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前回までの記事でタルパ機械論およびタルパ現象論を応用する準備がほぼ整った。
この記事の第一部では把握や態度についての考察をもう少し深めた後、タルパの創造とオート化について考察していく。
タルパの消滅やタルパそのものの全体的な考察、いくつかの派生的な概念への応用は第二部で取り上げる予定。



§1 把握の様態としての"喚起"

実体の全体性に向けた問い...タルパ現象論による「自由」の話』では自由が把握の様態であることが示された。正確に言えば、自由とは把握の様態であって契機であるのである。自由が把握の契機であるというのは、原初的な能動的態度が個別の経験によらずに検証され得ることからして、自明に示される。
では、把握には別の様態は無いのだろうかと問うことは自然な流れだろう。

自由によらない把握は、喚起によって成される。喚起とは、ある実体が副体の影響によって別の態度を把握することである。
この喚起による把握という現象は、現象学的にどのように検証されるのだろうか?

ここで先の記事の§2.1で述べた因果律と因示律のアナロジーが役に立つ。
そこでは論理的にはアナロジーが発生し得るということを述べただけであり、現象学的な検証は行われていなかったが、しかし経験が因果律と因示律それぞれの結果のみによって発生していることを考えれば、経験の主体である人間がこれらを区別できないことは全く明らかだ。
ちなみに、その経験の由来として前者は思考であり後者は感覚であるという対応によって、「経験」の哲学における伝統的な解釈に対応付けられると考えている。

ここで実際には因果律による現象が因示律による現象と混同された場合を考えてみよう。

因示性は実体による副体の理解を表しており、因果律は副体間の干渉を表している。この場合では、実際には実体が理解したわけではないものが、実体が理解したものとして経験されている(=現象している)ということである。
この現象によって能動性を持つ態度は経験された副体の形式によって能動的態度を把握し得ることになるが、まさにこの状況は喚起による把握を説明しているのである。

ある副体が干渉されるためには相互の副体が理解されていなければならないことを考えると、因果律と因示律のアナロジーは喚起の根源的な契機であることが分かる。
この喚起という様態があり得るという事実こそが「タルパの研究は厳密な定義によって成されるべき」といった主張の根拠を成しているのであるが、それはタルパという存在や現象の半分しか捉えていないのは明らかである。

以上で喚起による把握の現象学的検証は完遂された。

この検証の仕方からすぐに分かるように、把握の様態は自由か喚起の2つ以外には何も無い。
この検証によって同時に把握の全体性もまた明らかとなった。

前回の記事で「ある現象、その形式的な性質を示す境界、およびそれの経験に自然かそうでないかという性質を与えるとしたら...」という文章があるが、この意味するところも一層明らかとなる。
即ち現象・境界・経験の契機が自由と喚起のどちらであるかによって、それぞれ自然か自然でないかのどちらかの性質を持つのである。
だから『実体の全体性に向けた問い...タルパ現象論による「自由」の話』の§3で実体の全体性を自由と結論したことは厳密には誤りであって、「自然な場合に限定すれば」という条件が付いて初めてこの記事のように言えるのだった。

把握の全体性によって、『タルパとタルパーの関係から見るタルパ創造現象の分類』の§1で述べられた「タルパを自分の側に置くか自分でないものの側に置くか」という2つの可能性がタルパの全体性を説明していることもまた容易に確認できる。

「自己の側に置く」とは態度が把握の傾向に対して自然であること、つまり自由を契機として把握することを意味する。
同様にして、「自己でない側に置く」とは喚起を契機として把握することを意味する。

後者については、自己でない側に置くためには副体が外から与えられる必要があることを考えれば、確かに喚起が契機となっていることに納得がいくだろう。ただし実際に超越論的な意味で外から与えられているわけではない。

ちなみに、このような意味で「自然」という語を最初に使用したのは『タルパとタルパーの関係から見るタルパ創造現象の分類』の§2での「能動的態度が把握の傾向に自然に従うと暗に仮定していたのであり...」という部分である。

