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http://karapaia.livedoor.biz/archives/52167740.html
人は科学的根拠に基づく事実を知ったところで、信じたくないものは信じない(米研究)

えっ
科学は事実を包有するか

リンク先の記事を見ていると、さも「科学⊃真実」のような書かれ方をしていて、えらく偏った見解だなーと。



>人は、どんなに科学的根拠を積み上げて説得していっても、信じたくないものは信じない

当たり前だ。

真実であるという客観的な命題と信じるという主観的な行動を、どうやって同一視出来るというのだ。
さらに言えば、(本当の意味での)真実(科学における)真実との間には圧倒的な差がある。もちろんこちらも、同一視出来る類のものではない。



>人は、事実がどうであるかよりも、自分の立場が大切なのだ。

必ずしもそうではない。
先ほど真実と信念は別問題と言ったが、それによれば真実であるかどうかは信じるかどうかの決定に何の干渉もしないはずである。
一概に自分の立場の方が大切であるとは言えない。



>一度文化的、政治的な視点が 〜 元の白紙状態に戻すことはとても難しいのだ。

その通り。
ただし、ここでも文化的・政治的視点は信じるという行動の決定に対して干渉はしていないことは見逃せない。

というより、決定ということ自体が他に干渉される性質のものではない。
したがって、決定という行動から見て、その行動を取るに至った過程は抽象化出来ると言える。
これはつまり、信じるという行動を取った要因が真実だからであろうと、他の何かによる干渉であろうと、やはり信じるという決定とは別問題なのである。

これがこの手の話の本質をややこしくしている(ように見せている)一因だ。



>科学的根拠に基づく真実を知ったところで 〜

科学における真実はこのブログで何度も扱ってきた話題であるが、今回は比較的まともであったように感じる。
タイトルと結論で「科学的な」と書いておきながら文中でそれを混同しているのは不思議であるが、それほどのミスリードを犯しているわけではなかった。
(もしかしたら結論ありきで文章を作ったのかも...?)


信じるという決定がどのようにして行われるかの仕組みを知らないとこの辺りは理解に苦しむところだ。言葉がまとまれば次のまとめ記事で触れてみよう。
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