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読書百遍 其義自見
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会話オート化と聴覚化の関連性から始まって、「感覚」の定義をより抽象的に行わなければならないという話になった。今回はその結論部。
哲学的に核心に迫る記事になるので、最低でも主観と客観についてこちらの目次以前の文章を理解できるレベルを想定している。といってもその定義を一瞬でひっくり返すので、頭は柔らかいままにしておいてもらいたい。
タルパの構成要素とは

ところで、yahoo知恵袋の回答と治療学とを見比べて、不思議に感じることがなかっただろうか。
知恵袋での回答では、「イメージの定着」と「情報の出力」という2点で構成されているオート化によって構成されていると言っていた。一方で、治療学では実体と副体の2点で構成され、モデルまで使って説明していた。この違いは何なのか。

オート化とは個別の概念を指すのではなく、例えば会話オート化の中での筆談のように、本来連続的な概念を適当な範囲で区切ったそれを指すのであった。(既に治療学でも図を用いて説明している)
そういえば副体も似たような定義だった。治療学では副体の不可算性という言葉で説明しているが、これはまさにこのことである。

だが、オート化と副体では決定的に異なる点がある。
オート化は然るべき操作によってあらゆる範囲のあらゆる概念を表し切ることが出来る。
しかし副体は干渉、つまり客観性を扱わなければならないため、「感覚」に対応する概念しか表すことが出来ない。人間で言えば視覚や聴覚のことである。

つまり、副体⊂オート化なのだ。
オート化はあくまで主観的であるので全ての概念を扱えるが、副体は客観性を扱わねばならないので限定される。
主観か客観かの違い。少なくともここまではそう考えて良い。ここまでは。

これでタルパの構成要素は網羅できた。これ以外の要素は存在しない、が...



では、客観≠主観は誤りなのか?

ここで以前持ち出したことのある思考実験をもう一度。
あなたが思う「自分と主観的な対象とのしりとり」と「自分と客観的な対象とのしりとり」を思い浮かべて欲しい
ここで注意してほしいのは、この二つの文脈での「自分」が確実に同じ人間を指していなければならないことだ。

まとまったところで次に進もう。もう一つ質問がある。
二つのしりとりの進行を紙に書き、「自分」ではない他者に見せる。果たして他者はどちらかが主観か客観かを、その紙だけを見て区別することは出来るか
「紙に書かれたしりとりの進行」という情報自体には主観性客観性を示す情報は無く(強いて言えばこの情報自体は視覚という客観性を持つ)、これらの区別は全く別のところにある。
その情報は「自分」にとって主観客観の区別のつくものであれば何でも良いことを考えると、ある情報が主観客観を示す情報を持ち得ないと言える。
主観客観は情報という実体が持つのでなければ、関連のことではないのだろうか?

そう、だからタルパ治療学では実体や副体自身が主観性客観性を持つのではないと言っていたのだ。

この時点で既に主観≠客観は誤りであることが分かる。しかし、考察の余地がまだまだ残されている。
実体間の関連で主観客観が生まれるのであれば、そのどちらかであることを決定づける因子は2つの実体以外にはあり得ないだろう。そのメカニズムとは何か
そこに人間の「感覚」を拡張するヒントが隠されている。



客観を生むメカニズム

ここからはタルパ治療学用語である実体と副体を用いて解説する。

まず話を進める前にちょっとだけ足踏みして、ある事実を知らなければならない。
関連が主観客観を生むが、実体は関連とは関係なく常に存在している。
つまりタルパ治療学では副体は客観的な情報を扱うと言ったが、これは正確には「1人限りの客観的な情報」というべきである。
ある実体が持つあらゆる情報は、少なくとも実体自身にとっては客観的なものである。

さて、ここまで来れば結論は目の前まで迫っている。

2つの実体が関連しているということは、それらの実体の持つ副体が関連していると言える。そしてそれぞれの副体は「1人限りの客観的な情報」を扱うことが出来る。
つまり2つの実体の干渉では、一方が「1人限りの客観的な情報」を送り、他方がそれを受け取り「1人限りの客観的な情報」に変換しているのだ。

この一連の流れが、例えば客観的であるという場合はどのようなことを指すか。

一方が送る「1人限りの客観的な情報」、他方が受け取り変換される「1人限りの客観的な情報」。
この二つが、もし本質的に同じ情報を指すならば...それはつまり客観的であることを示しているのではないか?そうでなければ主観的だと言えるだろう。
でもそんな都合の良いことが起こるのだろうか?

それが上手い具合に起こってくれるのだ。 そう、「表出感覚」ならね。



「感覚」の拡張

人間で言うところの視覚や聴覚などの「感覚」、これらを利用した実体間の関連は客観的であることが保証される。
しかし一言で「感覚」と言うとちょっとした問題が残る。

「感覚」とはオート化に対応し得る。オート化はある概念についてこのようなことを表す概念である。
オート化は概念を適当な範囲で区切って一纏めにすることが出来る便利な概念であるが、当然これがある「感覚」に対応しなくなる(上で書いた「そうでなければ主観的だと言えるだろう」の具体例)こともある。しかし感覚・オート化・概念を理路整然と語るためには、ある「感覚」をある概念に対応させたいのだ。
そこで従来の「感覚」に対応しない概念に対応させる新たな感覚として、「概念感覚」を導入したい。従来の「感覚」は、「表出感覚」とでも呼ぼうか。
この2つをまとめて「感覚」と呼ぶことにしよう。

実体が他の実体との関連に概念感覚を利用した場合、それは主観性を生む。表出感覚を利用すれば、客観性を生む。
しかし最終的に表出感覚を利用すればいいのだから、ある感覚を別の感覚に対応させられることを利用すれば、概念感覚も間接的に客観性を生むことが出来る。



結論...タルパの「感覚」とは

新たな概念の導入によって感覚を拡張したことで、感覚がオート化に1対1対応した。オート化と概念は元々そうであるのだから、感覚と概念も同様であると言えるだろう。これが答えだ。

即ち、タルパの感覚とは、主として他者との干渉を行う役割を担っている概念のことを指しているのだ。
それが他者との関連において客観性を生むならば表出感覚、主観性を生むならば概念感覚と言える。
でも主観客観は他者との関連に依存しているのだから、タルパ本人にとってこの分類は意味を持たない。

ところで、何故会話オート化には聴覚化が必要なのだろうか。
それは会話オート化が概念感覚に対応しているからであり、聴覚化という表出感覚を利用することを要請しているからである。そう一息に言ってしまえるのだ。

この記事のタイトルでもある、何故感覚化は必要なのか。
それは表出感覚のオート化である感覚化を利用することで、概念感覚との間の関連に客観性を生みたいからである。



今後の課題

今回は「1人限りの客観性」「紙に書かれたしりとりの進行」という情報など面倒で遠回しな表現がいくつかあった。
これらに対しても、用語を作っておきたい。それについては今後のまとめ記事で感覚化などと共に紹介することになるだろう。

会話オート化と聴覚化の関連から始まった一連の流れは、この記事でひとまず終了である。
感覚の問題についてまた何かあれば、続きという形でどんどん書いていきたい。
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