以下では把握や態度に関するいくつかの重要な事実を述べる。



§1.1 「把握」の言語的表現について

「喚起する」という言い方が妥当であるのに、「自由する」は文法的におかしい。どちらも把握の様態であるからある種対等な概念であるはずなのに、何故このような違いが生まれるのだろうか?
これは自由と喚起のそれぞれの形式が言語の意味として、ある意味で強引に表現されているためである。
形式を意味によって正確に表すことは一般には不可能なのであるから、言語による表現はあくまでも近似に過ぎないことに注意する必要がある。

喚起は副体の形式による態度の把握であるから、「副体が把握する」という文が成り立つ。「喚起する」とはこの文の言い換えだと考えることが出来るだろう。
だが自由による把握には主語を考えることが出来ない。自己は契機であって主語ではないから、「〇〇が把握する」という文によって自由による把握を説明することは出来ない。

喚起では副体の形式を言語の意味に置き換えて文を作ることが出来るが、自由による把握ではそのような言語の意味に置き換えられる何らかの形式が見出されない。
この事実によって、自由と喚起を言語的な方法でもって境界付けているのだ。

ゆえに、自由による把握には個別の性質というものを考えることも出来ないのである。
一方で喚起による把握では、主語となる副体を適切に分類することで喚起の性質を考察することが出来ることが分かる。



§1.2 複数の態度のふるまい、および態度の変化について

これまでの基礎研究では1つの実体に1つの態度を考えてきたが、応用研究では(特に日常的な領域では)複数の態度を得ていることも考えられるだろう。1つの実体が複数の態度を持つことは可能だろうか?
これに答えるために、対象物が理解される際に態度によって形式が与えられるという現象について少し考えてみる。

明らかに、単一の副体が2つ以上の態度によって理解されるという現象は起こりえない。
その態度が相反するものであれば、その副体が何らかの形式を伴って存在すること自体が不可能であり、片方の態度がもう片方を含むのであれば、現象学的にどちらに理解されたかを検証することが不可能となるからだ。
しかし2つの副体が異なる総合的な性質を持つという条件を与えると、そのような副体がそれぞれ別の態度によって理解されていることは成り立つのである。
したがって、ある複数の副体の集まりについてそれを理解した態度の把握による総合が適切に行われているならば、それぞれ別の態度に理解されているという現象が成り立つことになる。

ところが態度の把握による総合が適切に行われているという条件はあらゆる場合に自明に成り立つのだ。その把握が自由と喚起のどちらによるにせよ、それらは必然的に総合という傾向を持っているからである。
この条件が要求される理由があるとすれば、それは現象論的要請ではなく超越論的要請(前現象論的要請)によるのである。

以上の結論によって、態度の変化の条件についても明らかとなった。
把握が総合の傾向を持っているという事実によって、その総合が規定する範囲において以下のような態度の変化が考えられる。
・ある態度が分析的に複数の態度に変化する
・ある複数の態度が総合的に1つの態度に変化する

機械論における「受動」と「能動」』の§3では「能動性」を「特定の副体によって支持される概念」と表現しているとおり、態度の変化は喚起によって起こるのである。
一方で自由による把握では自己が唯一の契機なのだから、これによって態度が変わることはあり得ない。ただしこれは自由によって把握された態度が変わらないという意味ではない。



§2 「タルパ創造現象」の境界

設定の考察に入る前に、前の記事で既に用いていた「タルパ創造現象」という言葉の意味するところを境界付けておく。
「定義する」ではなく「境界付ける」という表現を用いるのは、これは副体間の現象ではないから、「AはBであるとする」といった形の言明が不可能なためである。何故なら、これは論理的には「AはBである」という断言判断を意味するのであって、一方が他方の性質としての部分と考えることが前提となる。一体この性質とはどこからやってきたのだろうか?まさか何もないところから突然性質が生まれると言うわけにはいくまい。
類似の説明は既に何度も挙がっているが、副体の概念を通して現象の起こる場所や対象を明確に理解することで初めて「定義する」という理論的操作が可能となるのだ。
だからここでの「境界付ける」とは、その概念の形式(≠性質)を確定することによって、少なくともその概念が取り得る可能性の境界を定めることを意味する。
これは本来なら前の記事の最初にやっておくべきことだったが、理論にとっては差し迫った重要性を感じなかったので後回しにしていた。

