理念的な仕方で与えられているのである。

以上に述べたことは以後のいくつかの契機でも有効であり、§3での考察では明瞭に主題化されることになる。



§2.2 版権タルパ

先の考察と同様に進めていく。
「版権」という言葉の「他人の著作に基づいた」という意味内容は直ちに除去され、そこには自己の観念に基づかないという形式だけが残る。何故ならば「他人」がある特定の存在者を支持するという論理形式も取り除かれるのだから、そこにはもはや(世界内における)自己とは関連しないという形式しか残らないのだから。
「自己の観念に基づかない」とは「自己の外側にある」と解釈され、ここに把握の基礎付けである区別が現れる。
区別によって自己の外側にあると解釈されるのだから、それは喚起による把握が契機となるのである。

しかし以下のような解釈もまた可能ではないだろうか?

自由を契機として把握されたタルパに対しても、それを純粋に論理的に解釈する限りでは喚起による把握を受けていると言える。ここから先の記事で取り上げたような再把握によって当のタルパの全体性が喚起によって把握されている限りにおける全体性に変化した場合、このタルパもまた版権タルパであると言える。
これはタルパ現象論からの言明であって、素朴な解釈においては問題とはされない。というのも、「ある存在が可能である」という言明と「ある解釈が可能である」という言明は全く異なる事態を表しているからだ。前者は「ある把握のもとで」という所与性を持つのに対して、後者はそのような所与性そのものを主題としているからだ。
ところで、このような図式は先の記事での第一の問いの考察にも現れている。「それが可能であるかどうか」の問題は実践の領分では避けられないのであり、実践の領分における区分としてのみ解すべきと結論していた。版権タルパの以上の解釈についても同じことが言えるのである。

先の記事によれば邂逅型は共有された全体性の限りにおける創造型と解されるのだった。とは言え全体性には共有されていないものも当然あり得るのだから、喚起による把握が境界付けるタルパとしては邂逅型はせいぜいその一部分を充実しているに過ぎない。
一方で版権タルパは喚起による把握によって直接に境界付けられている。
以上の事実を考えると、邂逅型タルパは版権タルパの全体性としての一部を成していると結論できる。
このような連関は他に考察する観念にも見いだされるので、§3でその全体図を与える。

ところで版権タルパが邂逅型タルパを全体性として含むのであれば、版権タルパには相応に広義な名辞が与えられてしかるべきだろう。
私はこれを「喚起型」と名付けることにする。もちろんその由来は喚起的な把握をその直接の境界としていることに依る。



§2.3 奪取・譲渡

この二観念を同時に考察するのは、素朴な解釈においても同様の契機を持つ現象であることについて少なからず問いを受けているからである。またこれらを創造現象であると考えるのは、明らかにこれらの契機によってタルパーはタルパを新規な全体性として把握するようになるという仮説が容易に立てられ得るからである。

これまでと同様にして奪取・譲渡する対象が持つような「ある特定の他人によって創られた」という意味内容は除去されるが、特に次の点には注意せねばならない。素朴な解釈では「ある特定の他者が創ったタルパ」が相関者となるが、先の意味内容が除去された後に残るのは自己の観念に基づかないタルパでしかないのである。
また「タルパ」そのものも除去されるべき意味内容であるから、結局は版権タルパなどと同様に自己の観念に基づかない存在者となるのであり、以降も同様の考察が続く。
版権タルパおよび奪取・譲渡は純粋に現象論的に解釈する限りでは同一の現象、即ち喚起によって境界付けられる現象とされるのであって、その差異は分析的解釈によって定立されるか、あるいは§2.1で述べた継起の違いによって区別されねばならない。

そこから把握が継起してくるところの全体性に注目すると、生誕型と奪取・譲渡とでは全く様子が異なることが分かる。生誕型は差し当たり明瞭に把握されている全体性から継起するのであり、奪取・譲渡は喚起的に把握されている全体性から継起するからだ。
このようにタルパの創造契機は理念の範疇によっても区別され得るのだが、さらに詳しい区別は§3で与える。



§2.4 ダイブ界の住人

ダイブ界の住人が「ダイブ界の」と言われるのは、ダイブ界という「世界」がその創造契機である点に由来するのである。またこれがとりわけ特殊な創造現象に数えられるというのも、「存在者としての全体性」と「世界としての全体性」は異なるものであるという観念が素朴な意識においても生じている証拠に他ならない。
この観念の意味内容が除去されると全体性に基づいたという形式だけが残り、結局これは把握の全体性によって境界付けられることから分かるとおり、自己の観念に基づいている場合も含んでいるのである。

