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タルパの存在論を確立するには、そのカテゴリーの成立要件を明らかにせねばならない。
タルパの創造契機については既にある程度分析されたが、存在理念と信念については何を問題とすれば良いかも分かっていないのが現状である。
したがって、そのような有意義な問題意識を取り出すには素朴な問いを開拓しておくのが重要であろう。
まずは存在理念の中でも特に身近な「時間性」について分析を深めることにする。

この一連の研究には時間がかかりそうなので、問いの列挙の部分まで先に公開しておく。
もしかすると今後は問いの分析までで一区切りとして、先に存在理念一般を考察した上で時間性の研究に再び着手するようなことになるかもしれない。いずれにせよ、次の記事は今年中に公開できれば早い方だろう。




§1 素朴な問いにとっての時間性について

この記事ではもちろん存在理念を主題とした素朴な問いの開拓を試みるのであるが、なぜ存在理念の中でも時間性をまず取り上げるのだろうか?簡単に言えば、まず契機存在理念とを峻別するためである。
タルパの創造や消滅について考えれば、契機にも空間性とともにそれなりの時間性が備わっていることが分かるだろう。「それなりの」と言ったのは、結局のところ契機に含まれる時間性は往々にして「空間化された」「非本来的な」時間性であるからだ。
例えば(以下で重要な問いの一つとして考察するのだが)タルパーは「タルパを創る」という行為によって「タルパー」と呼ばれるのであろうから、タルパ創造現象はタルパーではない人間タルパーである人間に変化させる時間性を有するのではないか、と問えるだろう。これ自体は正当な問いであるが、この問いを「ある時間的な一点を境にして非タルパーとタルパーは区別されるのか」と解釈すると、これは時間を空間化して安直に捉えていることになる。
このようにして空間化された時間は一直線の(一次元の)空間として表象されるだろうが、これでは時間の矢と言われる謎めいた現象などを説明することが出来なくなる。時間に空間的な性質を与えることは日常的な(平均的な)時間了解の成す業であって、それは決して時間性の本質を捉えているとは言えないのである。

つまり時間性は本来的には契機として現れるわけではなく、他の要素の考察が必要であることが比較的容易に感得されるのである。これが存在理念の中で最初に時間性についての問いを開拓する理由である。
後に時間性によって境界づけられる存在の性質として「歴史性」を導入するとき、歴史性に基づいた存在了解には空間性も確かに含まれていることが結論されるようになるだろう。

ところで、タルパ消滅現象への素朴な問いが「消滅する」の動詞的な活用を意図して「~は消滅し得るか?」とか「~は消滅しやすいか?」と問われていたのに対して、時間性や時間はいかにして問われるべきだろうか?
「時間性」や「時間」は素朴な理解にとっては動詞として活用されないため、とりあえずそれらを含意すると思われる「変化(する)」や「経過(する)」といった名詞や動詞を用いるか、あるいは「(何かしらの)時間が~として経験されるか?」などといった表現で問わねばならない。だから問いの分析としてはそれらの問いの表現がいかなる様態で時間性を含意するかという一手間を加えねばならない。言い換えれば、以下で挙げられるあらゆる問いに対して「時間とはいかなる現象であるか?」という変容を加えることを試みねばならない。

特に注意せねばならないのは、創造消滅といった素朴な観念としては時間性を含意しないとされる観念である。一見してこれらの観念には(それらの現象が時間をかけて段階的に生ずると考えない限りは)時間性を問い得ないように思われるが、「創造以前にはタルパは存在しないのか?」といった問いが明らかに成り立つことを考えれば、少なくとも現象の順序因果性については素朴な意味でも問われ得ると言える。
つまりこのような観念について問われる限りにおいては、創造や消滅もさしあたり時間性を含意するものとして分析を進めることにする。
何故そのような素朴な問い・分析が可能だと言えるのかという疑問については、後に主題的に考察する機会があるだろう。