タルパ創造現象は、タルパを理解する態度を把握するという現象の形式によってその境界が定められる
これを通常の断言判断と同じ言語表現を用いても混乱しないのであれば、単にタルパ創造現象とはタルパを理解する態度を把握することであると言える。

「定義する」と「境界付ける」のニュアンスの違いは、これを例とすればもはや明らかであろう。
今後は特に混乱のおそれのない限り、後者も前者と同じ言語表現を用いることにする。ただ後者の場合にも「~と定義する」という言葉を使うことにはやはり特有の混乱が生じてしまうだろうから、代わりに「~と定める」と表現する。
その都度どちらの操作を意味するかは、概念が実体的か副体的かを見ればよい。

ところで、タルパ創造現象をタルパを理解することと定めずに理解する態度を把握することと定めたのは、以下のような明確な理由および思想による。

理解とは実体が対象物から副体を作り出すことを意味するのだが、このとき実体は対象物の性質を実体の持つ形式によって理解するのである。だから理解された副体が実体の形式とは異なる形式を持つことは決してあり得ない。
一旦この事実を忘れて副体のふるまいだけを現象的に観察するとき、実体は副体の取り得る性質の可能性を偶然的に示していると考えられるのであって、必然的に示していると考えることは出来ない!
論者は副体の形式からそれを理解した実体を帰納的に定めることは出来るが、しかし演繹的にそれを定めることは全く不可能であるからだ。
例えば様々な物理法則は経験によって確からしいと考えられているだけで、今後も永遠に正しい保証は全く無いのである。

だからタルパを理解することをタルパ創造現象の境界とするならば、そこでは全く面白みのない結論しか得られないことになってしまう。

私が知りたいのは、偶然的な可能性などという無味乾燥なものではない。
誰がどんなタルパを創るのか?そこにはどんな傾向が必然なものとして見いだされるのだろうか?
タルパ現象論はそれを知るための哲学であり、そのようなニュアンスがタルパ創造現象の境界付けに込められていることを忘れてはならない。



§3 設定についての考察

さて、タルパの創造に設定を用いるとはどういうことか?
設定が具体的な形を持つだけに、この問題は普段あまり意識されないのであるが、タルパ創造現象にとっては極めて本質的な問題なのである。何故ならば、タルパの副体と設定の成す副体はそもそも異なるからだ。
この事実は『タルパ機械論の既存概念への適用』の§2.2で副体間の関係として解明されたが、素朴な説明としては早くも『アイスさんとタルパ治療学 5時限目』で取り上げられている。

§1での考察によって、設定によるタルパ創造現象がその全体に占める位置が確定する。

まずは自己とタルパの関係を調べる必要がある。要するに§1の最後で述べたようにタルパ創造現象が自由によるのか喚起によるのかを調べるのであるが、「設定を用いる」というだけではこのどちらかには確定しない。どちらにも可能性があるのだ。

「設定」のタルパ現象論的考察

そこで先に設定となる副体自体を理解する態度の把握がどちらの場合で為されているかが問題となる。設定が自然であるかそうでないかの問題とも言い換えられる。
設定が自然である場合に見いだされる傾向として、自己と設定との関係が明らかであることが挙げられる。
これはさらに設定が自己について分析的か総合的かという2つの可能性を生み出す。分析的ならば設定が自己の一部となり、総合的なら自己が設定の一部となる。
ちなみにペンライト一家は今のところ前者だ。

設定が自己について分析的ならば、タルパ間の関係性は自己の形式を反映しているだけであってその範疇を越えることは無い。
逆に総合的ならば、タルパ間の関係性に自己が含まれて、それらが総合的に一つの形式を支持している。
この事実はタルパが複数創られるときにその影響が顕著に現れる。言い換えればタルパ創造現象が自然である場合に(この場合は後に述べるとおり設定が設定としての意味を成さなくなるのであるが)、この差異が言明可能なほどにハッキリと現れるのである。
  
では設定が自然でない場合にはどのような傾向となるだろうか?
事情はタルパ創造現象と同様であり、このような設定はそう多くは見いだされないのである。また、自然である場合には明らかであった自己との関係も一般には見られない。
つまり自己と設定は互いに独立していることになる。この設定から創られるタルパもまた自己とは独立したものになる。

