明確になった問題は共有される。共有された問題は議論される。議論された問題は無害化される。
タルパの感覚という本筋から逸れてる気がしないでもないが、次シリーズのテーマにも繋がるところなので書いておく。
ある感覚が別の感覚に対応するとは、具体的にどのようなことを指しているのか。それを「数字」を例に説明してみる。
記事を読み進める前に次の質問に対する答えを考えておいてほしい。
1や2という具体的な数字は、それ自身が存在していると考えることが出来るか?
ある感覚が別の感覚に対応するとは、具体的にどのようなことを指しているのか。それを「数字」を例に説明してみる。
記事を読み進める前に次の質問に対する答えを考えておいてほしい。
1や2という具体的な数字は、それ自身が存在していると考えることが出来るか?
素朴実在論と治療学モデル
素朴実在論という単語は聞いたことがあるかな?
これは「見えているものは、見えている通りに存在している」という考え方のこと。これを治療学モデルに則って拡張してみる。
「実体Aが実体Bに副体を通して干渉する。それぞれの副体も同じように副体A,Bとする。このとき副体Aから実体Aに送られる情報と、副体Bから実体Bに送られる情報は、本質的に同一であると考える。」
ここで前回の記事と繋がってくる。
ここで二つが本質的に同一であると言えるのは、双方の副体が表出感覚である場合に限るのだった。
つまり、素朴実在論の考え方を治療学モデルに則って拡張すると、一般的に次のようなことが言える。
「感じられるものは、感じられる通りに存在している」
その「感じられる」は一般的な意味と同じであるから、表出感覚を通してという意味である。ならばここから概念感覚について考察していくのは当然の流れだろう。
でも概念感覚を通したものは存在していると考えることは出来ないのか?それは矛盾している。
何故ならば、そこに副体があるなら、必然的に実体もあると言えるからだ。
数字の主観性
冒頭の質問に対する答えは何だっただろうか?
多くの人は、そう考えることは出来ない、実在していると認めることは出来ないという答えだっただろう。
リンゴを1個2個、鉛筆を1本2本などと数えることは出来ても、その1とか2のような具体的な数字が存在しているということは受け入れがたい。
これについて論理的に説明できる人は少ないだろうが、つまり次のような理由ではないだろうか。
素朴実在論の拡張「感じられるものは、感じられる通りに存在している」を真であると考えるなら、その裏「感じられないものは、感じられる通りに存在していない」の真偽は分からない。ここで感じられるものとは表出感覚を通して干渉するもの、感じられないものとは概念感覚を通して干渉するものである。
要は、概念感覚から表出感覚へは容易に結びついたりはしないといった意味である。
だから具体的な数字をイメージするには、例に挙げたようなリンゴの個数や鉛筆の本数のように、明示的に表出感覚に結びつけてやらないといけない。
そうしなければ、ごく一部の例外的な天才を除けば、人間は数字の存在を感じることは出来ないのだ。
...この節は、「とにかく数字さえ出しておけば客観性のある主張に聞こえるだろう」というとんでもない考え方をしている人間にリアルに遭遇したので、思いつきで書いてみた。
数字が客観性を持つには表出感覚に結びつきさえすれば良いのだが、それは小手先の技術ではあまりにも難しいことなのである。その方法は以降の節で説明する。
概念感覚から表出感覚へ
さて、ここからが本題。
数字が大半の人間にとって概念感覚であることは上の節で説明した。これを表出感覚と関連付けたいので、自然数を実体として、その副体について考えていこう。
その前に、何故概念感覚から表出感覚への関連付けなのかを説明しておく。
表出感覚から概念感覚へは簡単である。例えば適当な写真を見て、他の感覚では言い表せないような「何か」を感じたら、それが概念感覚である。表出感覚から表出感覚へはこの限定的な状況であるから、もっと簡単である。
概念感覚から概念感覚へは、今回のテーマの単純な拡張に当たる。
では概念感覚を表出感覚に結びつけるためには、どうすればいいのか?