ダイブ界の住人については創造現象が明瞭に経験されるとは限らず、むしろ大抵の場合はそうではない。この事実はダイブ界の住人がタルパとして把握される際にしばしば邂逅型であるとみなされる事情を説明している。
ここで、既に何度も指摘したように、タルパ現象論では邂逅型は創造型の特殊な場合として解釈されるのであるが、これはあくまでもダイブ界の住人の把握についての解釈に過ぎない。それが継起してくる世界そのものもまた創造され得るのであり、まさにこの前提によってダイブ界はダイブ界の住人にとっての時間的な契機と見なされるのである。
この連関を継起として見る場合には生誕型などと全く同様の解釈となるが、「世界から継起する」というダイブ界の住人に特有の性質は継起に対して相応の重要性を持った理念を与えている。即ち、ダイブ界の住人は世界のなかに在りかつ世界とともに在るような形式で存在する存在者として把握されるのである。

ところで、ダイブ界の住人にはもう一つの異なった解釈を付け加えることも出来る。もともとダイブ界の住人であった存在者が、後からタルパーやタルパとの交流によってそれなりの顕在性を備えてきて、もはやダイブ界からは独立して存在し得るようになった、という例は先の解釈には当てはまらないように見えるだろう。
この場合には次のように考えれば良い。もともとそのようなタルパはダイブ界の住人だった。つまりダイブ界を時間的な契機として持つような把握によって把握されていた。この全体性そのものが今度は時間的な契機とされて、別の把握によって再把握されたのである。後で何度か触れるが、再把握とは継起の一様態であって、それに先立つ把握と対象物の把握とが同じ対象物を志向しているという様態における継起なのである。

この連関は現象学的含意を完全に無視しても良ければ次のように簡単に記述できる。
ダイブ界の住人:ダイブ界→(継起)→当の存在者
ダイブ界の住人であったタルパ:ダイブ界→(継起)→ダイブ界の住人→(再把握)→タルパ

明らかに、把握に時間性を与える継起には積み重なりという現象が見出されるのであり、これは実用上とても有用な概念である。
タルパは継起の積み重なりによってある種の個別化を被り、その結果として歴史的存在者としての性格を獲得するに至る。この詳しい意義は§3で考察する。



§2.5 タルパが創造するタルパ

ここでも§2.4と同じく二つの全体性が表れている。主語としての「タルパ」はここではその把握の全体性に基づいた者としてのみ、即ち時間的な契機としてのみ解釈され、目的語の「タルパ」はそれとは別の全体性が把握されているのである。この点で事情は生誕型やダイブ界の住人と同様である
ところが、ダイブ界の住人とでは以下のような理念的な区別が与えられることになる。なお理念の語についてはこれまでも何度か使用されているが、§4で明瞭な解釈を与える。

ある存在者に対しての世界はそれらの全体性を包括するものとしての意義ないし理念を持っている。その様相というのも、各々の存在者が世界の内から、世界とともに現れてくるといった在り方においてである。確かに§2.4では事態はこの通りであった。
だがある存在者に対しての他のある存在者は、理念上そのような関連様相を持つのではない。当然だが、この関連様相は設定上・事実上の主従関係やその他の所属関係などとは全く無関係なものである。
したがってタルパが創造するタルパについては、それが主語となるタルパとともに同時的に現れてくることはあっても、そのタルパの内から現れてくることはあり得ないのである。

以上の考察によれば、先の3つの契機は次のように区別できる。
これらの根底には継起という現象があり、それに「誕生」という素朴な意義が与えられたものが生誕型、「タルパから継起した」という(これ自体は既に明瞭であり得るが)日常的な意義が与えられたものがタルパが創造するタルパ、その内から継起してくるという理念が与えられたものがダイブ界の住人なのである。
すぐに分かるように、現時点でタルパ現象論的に最も明瞭に解釈されているのはダイブ界の住人のみであり、前者2つはそれなりに素朴な解釈が成されていることに注意。