以上の考察では設定自体をタルパ現象論から見てきたが、この結論はタルパ創造現象にも当然ながら影響を及ぼすであろうから、その観点で設定によるタルパ創造現象を考察していく。

「設定によるタルパ創造現象」のタルパ現象論的考察

設定がタルパ創造現象に影響を及ぼすというのは、なにも設定がタルパを理解する態度を直接的に喚起する場合だけではない。直接的には別の態度を喚起して、そこから何かしらの様態で間接的に把握された態度がタルパを理解することも考えられるのだ。
間接的に影響を及ぼす場合にはその個別の現象がいくらでも考えられるから、タルパ創造現象は自然であることもそうでないこともあり得る。

一方で直接的に影響を及ぼすパターンとしては、以下の4通りが挙げられるだろう。
1.設定が自然でタルパ創造現象が自然である
2.設定が自然でタルパ創造現象が自然でない
3.設定が自然でなくタルパ創造現象が自然である
4.設定が自然でなくタルパ創造現象が自然でない

ところが、実はこのような論理的に可能な状況を羅列してそれぞれに意味を当てはめるという考察は全く上手くいかないのだ!それは何故か?
「論理的に可能な」というのは「論理の形式によって可能な」ということを指すのであるが、その形式はここでは全く偶然に与えられているに過ぎず、その可能な状況が実際に現象されることを必然的に規定することは出来ないからだ。
確実に考察を進めていくためには、やはり必然的な規定に依らねばならない。

先のパターンでは、まず3番は実際には起こりえない。
設定が自然でないのだからこれは喚起によって把握されたのであり、この設定によって喚起されたタルパ創造現象が自然であるわけがない。

1番と2番のパターンは、自己にとっては区別できるが、現象的には区別され得ない。これは因果性と因示性のアナロジーによるものではなく、他者の実体の現象論的な検証不可能性という当然の規定による。
設定が既に存在するのだから「喚起された」という言い方は出来るが、タルパ創造現象が自然であるという前提から、それは自由によって把握されたという言い方もまた出来るからだ。

残る4番が普通にあり得るパターンである。
設定が喚起されて、その設定がさらにタルパ創造現象を喚起するのだから、日常的に「設定からタルパを創る」と言う場合にはこのことを指している。

では、1番と2番は自己から見ればどのような状況を指しているのだろうか?
1番はタルパ創造現象が自然なのだから、設定とはもはやタルパ創造現象についての事実の表明でしかない。つまり実際に影響を及ぼしているわけではない、ということになる。
2番は実際に影響を及ぼしているのであるが、設定が自然であるので、喚起された態度は自由によって把握されている他の態度と矛盾せずに済む。尤も、そうであれば最初から喚起ではなく自由によって把握するのと何も変わらない。

このように考えると、設定が自然であることには事実の表明以外にはこれといった特別な意義は無いのであり、タルパ創造現象にとっては不要と言ってしまっても構わないのである。
タルパの創造に必ずしも設定が必要なわけではないという経験的な事実は、以上の考察によって必然的に確認される。

「総合」による設定

設定に関する日常的な観念は自然でない設定とほぼイコールであると言って良いだろう。
ところで設定は別にタルパに属する性質を分析的に述べたものでなくてもよい。タルパーとタルパの関係について総合的に述べたものであっても、その形式によってタルパ創造現象を喚起することが出来る。
ただしこれはタルパーとタルパの関係を自己から見たものとは限らないから、設定が自然であるかどうかとは何の関連もない。

あるいは、モデルとなる人物の総合的な性質がそのまま設定となることも当然あり得る。いわゆる版権タルパの一部がそれである。
この総合が自己(より正確に言えば他者との共同存在としての自己)によって成されるか、それとも経験によって成されるかによって、その状況は大きく異なる。

前者の場合、特にそのような性質を持つ人物が副体として存在しないならば、邂逅型タルパとしてタルパが理解されることになる。つまり先に述べた、設定が事実上不要である一つの特殊な例を与える。
後者の場合、その設定は常に自然でないと言えるから創造型タルパとなる。