実は、ある決定的な要素以外の必要条件は無い。
概念感覚から分解された副体の全てが表出感覚のそれに結び付けられれば問題ないので、副体を列挙できるならばその副体ごとに表出感覚の何と結びつくかを定義すればいいのだから。しかし、だ。
概念感覚を表出感覚に結びつける意義は、概念感覚を通した干渉に客観性を持たせることだった。だとすれば、結びつけるルールは簡単で少ない方が良い。
自然数の話に戻して例を挙げよう。
ここで自明な結びつけの方法として、全ての自然数に対して個別に結びつけるルールを定めることが考えられるが、この場合は不可能だ。
自然数は無数にあり、結びつけの方法として成り立っていることを証明するには無限の時間がかかる。
では偶数と奇数に分けて定めるのはどうか?これならルールはわずか2つで済む。2で割り切れるものを偶数、2で割り切れないものを奇数として、個別にルールを定めれば良い。
これを1つにする手段はあるが...記事で取り上げるのが面倒なのでこちらを参照。
参照先で挙げられているような性質を満たす別の概念があるならば、確かにたった1つのルールで結びつけることが出来る。これ以上に良い方法は無いように思えるが...
連続的であるということ
ところで副体の有無やその性質は実体に依存するのだから、いくら表出感覚と言っても、それぞれ別の実体から発生した副体同士が全く同一である保証は無いだろう?例えば、昆虫の視覚と人間の視覚が全く同じだとは考えられない。
だとしたら、表出感覚であっても結びつけは容易ではなくなる。その視覚を通して見ているものは全く同じだという事実にも関わらず、だ。
この問題は表出感覚について個々人の副体を中心に考えることで発生する。
つまり実際の干渉では、この実体の違いによる僅かな差異を抽象化する別の概念感覚が関わっていることになる。(その差異が僅かであることは、副体が表出感覚であることから保証できる)
イメージとしては、ある副体の概念感覚から表出感覚に変換され、そこから別の副体の表出感覚に干渉し、それがその別の副体の概念感覚に変換されるといった形だ。治療学モデルでも簡単に表せる。
そして、その僅かな差異を抽象化する概念感覚に対応する副体についてある条件を満たせば、個々人の間においてそれが同一である必要性はない。
...その条件とは、その副体が不可算性を持つということだ。つまり自然数のように数えられるものではなく、実数のように数えることの出来ない性質を持つ。それによって表出感覚間の干渉が客観的であることを保証している。
何故不可算性を持たなければならないかについては簡単に証明できる。
ある空間的広がりを持つ表出感覚について、一部の空間に限定しても表出感覚として成り立つ。このように好きなだけ小さい空間に限定される表出感覚を仮定することが出来るが、それは同じ性質を持つ表出感覚であるから、一方が他の感覚に1対1対応するならば他方もそうなるべきである。つまり他の感覚を通して、扱う空間の大小にかかわらず1対1対応させることが出来る。
その表出感覚が可算である場合は、扱う空間の大小が違えば1対1対応させることが出来ない。これは上の事実と矛盾する。
結論 表出感覚への結びつけ
ではタイトルに話を戻そう。どうすれば概念感覚を表出感覚に結びつけることが出来るかという話だった。
ここで言う表出感覚とは個々人の副体のことではなく、個々人の副体の差異を抽象化する概念感覚のことだ。「表出感覚に結びつける」とは、この抽象化された概念感覚に結びつけることに他ならない。そして、その抽象化された概念感覚は不可算性を持つことが自明である。
よって、表出感覚に結びつける概念感覚は、不可算性を持たなければならない。
今後の課題
この記事によって副体や副体間の干渉など、治療学モデルを構成する要素をより厳密に定義できた。
さて、この記事で数字をとりあげたのは例として分かりやすいという意味でもあるのだが、今後展開する新シリーズに向けての布石を早めに打っておきたい意味でもあります。
新シリーズ...「数式化シリーズ」のね。
それぞれ別の観点から研究が推し進められてきた治療学シリーズと感覚化シリーズ、この2つの統一理論(名前は次の記事で決めようと思う)は前の記事でほぼ完成した。
この統一理論を数学という一大学問に関連付けるに足りる十分な根拠がどうしても欲しかった。この記事はその一つ。
見る人が見れば分かると思うが、既に数学的な操作と言えるものが随所に使われている。
ある学問を数学に関連付けるにはどうすればいいか。表面的な数式だけでなく、思想や信念を丸ごと反映した形で、タルパを数式化したい...