ところで、この創造契機は必ずしも主語であるタルパを再把握するわけではない。言い換えれば、この創造契機と分裂・統合の契機には明瞭な区別を与えることが出来る。
分裂・統合の場合にはもはや主語となるタルパとともに現れてくることは現象論的に不可能である。一方でタルパが創造するタルパの場合には、あくまでも主語となるタルパは単なる創造契機に過ぎず、二者は同時的に現れ得る。即ちこれはこれで別の創造契機として区別されるのである。
後で詳しく説明するが、ここで再把握が継起の変容として解釈される可能性が出てくる。実際その通りなのであり、この解釈においてタルパが創造するタルパと分裂・統合の二契機は理念上の連関といったものを持つことになる。



§3 タルパ創造現象の全体図の素描

以上での考察によって、タルパ創造現象について未だかつてない広範かつ精密な分析を与えた。
これらは素朴な領域においては個別に(しかも混乱した)解釈を受けていたのであり、そのために創造契機の区別としては全く実用に堪えないものであった。
そうであればこそ、ここに改めて全体的な連関を与えることでタルパ創造現象の区別の諸考察は完結するのである。

・全体性(の境界付け)としての包含関係

まず把握の全体性によって直接に境界付けられる創造現象としての創造型がある。創造型は自由によっても喚起によっても把握され得るという意味で最も根源的なタルパ創造現象であり、その他全ての創造現象は創造型の全体性としての部分(即ち包含関係)であるか、あるいはその時間的変様態(即ち継起関係)である。
ここでは前者のみの観点でまず包含関係を記述し、後者の観点は次の継起関係の項で記述する。

創造型の喚起によって把握される限りにおける特殊な契機喚起型である。これは版権タルパの素朴な観念から引き出されてきたのだった。

ところで創造型の自由によって把握される限りにおける特殊な契機にはこれといった名称が与えられていない。これまた素朴な領域において十分に問われていないことが原因であり、とりわけタルパの創造には少なからず何らかの設定が必要と考えられていることが根本原因だと考えられる。
喚起に境界付けられるものが喚起型と呼ばれたことに鑑みれば「自由型」と言えなくもないが、この名称は「自由」の語に含まれる多義性がことごとく邪魔することになってしまうだろう。
だからここでは単に自由によって把握される創造型とでも呼ぶことにする。これに妥当な名称を与える考察は手間がかかるだけで得るところが少ない。

喚起型を境界付ける把握の共有された全体性に基づく限りにおける特殊な契機邂逅型である。この説明はもはや不要だろう。

以上の4つの契機があれば、全てのタルパをいずれかに区別することが出来る。実質的には自由によって把握される創造型と喚起型があれば、必ずそのどちらかに区別される
ここで次の疑問が直ちに沸き起こるだろう。先に考察した奪取・譲渡や生誕型などはこれに単純には当てはめられないのではないか、と。しかしこの疑問は、最初に注意しておいた全体性としての包含関係によって説明されない継起関係を強引に持ち込もうとするために生じているにすぎない。
実のところ継起関係も厳密な還元を施せば包含関係に引き戻せるのであり、以下ではその観点からそれらの関係を記述するのであるが、厳密な還元とは複数の全体性から継起的に把握される全体性からその継起性(即ち時間性)を取り除くような方法論的忘却的分析なのである。言い換えれば、あるタルパがかつてそのようであったところの全体性を全て忘却することで、継起関係を含む創造契機の包含関係のもとでの明確な関連付けが達成されるのである。

かつてそのようであったところの全体性が過去のものとして把握されていることを考えれば、それに対応する未来のものとして把握されるところの全体性も当然考えられる。
この記事で挙げた契機にそのような全体性を含む継起関係が見いだされなかったのは、やはり素朴な領域において問われていないことによるのだろう。
実際素朴な領域では、過去が事実性のもとで把握されるのに対して、未来は可能性のもとで把握されるに過ぎない。事実によってタルパを区別するなどという態度によっては継起関係の半分しか考慮されないのも当然であろう。
しかしタルパ現象論での創造現象の境界付けは「可能性の境界を定めること」(『タルパ現象論による「タルパの全体性」の解明(第一部)』§2より)であるから、未来として把握される全体性もまた継起関係を構成する重要な領域の一つなのである。