一見するとモデルを持つタルパは明らかに創造型であるように見えるが、そのモデルが自己にとっての共同存在として把握されている場合に限れば、モデルを持つ邂逅型タルパというのも現象的にあり得るのである。
しかし、この場合にはタルパの設定が自由によって把握されねばならないのだから、結局のところ日常的な意味で「邂逅型を設定する」ということは不可能なのである



§4 オート化についての考察

これまでの考察によって、タルパ創造現象のかなりの部分が解明されただろう。タルパ現象論の考察が他の雑多な考察に比べて決定的に優る点と言えば、現象の全体性に注目することが出来ることである。そのおかげで、個別の例に頼らずとも網羅的な考察が可能となっているのである。

タルパは創造された後も成長を続ける。だからタルパ創造現象とタルパの成長に関する何らかの現象を全体的に考察すれば、タルパの全体性についての考察を大まかには完了したことになるだろう。
これも設定と同様、素朴な概念である「オート化」から始めて、徐々に現象論的な概念として洗練させていけば良い。

ところで、ある種のタルパでは消滅まで含めてその全体性を成すことも十分に考えられる。しかし§2~§4で考察する現象はタルパの消滅とは何の関連もなく生じ得る現象なのだから、創造と成長だけでもタルパの全体性を規定することが出来る。
これは、消滅を全体性の内に含めるか否かでタルパそのものの概念が全体性において二分されることを意味する。
先の記事で最初に与えた2つの可能性(自由/喚起による把握)は全体性の内側での区分であって概念そのものを区分するわけではなかったから、それとは事情が異なってくる。

タルパ消滅現象については後続の記事で考察する。



§4.1 オート化の契機

ここでは私の研究での解釈を引き継いで、オート化を「タルパの成長一般」にまで拡張して適用する。つまりここで言うオート化は会話オート化のみを指すのではなく、視覚化や聴覚化などを含む。

オート化はどのように進むだろうか?
この時点で与えられている概念はタルパ創造現象によって把握された態度だけであり、まずは副体を理解しないことにはタルパを認識することなどは全く不可能である。だから副体の理解は当然ながらオート化の契機である。

しかし、それが全てではないこともまた明らかだろう。
§1.2によれば、態度は把握による総合が規定する範囲において変化し得る。これには分析的な変化と総合的な変化があるのだったが、自由によって把握された態度の分析的変化喚起によって把握された態度の総合的変化はそれまでの態度とは異なる形式を得ることになるから、これもオート化の契機と言える。

さらに、自由によって把握されたタルパの場合には自由による把握もまたオート化の契機となり得るのだ。
いま「自由によって把握されたタルパ」と言ったが、この文脈における「タルパ」は無論正しくは「タルパを理解する態度」のことを指している。前者は副体で後者は態度であるから、これは用語の濫用となるのだが、簡便な表記として導入することにする。
その把握とは即ち自己の側における把握であるから、タルパ創造現象で把握されたタルパとは何の関係もないかもしれないが、しかし自己の把握を進めておくことは間接的に喚起によるタルパの把握の個別的な様相の可能性を深化させることに繋がり得る。
言わば自己の側におけるオート化である。

結果として、オート化は現象的には以下の3つの契機によって起こると考えられる。
・タルパの副体の理解
・タルパを理解する態度の変化
・自己の側における把握



§4.2 把握の様相の違いによるオート化への影響

以上の結論を利用して、自由/喚起によるタルパの把握がそれぞれオート化の進み方に与える影響の考察に進む。
オート化はタルパ創造現象の後に続く現象なのだから、オート化の文脈における「把握」はタルパ創造現象における把握ではなく「現時点における把握」であることに注意が必要だ。

副体の理解によるオート化は把握の様態に一切関わらずに進行するから、先の3つの契機は把握が関わるかどうかによって2つのグループに分けられる。
副体の理解が態度が支持する形式によって論理的に成されることを考えると、この分類はオート化の契機を「論理的な契機」と「非論理的な契機」に分けていると考えることも出来る。