§2 時間性についての素朴な問い

タルパ消滅現象を顕著な現象として幾人かのタルパーが経験していたのに対して、タルパーやタルパにとっての時間(時間経過)は常に経験されているにもかかわらず、明確に問われることはほとんど無かった。だから時間性についての素朴な問いと言っても、その主要な候補を挙げること自体が容易でない。
そこで以下ではいくつかの素朴な領域を仮定して、それに対応する素朴な問いをそれぞれ挙げていくという方法を採る。そのため、以下に挙げる問いは素朴な問いとして生じてくるであろう順序には対応しない。
一応、最も日常的な意味で経験されている時間についての問いが確かに含まれていることは、必要ならばその都度確認することにしよう。つまりこの方法が天下り的でないことを確認したいのである。

・時間性の素朴な様相についての問い

まずは時間性(あるいは時間)そのものの素朴なあり方への問いが考えられる。そのような問いの中で最も素朴でそれなりに普遍的であるのが次の問いだろう。

「タルパーが経験する時間とタルパが経験する時間は同じか?」

タルパ消滅現象への問いの場合と同様に、問いを挙げる時点では現象論的な解釈は試みない。ここでは以下でも度々取り上げる二三の概念をこの問いから取り出しておくに留めよう。
この問いにどう答えるにせよ、そこには異なる時間(時間経過)の経験を取り出してきて比較ないし統合するための土台となる場のようなものが想定されている。これはタルパーとタルパが仮想的に統合された存在者が経験する時間のことであるから、「システムが経験する時間」と呼ぶことにする。
「システム」とは英語圏のタルパ界隈で「タルパーとそのタルパ達が構成する単一の閉じた相互関係」のことを意味するので、この問いにおける統合された存在者のことも「システム」と呼ぶことにするのだ。ただしここでは「システム」は現象論的な解釈を受けていないし、真っ当な分析的説明も与えられていない、素朴な観念の一つであることに注意。
しかし、異なるタルパーが創ったタルパについては明らかに比較され得ないから、この場合には時間経過の経験を比較・統合する問いを立てようがない。即ち、この問いには「単一のシステムにおいて」という前提が含意されていることになる。

単一のシステムにおいても、明らかに問いが立てられない場合を考えることが出来る。時間の性質として主観的な時間および客観的な時間を想定する場合がそれである。二者の時間の性質を主観的な時間と想定するならば、「主観」の語の素朴な用途を考えれば同じでないことが自明だと言われ、一方で客観的な時間を想定するならば、同様にして同じであることが自明だと言われる。どちらの想定でも問いではない言明としてしか成り立たず、これでは分析を進めにくい。
そこでこの問いのもう一つの前提として、「タルパーが経験する主観的な時間経過とタルパが経験する客観的な時間経過とを比較している」と置いておく。この前提は異なる二人の人間が経験する時間経過の性質を問う場合には成立し得ないが、タルパーとタルパについてならばある意味で成り立つように見える。これは素朴なタルパの了解として「タルパは主観的な存在者である」と理解されていることに基づくと思われる。そう考えるならば、タルパが経験する客観的な時間経過は何かしらの仕方でタルパーが経験する主観的な時間経過と繋げられているのではないだろうか?
即ちこのような特異な問い方が成り立つことによって、タルパーあるいはタルパが経験する時間の特異な性質が浮き彫りにされるであろうことが期待されるのである。この前提はタルパの時間性を問ううえで極めて有用であるから、以下の考察でも常に前提されているとする。

もう少しだけ素朴な分析を続けてみる。
タルパーのような単一の存在においては、主観的な時間経過の経験には遅速の差があり得るにせよ、それを客観的な時間経過に対応させることが出来る。
ここでは時間経過が不連続的でないという素朴な前提を置いているが、この前提は以下に続く問いによって直ちに(無論素朴な意味においてではあるが)批判されるようになる。つまり素朴な領域においても既に矛盾する問いが自然に取り出されてきてしまうのである。
もし先の問いにおいて複数のタルパを考えるならば、タルパーの主観時間はタルパ達の客観時間をいわば統合した観念であることになるから、タルパーの主観時間を客観時間に置き換えたものはシステムにおいて経験されている絶対的な時間だと考えることが出来る。一方で個々のタルパの場合には、各々のタルパにおいて経験されている相対的な時間なる観念が成り立つ。
ここで複数のタルパが成す全体性についての重要な問いが現れる。即ち複数のタルパは「単一のシステムに内在的に存在するために時間性においてタルパーと関係づけられている」のだろうか?それとも「時間性においてタルパーと関係づけられているために単一のシステムを成している」のだろうか?より単純に表現すれば「システムという統合された存在者が各々のタルパに先行する」のか、それとも「時間性による各々のタルパの統合がシステムの存在に先行する」のか、と問える。
システムにおける内在時間性による統合はどちらも「タルパはタルパーに対して何らかの形で依存している」という、これまでの考察では主題化されてこなかった素朴な観念の説明を試みているという点で重要な問いであると思われる。