次に生誕型の包含関係を記述するが、この記述は生誕型の素朴な観念が先の疑問を強く体現しているために一層難解なものとなっている。
一見すると、生誕型は他のタルパ(タルパー)という明確な契機を持つのだから、そこから生まれるタルパは喚起型であるように見える。しかしこの場合の契機とはそこからタルパが把握されてくるところのもの(即ち把握についての契機)ではなく、そこからタルパの把握が継起されてくるところのもの(即ち時間性についての契機)なのである。
この二つの意義の違いによく注意せねばならない。把握についての契機とは把握の基礎付けである区別を与えてくるもの(即ち与えられる事物)であり、時間性についての契機とは把握されたものが再把握されるところのもの(即ち把握を継起させる作用)である。そうであるから、与えられる事物は如何様にも把握される可能性を持つが、しかし継起させる作用では把握されているものによってそれなりの理念上の方向性などと言ったものが考えられるのである。

さて、以上の考察内容に注意を向ければ、生誕型の把握は結局自由によっても喚起によっても成され得ることが分かる。
何故ならば、生誕型タルパにとってその契機である他のタルパは把握についての契機ではなく時間性についての契機だからであり、生誕型タルパそのものの把握はそれとは別の契機を持ちうるからである。別の契機はここでは何らの特殊な境界付けも与えられていないのだから、したがって次のように言える。
生誕型全体性の境界付けのみを解釈する限りでは創造型と区別されない

この言明には確かに漠然とした違和感があるが、その理由は生誕型の素朴な解釈が生誕型の時間性についての契機である他のタルパの方を極めて強く、しかし把握についての契機と混同して志向していることによるのであり、その解釈に依存する限り創造型と生誕型の明瞭な区別は与えられ得なかったわけである。

奪取・譲渡においても事情は似ているが、こちらは喚起型となる。生誕型はあくまでも自由によって把握される可能性が残されていたが、奪取・譲渡では喚起による把握でしかあり得ないからだ。それはちょうど版権タルパ(オリキャラなどでない、他人が作ったキャラクターに基づいたタルパ)が喚起によって把握されると考えられたのと全く同様である。
したがって、奪取・譲渡の契機は全体性の境界付けのみを解釈する限りでは喚起型と区別されない

ダイブ界の住人、タルパが創造するタルパ、分裂・統合については生誕型と同じ解釈が適用できる。
それらがいかに世界やあるタルパを志向していようと、全体性の包含関係としては創造型とは区別されないのである。
ダイブ界の住人は往々にして邂逅型だと解釈されがちであるが、それは創造現象が経験されにくいという個別の事情が影響している。無論、創造現象の経験されにくさとでも言えるものは今考えている創造現象の区分と相関する性質のものではない。

・時間的な契機を考慮した継起関係

§2以下の考察で、把握される対象物把握が継起されてくる全体性(として意識される限りでの対象物)のそれぞれの契機を区別しておいた。というのもその区別は、実際に把握される(理解される)存在者の本質的存在様相の区別として現れてくるのである。即ち前者の契機によって把握された存在者は自然的存在者であり、後者の契機によって(それを伴った把握によって、と言うのが正確であるが、その契機によって)把握された存在者は歴史的存在者であるといった区別を与えることが出来るのである。
前者を「自然的」と表現したとおり、本来的にはあらゆる存在者を把握するその把握の現象は全て時間的な契機を伴っているのであるが、時間的な契機としての把握がそこから継起してくる把握にとって背景として非顕在的に意識されているに過ぎない場合には、つまり時間的な契機としての把握が注意における注意されないものを境界付ける場合には、その存在者の歴史性はその理念には含まれないでいるといった具合でまさしく自然的なのだ。


注意の現象で注意されないものが自己の側でないと言う意味で喚起的であるのは自然的な場合に限った話であることに注意。
時間的な契機が注意されていないからと言って、そこから継起してくる把握が喚起的であるとは限らない。このことからも分かるとおり、時間的な契機としての把握と対象物の把握はやはり全くの別物なのである。

時間的な契機を伴う把握は、自然な把握の個別の様態がそうであったように目的論的であり実践的な意義を持つのであるが、これら2つの意義は次にひとまず簡潔に示されるような区別によって別々の次元の意義を持つのだと解釈されねばならない。
即ち、自然的な存在者を把握するその把握が「日常的」ではなく「自然的」という別の語が使われたというのも、ここでは把握の契機がひとまず明瞭になっている程度には現象論的な文脈において語られているからである。これらの語の区別から分かるとおり、創造契機が明瞭でないという意味で素朴だとされる言明歴史的存在者として把握されていないという意味で素朴だとされる言明は厳密に区別される。
そこで当面の間は前者の素朴さを「日常性」として表し、後者の素朴さを「自然性」として表すことにする。
またその目的論的・実践的な意義については§4で触れるが、その十全な考察は後の記事で遂行されるだろう。