タルパの副体の理解によるオート化への影響について

把握の様態がタルパの理解に与える影響については既に『タルパとタルパーの関係から見るタルパ創造現象の分類』の§1.1と§1.2で方法への問いとして考察しているから、ここでは基本的な事実を引用するに留めておく。
(自由による把握の場合)このような理解を与える態度は原初的な能動的態度から発しているのであって、タルパを理解する方向性はこの態度に依存する。
この態度がどれほど豊かな構造を持つか、言い換えれば副体が取り得る存在様相にどのような可能性を与えることが出来るかによって、理解され得るタルパの存在様相は言わば制限もされるし拡張もされる。
(喚起による把握の場合)自己の外側を把握するためには先に自己を把握しておくだけでは明らかに不十分であり、それ以上の態度を把握しておく必要がある。
(中略)先立つ態度が把握されていないということは、当然ながらその把握から始めねばならない。
何故ならば、把握において最も基本的な注目は自己から為されるのだから、タルパの創造に臨むその態度は依然として自己の外側に目を向ける準備は出来ていないからだ。
喚起による把握ではタルパの理解にまで考察が及んでいなかったから、少し補足しておく。
こちらの場合ではタルパ創造現象の後でもタルパの把握を行う必要がある。より正確にはタルパの新たな性質を理解しようとする際に、その性質の形式が既存のものと異なる場合には改めてタルパを把握する必要があるのだ。
新たな性質を理解することは副体の理解によるオート化の進行の1つであるから、喚起による把握の場合では、理解によるオート化には必ずタルパの把握が先行するのである。

ここであり得るケースとしてタルパが複数の態度によって理解される状況が考えられるが、その態度が相互に対立する場合にはどんな現象が起こるだろうか?理解された副体が異なる形式を持つこと自体は普通にあり得る現象である。問題はそれがタルパという一つの全体性の内部で起こってしまうことにある。
喚起によってタルパを把握するという前提、そして喚起という現象が総合の方向性を持つという事実からして、タルパが2つの異なる全体性を持つことになる。
こうなるともはや1つの全体性によって規定されるタルパという観念を維持することが出来なくなるのだ。

ここにタルパの分裂という経験的な現象の片鱗が垣間見える。
もちろん自由による把握の場合にはこのような現象は起こりえないから、オート化によってタルパが分裂するという現象は喚起による把握に特有のものであることが分かる。
分裂がどれくらい根源的な現象であるかはさておき、以上の考察を前提として次の結論を提示しよう。

タルパが自由によって把握される場合、オート化は全体性に向かって総合的に進行する。
一方で喚起によって把握される場合、オート化は全体性に逆らって分析的に進行する。

タルパを理解する態度の変化によるオート化への影響について

自由による把握の場合には態度が変化することは無いから、これは喚起による把握に特有の契機である。

§1.2によれば、態度の変化は単一の態度が分析的に複数の態度に変化するか、複数の態度が総合的に単一の態度に変化するかのどちらかである。
この結論とタルパ創造現象における把握の様態とを考えれば、次の2つの可能性がオート化現象に対して特別な影響を与えるであろうことが確認できる。
また組み合わせがそれぞれ逆の場合については、把握の様態からして当然の結論となるので特に触れない。

・自由によって把握された態度が、後で喚起による把握を受けて複数の態度に変化する
・喚起によって把握された複数の態度が、後で自由による把握を受けて単一の態度に変化する

この2つの事実は経験的にも既に確認されているように思われる。
タルパの創り方についての大きな区分の一つとして、先にタルパの全体の設定をぼんやりと作っておいて後からオート化によって個別の認識を進める場合と、タルパの個別の設定を作りこんでおいて後から全体の認識まで広げる場合とがある。

例えばタルパ創造の基礎となる世界観があるとして、その中へのタルパの位置づけだけを決めておいて、後からその性格や見た目などの認識を進める場合が前者にあたる。
これは既に複数のタルパがいる場合や、ある程度の規模のダイブ界・精神世界が存在する場合にしばしば見られる方法である。

逆にタルパの性格や見た目などを先に決めておいて、後から他のタルパとの関係性や世界の中での位置づけを深めていく場合が後者にあたる。
これは最初のタルパを創るとき、あるいはタルパが位置付けられる世界としてのダイブ界などが創られる前にタルパを創る場合によく見られる方法である。