・時間性の素朴な構造についての問い

次に時間性の構造を考える場合の問いを挙げる。時間性の構造についての問いは、特に自然的存在者として理解されているタルパにとっては外部から与えられる規則や制限といった意味への問いとして表現されることになる。

「タルパの過去はある意味で単一であるか?」

これは人間については自明であるが、タルパにとってはどうだろうか?先に何度か触れていた人間的存在様相(理念ではない!)に基づく思弁によればやはり自明となるだろうが、それが成り立たない場合(例えば統合や分裂を経る場合)をすぐに挙げることが出来る。そのような場合でも何かしらの意味において過去は常に単一であると言えるだろうか?
また、素朴な問いにおいては過去は事実性を有すると考えられていることにも注意を向けておく。さらに事実は単一性を有する(単一な事実に必ず還元できる)とも考えられているから、この問いは「タルパの過去はある意味で単一であるために事実性を有するか?」などと言い換えることも出来る。

「タルパの未来には複数の可能性が考えられるか?」

未来は「未だに現実になっていない」という点で過去とは異なると普通は考えられているから、未来はそこから可能性という概念を容易に取り出してくることが出来る。ただしそれは素朴なやり方でのことであり、現在の状況が与えられればそこから実現するであろう未来は限られたいくつかの状況しか考えることが出来ない。即ち素朴な問いにおいては、可能性は「あり得るように見えるいくつかの状況」としてしか考えられていないし、そのあり得ることの根拠は現在の状況のみに帰されているのだ。
しかしながら、未来の可能性をこのような問い方で問うこと自体を反復すれば、次のように思弁を展開できる(反復という操作は少なからず現象学的なものであるが)。現在はいつか未来に到達するのだから、考えられた可能性のうちの一つが選び取られねばならない。では一体、何がそれを選び取るというのだろうか?
可能性があり得ることの根拠が現在の状況のみにあるとすれば、当の状況の変化が偶然のうちに選択するのだと考えねばならないことから、その選択にタルパやタルパーは一切関与し得ないだろうが、一方で例えば「タルパーはタルパの設定を自由に行える」などのように、タルパの存在の根拠としてタルパーによる選択という意思が介在しているという素朴な認識が生じるのもまた事実である。

「タルパが経験する(あるいはタルパーがタルパについて経験する)時間を複数の区分(例えば過去・現在・未来など)に分けることが出来るか?」

これをタルパのオート化についての問いと考えるなら、例えば未オートや微オートのような分類によって既に実践的な問いとしては受け取られていて、それなりに分析がなされている。しかしその多くは時間性を空間化された時間としてしか扱っておらず、時間性への問いとしては甚だ不完全なものである。だから僕はオート化の訓練について時間性を排除した「タルパオート化訓練指標」なるものを提示したのだった。
この問いの意図は、タルパが経験する時間を自由かつ排他的に分割できるかということであり、とりわけ「自由に」「排他的に」分割できるかどうかが焦点になっているのだが、この2つの素朴な観念は以下の考察によればある種相克的な関係にあると言える。
即ち、もし排他的に分割するならばその分割点を与える確実な根拠を要求される点で自由に分割し得ず、逆に自由に分割するならばある時間経過の経験がどちらにも属し得るような事態を確実に排除できない点で排他的に分割し得ない。
例えばタルパの存在から創造消滅を取り除けば「さしあたり維持されているだけ」という領域が残るから、この3つの観念によって排他的な分割は達成されるが、これは自由な分割ではない。一方でいわゆる未オートや微オートは自由な分割だと言えるが、移行途中やどちらとも言える場合を含んでいるから排他的な分割ではない。

この問いにおける「分割する」の主語をタルパーだと考えれば、以下のようにも問える。

「非タルパーはタルパの創造によってタルパーになると言えるか?」
あるいは、逆に
「タルパーはタルパの消滅によって非タルパーに戻ると言えるか?」

この言い換えで特に重要なのは、後者では「戻る」と言われているのに、前者ではその単純な対義語である「進む」ではなく「なる(成る)」と言われていることだ。つまりこの二つの問いでは創造および消滅について問う態度が異なっているのである。タルパについては「創られる」あるいは「消える」というように(何故か前者だけが受動態である点を除けば)対称的であるのに、タルパーについてはそうではないのは何故だろうか?