もはやこの研究は、その無謀な挑戦を肯定できる段階にまで進んでいる。
おそらく次のまとめ記事が最後の感覚化シリーズになると思う。そこでは、タルパを数式化するために解決すべき問題を、大小問わず全てとりあげよう。
まだブログで触れていない重要な問題がいくつか残っている。
素朴実在論という単語は聞いたことがあるかな?
これは「見えているものは、見えている通りに存在している」という考え方のこと。これを治療学モデルに則って拡張してみる。
「実体Aが実体Bに副体を通して干渉する。それぞれの副体も同じように副体A,Bとする。このとき副体Aから実体Aに送られる情報と、副体Bから実体Bに送られる情報は、本質的に同一であると考える。」
ここで前回の記事と繋がってくる。
一方が送る「1人限りの客観的な情報」、他方が受け取り変換される「1人限りの客観的な情報」。
この二つが、もし本質的に同じ情報を指すならば...それはつまり客観的であることを示しているのではないか?そうでなければ主観的だと言えるだろう。
ここで二つが本質的に同一であると言えるのは、双方の副体が表出感覚である場合に限るのだった。
つまり、素朴実在論の考え方を治療学モデルに則って拡張すると、一般的に次のようなことが言える。
「感じられるものは、感じられる通りに存在している」
その「感じられる」は一般的な意味と同じであるから、表出感覚を通してという意味である。ならばここから概念感覚について考察していくのは当然の流れだろう。
でも概念感覚を通したものは存在していると考えることは出来ないのか?それは矛盾している。
何故ならば、そこに副体があるなら、必然的に実体もあると言えるからだ。
数字の主観性
冒頭の質問に対する答えは何だっただろうか?
多くの人は、そう考えることは出来ない、実在していると認めることは出来ないという答えだっただろう。
リンゴを1個2個、鉛筆を1本2本などと数えることは出来ても、その1とか2のような具体的な数字が存在しているということは受け入れがたい。
これについて論理的に説明できる人は少ないだろうが、つまり次のような理由ではないだろうか。
素朴実在論の拡張「感じられるものは、感じられる通りに存在している」を真であると考えるなら、その裏「感じられないものは、感じられる通りに存在していない」の真偽は分からない。ここで感じられるものとは表出感覚を通して干渉するもの、感じられないものとは概念感覚を通して干渉するものである。
要は、概念感覚から表出感覚へは容易に結びついたりはしないといった意味である。
だから具体的な数字をイメージするには、例に挙げたようなリンゴの個数や鉛筆の本数のように、明示的に表出感覚に結びつけてやらないといけない。
そうしなければ、ごく一部の例外的な天才を除けば、人間は数字の存在を感じることは出来ないのだ。
...この節は、「とにかく数字さえ出しておけば客観性のある主張に聞こえるだろう」というとんでもない考え方をしている人間にリアルに遭遇したので、思いつきで書いてみた。
数字が客観性を持つには表出感覚に結びつきさえすれば良いのだが、それは小手先の技術ではあまりにも難しいことなのである。その方法は以降の節で説明する。
概念感覚から表出感覚へ
さて、ここからが本題。
数字が大半の人間にとって概念感覚であることは上の節で説明した。これを表出感覚と関連付けたいので、自然数を実体として、その副体について考えていこう。
その前に、何故概念感覚から表出感覚への関連付けなのかを説明しておく。
表出感覚から概念感覚へは簡単である。例えば適当な写真を見て、他の感覚では言い表せないような「何か」を感じたら、それが概念感覚である。表出感覚から表出感覚へはこの限定的な状況であるから、もっと簡単である。
概念感覚から概念感覚へは、今回のテーマの単純な拡張に当たる。
では概念感覚を表出感覚に結びつけるためには、どうすればいいのか?