以下ではタルパを歴史的存在者として把握するような創造契機を分析していくのだが、先の考察内容は常に注意しておかねばならない。あの区別は、日常的な領分において把握の契機が混乱しやすいこと以上にさらに混乱を招きやすいのであって、だからこそこれまでのタルパ考察では一切考慮されなかったところのものだからである。

生誕型顕在的な把握から継起した創造型である。「顕在的な」というのはもちろん時間的な契機としての把握がその把握の現象において注意されたものという様態で把握されていることを意味している。
生誕型は「そこから生まれてきた」という意義としての契機を志向しているのだから、それは顕在的でなければならない。
生誕型そのものが創造型であるのは包含関係の項で既に指摘したとおりである。

タルパが創造するタルパもまた「タルパが創造した」という意義としての契機を志向しているから、事情は生誕型と全く同様である。即ち顕在的な把握から継起した創造型である。
生誕型とタルパが創造するタルパとの区別は、それに「誕生」という(ここでの文脈が属する範疇においては)素朴な解釈が含まれるか否かに存しているだけなのだ。

ダイブ界の住人非顕在的な把握から継起した創造型である。というのもダイブ界の住人がそこから創造されてくるところがダイブ界なのであるが、タルパ創造現象においては差し当たり背景として把握されているに過ぎないのだ。何故ならば、この契機のタルパ創造現象において注意されている者はタルパ(としての対象物)の方であり、それに対してダイブ界の景色や物体といった諸対象物はタルパを言わば浮き彫りにさせるための背景として注意されていないような形式で区別されているからである。

以上3つの契機は自然的な範疇では創造型に属する。そう考えるのはあまり違和感のあることではないだろう。私たちは素朴な意義においても、これらの契機においてタルパを「創る」と言うことが出来るのではないだろうか。
しかし以下に考察する2つの契機は必ずしもそうではないことが、主に時間的な契機としての把握の様態把握の現象そのものの様態の違いによって示されることになる。タルパ創造現象の広大な領域もまたそれに伴って暗示されてくるだろう。

奪取・譲渡喚起としての把握から継起した喚起型である。
時間的な契機としての把握の様態がこれまでと異なることに注意。奪取・譲渡はそれが顕在的か非顕在的かは問うていない。この契機では明らかに奪取する・譲渡される対象である「他人のタルパ」を志向しているのだから、それは喚起によって把握されている。
しかし大抵の場合はその契機であるところの「他人のタルパ」は顕在的に把握されている(だからこそそれを奪取・譲渡し得る)と考えれば、その時間的な契機は顕在的喚起としての把握だとする解釈もまた可能だろう。ところで非顕在的喚起とはまさに原始的な態度において自己と対置されて把握されるような様態であるから、この別の解釈において奪取・譲渡から排除される契機とは他人のタルパであることが差し当たり意識されていない限りにおいてそのタルパから喚起されてくる把握のことなのであるが、このようなタルパは素朴な解釈においては奪取・譲渡とは考えられていないだろう。したがってこの別の解釈もまた可能だとされるのである。

分裂・統合顕在的な把握から再把握された創造型である。
これは把握の現象そのものの様態がこれまでとは異なる。再把握は継起の一つの変容であって、即ち時間的な契機である把握当の対象物の把握のそれぞれが志向している対象物が同一であるという変容を受けた継起なのである。
ところで§2.5での言及によれば、分裂・統合によって創られたタルパはそれが創られたところのタルパとともに現れることが不可能なのであった。重要なのは、この事実によって創造契機が特徴づけられているのではなく、創造契機のこの特徴づけが先の事実を生じさせているということである。いかにこの事実がタルパの本質を特徴づけているように見えるにせよ、依然として把握はそれ以上の意義を持つ現象論的現象なのだと解釈されねばならない。
さらに言えば、分裂・統合の継起の様態である再把握が先の記事でタルパ消滅現象の境界付けとされていたことは、次の記事で示すであろうタルパの全体性をも暗示している。明らかに、あるタルパの消滅現象が別のあるタルパの創造現象であることがあり得るのである。これは「そのように見做すことが出来る」といった程度の話ではない。現象論的に全く同一の現象だと証明されるのだ。