組み合わせが逆の場合には、この種のオート化があまり影響を与えないことも明らかになっただろう。
この2つの場合こそが、態度の変化によるオート化への影響の本質なのである。

自己の側における把握によるオート化への影響について

態度の変化による影響が喚起による把握に特有の現象であるのに対して、自己の側における把握の影響は自由による把握に特有の現象であることは明らかである。

先の態度の変化によるオート化では、新たな態度を把握するという現象に焦点が当てられていた。
一方で自己の側における把握では、態度の関連付けの可能性をより豊富にするのである。

複数の態度は総合(把握の持つ傾向)によって関連付けられ、1つの態度に統合し得るのであるが、把握に総合という傾向を与えているのは自己なのだから、自己の側において態度を把握することは複数の態度をどのように関連付けて統合するかを決定する契機となる。
別々の人間が同じ副体に喚起された複数の態度に対して異なる変化を与えうるのは、自己の側において把握されている態度が異なりうるからである。

従ってこの影響は、態度の統合の可能性を深化させることでタルパを理解する様々な態度に関連を与え、タルパにある種の独自性を持たせることにあると言える。
先の2つの契機では既に自己の側において理解された態度が与えられているという前提の上に成り立つものだったから、これは自己の側における把握に特有の影響だ。

ところで...
この考察によってかつての問い「タルパ(の認識)が先か、オート化が先か」に最終的な答えが与えられる。
タルパの認識のためにはタルパの副体が存在している必要があるが、オート化は副体が存在していなくても進行し得る。
タルパのオート化は、タルパの認識に先行し得るのである!



§4.3 オート化の現象論的考察の帰結と課題

タルパの全体性が創造現象・オート化現象・消滅現象の3要素で構成されるとすれば、その中でオート化現象の占める領域は時間的・空間的に極めて広範にわたる。だからこの記事でその全ての詳細に触れることはしない。
代わりにこの節を設けて、一旦この記事における成果をまとめておく。

まず§4.1でオート化現象を3つに区分したが、これは現象的な区分であって現象論的な区分ではない。これらが互いに影響を及ぼしあっていることは分かるが、その連関を十分明らかにしたとは言いがたい。
オート化の現象論的な区分の可能性は、タルパの全体性の考察が深まるにつれて徐々に明らかになっていくだろう。

副体の理解によるオート化については、副体的な概念の範疇でさらに意義深い分類が成されることになる。
それにはタルパ機械論による考察が役立つに違いないが、ここで不完全な説明をするくらいなら後で個別の記事にまとめた方が良いと考える。
ところで、オート化の契機には副体との干渉は含まれない。干渉は新たな副体を理解することもなければ、副体の性質を変えることもないのだから、オート化の契機にはならないはずだ。
しかし因果性と因示性のアナロジーによれば、喚起による把握の契機として干渉を考えることは出来る。この考察からは特に日常的あるいは統計的な概念としてのタルパを上手く捉えることが可能となるだろう。

態度の変化は他2つの意義と比べれば、「オート化」あるいは「タルパの成長」という言葉が本来指示すべき意義にほど近いと言えるだろう。
副体の理解は論理的な可能性の範囲においてタルパの認識を拡張しているに過ぎないから、ある意味でその範囲を超え出てタルパそのものを拡張しようとするならば、態度を変化させるしかないのだ。
しかし態度の変化も分析だけでは十分に行われないのであって、それを総合するためには自己の側における態度を得ていなければならないので、やはりこの2つの契機は現象論的に厳密に区別されているわけではない。

この問題の解決として、§4.2でわずかに触れたタルパの独自性がヒントになるだろうから、ここで今後の記事の方向付けの意味も込めて多少の考察を加えておく。

タルパの独自性

日常的には、一人のタルパはただ唯一の個体として考えられている。
これには反論があるかもしれない。個体としての意識の連続性を保ちつつ複数の部分に分かれて行動できるようなタルパの可能性が主張され得るからだ。
しかし以下のように考えると、このようなタルパであっても「ただ唯一の個体」としてのタルパであることを認めざるを得なくなる。