「タルパあるいはタルパーが経験する異なる時点の間の時点を常に考えることが出来るか?」

これは常にタルパに意識を向けている前提ならば成立するが、大抵の場合はそうではない。つまりタルパーの無意識下にあるタルパが経験する時間というものを常に考えることが出来るか、という問いである。
先に挙げたとおり、タルパーが経験する主観的な時間経過とタルパが経験する客観的な時間経過とを比較しているのだから、タルパ現象論以前の問いとして人間にとっての無意識下での主観的な時間経過という経験は成立し得るかとも問える。

「タルパにとっての客観的な時間経過の経験の長さはタルパーの主観的な時間経過の経験の長さに反比例するか?」

要するにジャネーの法則に関する問いである。ジャネーの法則とは主観的な時間経過の経験についての法則であるから、タルパーのそれについては当然当てはまるが、それがタルパの客観的な時間経過の経験と比較されるために同様にジャネーの法則が適用されると考えることが出来るか、という問いである。

タルパはタルパーから完全に独立して(依存せずに)存在していると考えるならば、時間経過の比較は客観的な経験によってしか行われ得ないのだから、この問いはそもそも問われ得ないことになる。したがって、タルパ現象論以前の問いという意味での基礎論的な問いの一つとして「ある他者が自身に時間的に依存していることは、その他者が客観的に経験する時間経過がジャネーの法則に従うことの必要条件であるか?」というそれなりに明瞭な問いが取り出されてくる。ここでは「依存」という素朴な観念をさしあたり「時間的な依存」と表現しているが、タルパのタルパーに対する依存がどのような性質のものであるかは今後の考察で明らかになってくるだろう。

・内在する時間性

自然的存在者としてのタルパの理解にとっては、時間性の意味は規則や制限として問われていた。しかし歴史的・理念的存在者としてのタルパの理解にはそれなりの時間性が内在しているように見える。多少高度な内容ではあるが、これまでのタルパ現象論の考察を踏まえれば以下の問いが得られる。

ある意味で単一の存在であるタルパにとって、消滅は創造より以後に起き得る現象であるか?」

この問いへの答えは一見して自明であるように思えるが、既に先の記事で「創造と消滅は同一の現象(把握)の異なる側面である」と結論した以上、理念的には(つまり理念的存在者としてのタルパにとっては)否と答えるしかないのである。では「ある意味で単一の存在であるタルパ」に限定して考えれば(単一の存在という言い方自体が理念的同一性が保証されていることを含意しているのだから)成り立つのだろうか、というのがこの問いの意図である。

これは他方で理念的同一性がタルパの存在にではなくタルパの創造や消滅の現象に内在していると考えれば、「タルパの創造や消滅はある意味で単一の時点における現象であるか?」のような問い方も出来る。無論この「ある意味で」の意図するところは先の問いと同様である。

「タルパのオート化は連続的な現象、あるいはそれ自体が時間の経過を含意する現象から成るか?」

この問いは先の2つの問いとは事情が真逆であり、ある意味で単一の存在であるタルパにとっては自明に真である(そうでなければタルパの存在は時間性を全く含意していないことになる)が、理念的存在者であるタルパにまで拡大して考えても同じことが言えるだろうか、という問いである。それでも自明であるように思えるが、今のところオート化がタルパの創造や消滅の契機である再把握を喚起し得るのか、あるいはどんな場合に喚起するのかについては全く考察しておらず、オート化が創造現象や消滅現象に還元される可能性を完全には排除していない。つまりこの問いには時間性を含意しないタルパという奇妙な存在者を理論から排除したいという意図も含まれている。
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