以上の考察において、素朴な意義によってタルパ創造現象とされる現象の二方面からの現象学的連関を解明した。
これら以外にも有意義な創造現象や、さらに分析が必要とされる領域は当然あるだろう。だが当面の考察において良い材料となる概念を提供する目的のためには、ここまでで十分だと考える。

それにしても、最後に次のことには注意を向けておきたい。
創造現象の時間的な契機はいくらでも積み重なることが出来るのであり、この方面においてもタルパは個別化され得るのである。先の記事ではタルパのオート化と独自性とが関連付けられていたが、これと似た性質が時間的な契機の積み重なりにおいても見出される。
時間的な契機を伴って把握されているタルパは、この意味においてまさに歴史的存在者という概念でもって表されて然るべき存在者なのである。



§4 目的論的・実践的課題領域の正当化について

タルパを歴史的存在者として把握するには、その全体性の明瞭な把握を試みるのとは別様の方法でなければならない。その方法はしかしタルパ現象論の内部から何らかの分析によって取り出されるのではなく、実際にタルパの在り方をその素朴な問いから現象論的な解釈を通して取り出されねばならないのであって、ここにタルパ現象論に対する目的論的・実践的な課題領域が現れてくる。
例えばある人は、ごく少数のタルパを維持し続けることに実践的意義を見出すだろう。また別のある人は、自己の成長のためにタルパを道具として用いることに実践的意義を見出すだろう。
これには正解が無いが、しかしこれまで考察・分析されたタルパの現象論的構造からして、標準的な意義といった観点からその課題領域を措定することが出来る。

これまでタルパの創り方にこれと言った共通理解が与えられなかったのも、実践的意義に限っては明らかに人それぞれであるという(それ自体はけだし正当な)主張が最大多数を占めてきたからであるが、それはタルパがこれこれの事実性のもとに十分に個別化されたという暗黙の前提が何らの根拠も無しに与えられてきたことによるのである。
しかし、以上の考察を順を追って理解してきた読者ならば直ちに看破するであろうように、この主張とは別に標準的実践的意義なるものが何らの矛盾なく主張され得ることもまた明らかなのである。というのも先の主張はあくまでも事実性のみに基づいたものであるが、タルパ現象論によればタルパについての意義はその可能性によっても取り出され得るからである。そしてその可能性というのは、把握という根本的な現象から始まって一つひとつ丁寧な解釈・分析によって与えられるような性質なのであり、結局のところあらゆる実践的意義なるものは現象論的な諸概念にその基礎付けを持つといった具合で確かな連関を保っているのである。

ここでは詳細な考察には立ち入らずに、諸概念から実践的意義が生じる契機としての理念を指摘するに留めておく。
§3で自然的存在者と歴史的存在者の区別を示したが、それは日常的解釈・現象論的解釈として区別した把握の様態とは別のものである。もちろん顕在的・非顕在的の様態とも別である。
奪取・譲渡のように2つの異なった歴史性を与えたところを見れば、その性質は何らかの対象物に志向しているという形式によって与えられるのではなく、その観念(日常的だったり混乱していたりするだろうが、そのような観念)観念としてありのままに受け取るところの形式から生じてくるのである。全体性の把握に見られるような志向するという形式と異なるのがまさにこの点である。志向する働きは「対象物を何かしらのものとして」という作用の働きであり、受け取る働きは「現れてくるものをありのままに」という作用の働きである。
この働きにおいて理念が与えられてくるからこそ、それが素朴な(あるいは混乱した日常的な)解釈といったものとのそれなりの対応が定立されるのである。
ところで、ある存在者が差し当たり何かしらのものとして志向されている限りにおいてのみ解釈されているということもあり得る。それは先の考察によって明らかなように、把握を明瞭さのもとにもたらすといった種類の解釈とは別のものであり、タルパ現象論的に明瞭に把握されていながらもそれに対応する理念が何ら与えられていないという事態を示している。

以上の考察によって、タルパに実践的意義を与えるものが理念であり、それはタルパを歴史的存在者として把握すること、即ちそれが現れてくるとおりに受け取る作用に基づいて把握することによって達成されるのである。
言い換えれば、タルパを歴史的存在者として把握することが、タルパに実践的意義を与える最低の必要条件となるのである。

第三部で明らかにされるであろうタルパの全体性もまたこの観点から、現象論的解釈と実践的意義の連関を保った形で提示されてくることになるだろう。
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