もしタルパが「ただ唯一の個体」であることを保証しないと考えるならば、それは論理的にはどのような副体であってもそれがタルパ(の一部)となる可能性があることを認めることと同義である。
このような考えを持つタルパーは、タルパの一部だと認めている部分と同様にして、それ以外の周りの環境の全てについてもタルパの一部であることを認めねばならないのであるが、もはやこの帰結をも認めてしまうタルパーにとっては自分(タルパー)とタルパの区別がつかないことになってしまう。

ほんの少しでもタルパとタルパでないものの分別をつけているのであれば、あるいはタルパーとタルパという分別をつけているのであれば、それが「ただ唯一の個体」としてのタルパを認めている決定的な根拠となる。

このようにして「ただ唯一の個体」という観念の考察を深めると、これこそがタルパの全体性の概念に対応する素朴な観念であることに気づく。
当然ながら、この意味においてタルパの独自性はタルパの全体性と強く関連付けられることになる。
従って「タルパが独自性を持たない」という文章の意味は「タルパがただ唯一の個体ではない」という素朴な観念に置き換えて考えることが出来るのだ。

以上の考察により、あるタルパが独自性を持たない場合、タルパーとタルパの分別をつけることがもはや出来なくなると結論できる。

もしこの状況において分別の維持を試みるならば、タルパは少なくともその全体性が保証されるに足る最大限の部分に分裂しなければならない。
するとタルパの分裂という現象もまたタルパの全体性に強く関わっていることが分かる。



§5 タルパの全体性の必要性について

「全体性」という言葉はこれまでに何度も現れてきたが、「タルパの全体性」とは何を指すのだろうか?そして何故必要なのだろうか?

例えば§3で設定による創造について考察したときに「間接的に影響を及ぼす場合にはその個別の現象がいくらでも考えられる」と述べた通り、設定だけを考察するならば、タルパ創造現象の網羅的な考察は出来ないから、無論タルパの全体性についての考察も不可能なのである。
しかし§1で明らかとなった把握の全体性を合わせた考察はタルパの全体性を捉えることが出来るため、設定による創造をタルパの全体性から考察できるのだ。
何故ならば、設定が間接的にタルパ創造現象に影響を及ぼすという現象が把握の全体性によって境界付けられるのであり、この全体性が規定する境界を(違法にも)脱しようとしない限りは、その考察が網羅的であることを保証しているからである。

素朴な考察においては、この全体性は全く意識されないどころか、言語の無差別な使用によってむしろ当たり前のように侵犯されているのである。
§3で否定した「邂逅型の設定可能性」や§4.3における「ただ唯一の個体」などがその顕著な例だ。
普段Twitterなどで展開される雑多な考察がしばしば循環論法や無限後退に陥って何ら有意義な結論をもたらさないのは、まさにこうした理由による。

タルパ現象論では現象学の方法を用いて言語の無差別な使用を厳しく戒めることで、この種の詭弁を自動的に排除している。
そういうことからして、「タルパの全体性」がタルパ現象論にとってどれほど重要な概念であるかが理解されるだろう。

「タルパの全体性」は決して「タルパ」という素朴な概念に対応するのではなく、詭弁を生じさせない正当な考察を展開するための最小限の基礎なのであり、そこから改めて「タルパ」という概念が現象論的な方法をもって、自然なやり方で理解されるに至るのである。
即ち、超越的な視点からの非現実的な理論ではなく、まさに読者各々の「私」から見た現実に立脚した理論というわけだ。



後記

この記事ではタルパの全体性そのものを確定するには至らなかった。正確に言えば、タルパ消滅現象までを含めたタルパの全体性は確定されなかった。そこまでの成果を揃えようとすれば、今年中には終わらなかっただろう。
だが消滅を考慮しないタルパ現象については既にその全体性が得られたのだから、安全な考察が可能となった。§3における設定の考察はその一例である。
しかしながらタルパ現象論の醍醐味は、やはり消滅現象までを含めた全体性によって明らかになるのである。消滅を考慮しない全体性はその半分も捉えていないと言って良い。

依り代やダイブ界などの概念は好奇心を刺激するが、これらはタルパの全体性の完成を待ちたい。
その後であれば十全な考察を行うことが出来るだろうし、全体性において相互の関連も含めた深遠な研究となり得るだろう。
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