実は、ある決定的な要素以外の必要条件は無い。
概念感覚から分解された副体の全てが表出感覚のそれに結び付けられれば問題ないので、副体を列挙できるならばその副体ごとに表出感覚の何と結びつくかを定義すればいいのだから。しかし、だ。
概念感覚を表出感覚に結びつける意義は、概念感覚を通した干渉に客観性を持たせることだった。だとすれば、結びつけるルールは簡単で少ない方が良い。
自然数の話に戻して例を挙げよう。
ここで自明な結びつけの方法として、全ての自然数に対して個別に結びつけるルールを定めることが考えられるが、この場合は不可能だ。
自然数は無数にあり、結びつけの方法として成り立っていることを証明するには無限の時間がかかる。
では偶数と奇数に分けて定めるのはどうか?これならルールはわずか2つで済む。2で割り切れるものを偶数、2で割り切れないものを奇数として、個別にルールを定めれば良い。
これを1つにする手段はあるが...記事で取り上げるのが面倒なのでこちらを参照。
参照先で挙げられているような性質を満たす別の概念があるならば、確かにたった1つのルールで結びつけることが出来る。これ以上に良い方法は無いように思えるが...
連続的であるということ
ところで副体の有無やその性質は実体に依存するのだから、いくら表出感覚と言っても、それぞれ別の実体から発生した副体同士が全く同一である保証は無いだろう?例えば、昆虫の視覚と人間の視覚が全く同じだとは考えられない。
だとしたら、表出感覚であっても結びつけは容易ではなくなる。その視覚を通して見ているものは全く同じだという事実にも関わらず、だ。
この問題は表出感覚について個々人の副体を中心に考えることで発生する。
つまり実際の干渉では、この実体の違いによる僅かな差異を抽象化する別の概念感覚が関わっていることになる。(その差異が僅かであることは、副体が表出感覚であることから保証できる)
イメージとしては、ある副体の概念感覚から表出感覚に変換され、そこから別の副体の表出感覚に干渉し、それがその別の副体の概念感覚に変換されるといった形だ。治療学モデルでも簡単に表せる。
そして、その僅かな差異を抽象化する概念感覚に対応する副体についてある条件を満たせば、個々人の間においてそれが同一である必要性はない。
...その条件とは、その副体が不可算性を持つということだ。つまり自然数のように数えられるものではなく、実数のように数えることの出来ない性質を持つ。それによって表出感覚間の干渉が客観的であることを保証している。
何故不可算性を持たなければならないかについては簡単に証明できる。
ある空間的広がりを持つ表出感覚について、一部の空間に限定しても表出感覚として成り立つ。このように好きなだけ小さい空間に限定される表出感覚を仮定することが出来るが、それは同じ性質を持つ表出感覚であるから、一方が他の感覚に1対1対応するならば他方もそうなるべきである。つまり他の感覚を通して、扱う空間の大小にかかわらず1対1対応させることが出来る。
その表出感覚が可算である場合は、扱う空間の大小が違えば1対1対応させることが出来ない。これは上の事実と矛盾する。
結論 表出感覚への結びつけ
ではタイトルに話を戻そう。どうすれば概念感覚を表出感覚に結びつけることが出来るかという話だった。
ここで言う表出感覚とは個々人の副体のことではなく、個々人の副体の差異を抽象化する概念感覚のことだ。「表出感覚に結びつける」とは、この抽象化された概念感覚に結びつけることに他ならない。そして、その抽象化された概念感覚は不可算性を持つことが自明である。
よって、表出感覚に結びつける概念感覚は、不可算性を持たなければならない。
今後の課題
この記事によって副体や副体間の干渉など、治療学モデルを構成する要素をより厳密に定義できた。
さて、この記事で数字をとりあげたのは例として分かりやすいという意味でもあるのだが、今後展開する新シリーズに向けての布石を早めに打っておきたい意味でもあります。
新シリーズ...「数式化シリーズ」のね。
それぞれ別の観点から研究が推し進められてきた治療学シリーズと感覚化シリーズ、この2つの統一理論(名前は次の記事で決めようと思う)は前の記事でほぼ完成した。
この統一理論を数学という一大学問に関連付けるに足りる十分な根拠がどうしても欲しかった。この記事はその一つ。
見る人が見れば分かると思うが、既に数学的な操作と言えるものが随所に使われている。
ある学問を数学に関連付けるにはどうすればいいか。表面的な数式だけでなく、思想や信念を丸ごと反映した形で、タルパを数式化したい...
もはやこの研究は、その無謀な挑戦を肯定できる段階にまで進んでいる。
おそらく次のまとめ記事が最後の感覚化シリーズになると思う。そこでは、タルパを数式化するために解決すべき問題を、大小問わず全てとりあげよう。
まだブログで触れていない重要な問題がいくつか残っている。
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