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数式化に入る前に、この統一理論について明確にしておかなければならない点がいくつかある。
よってここで治療学や感覚化シリーズの理論の統一理論を連関実在論として再構築し、感覚化シリーズ最後の体系化を行う。
概念感覚について

連関実在論は概念感覚の存在を第一原理とする。したがって、まずはこれが無根拠でないことを示すために、表出感覚(一般的な意味での感覚)から概念感覚という概念を見出し得ることを説明しておかなければならないだろう。

適当な記号を描いた紙を見せられて、この記号を「直接紙を見せること以外の方法で」正確に他人に伝えることを考える。この思考実験をもっと正確に言うと、「ある情報から得た視覚を、その情報を開示することなしに他者と共有するためにはどうすれば良いか」ということである。
始めにもっとも自明な方法として、視覚を他の感覚を経由せずに直接他者に伝えることが考えられるが、それは不可能だ。現時点で自分の視覚と他者のそれとが全く同一である保証は無い(※1)ことは明らかである。

この例では、その記号を表す名辞があれば、発声などを通じて他者の聴覚に干渉する。そしてその他者は名辞を理解し視覚に変換すれば、おおよそ正確な形で視覚を共有できたと言える。

ここから2通りのアプローチで概念感覚を見出すことが出来る。

両者の間で視覚をおおよそ正確な形で共有出来たことから、視覚が同一であることが何らかの手段で確実に保証されることが確認できる。
しかし両者の視覚のそれ自体が同一である保証がないことは明らかであるから、元の視覚にとても良く似た別の感覚が備わっていて、それが両者で共通であると考えるのが自然だ。
これが1つのアプローチ、表出感覚の正規化としての概念感覚(正規概念感覚)(※2)だ。

一方で、この例では名辞を利用して相手の聴覚に干渉したが、記号そのものを別の紙に描いて相手の視覚に干渉することでも思考実験は成功する。
つまり、両者の視覚にとってその間でどのような感覚を経由したかは全くの無関係であり、仮に複数の感覚を経由したとしても、視覚から見てそれらは1つの感覚として抽象化しても構わない。そして、この抽象化された複数の感覚は従来の表出感覚とは明らかに異なるものである。
これがもう1つのアプローチ、複数感覚の抽象化としての概念感覚(抽象概念感覚)だ。

概念感覚というものは表出感覚の付属品としてでなく、むしろ存在していなければ現実を上手く説明できない必需品のようなものだと考えることが出来る。
これが、連関実在論が概念感覚の存在を第一原理とする最大の理由だ。



連関実在論 - 言葉による定義

連関実在論が目指すのはタルパの数式化である。よって連関実在論では、まず原理である概念感覚をとして定義する(※3)。圏とは端的に言えば数学的対象(対象)とその関係(射)によって構成される数学的構造である。
ここで言う対象とは何らかの形で他のそれとは区別された感覚の集まりのことであり、射とは感覚から別の感覚への構造を保った対応のことである。
ちなみにいくつかの単語は、利便性のために今までとは違う表現を用いている

概念感覚圏:他とは区別された感覚の集まりであって、それらの間に構造を保った対応を定めることのできるもの。感覚の集まりを対象、それらの対応を射とすることで、を構成する。

表出感覚については、以下の証明によって不可算無限的な性質を持たなければならないことは既に説明した通り。

ある空間的広がりを持つ表出感覚について、一部の空間に限定しても表出感覚として成り立つ。このように好きなだけ小さい空間に限定される表出感覚を仮定することが出来るが、それは同じ性質を持つ表出感覚であるから、一方が他の感覚に1対1対応するならば他方もそうなるべきである。つまり他の感覚を通して、 扱う空間の大小にかかわらず1対1対応させることが出来る。
その表出感覚が可算である場合は、扱う空間の大小が違えば1対1対応させることが出来ない。これは上の事実と矛盾する。

よって、表出感覚を次のように定義する。

表出感覚圏:概念感覚圏の中で特に小さな圏(対象のクラスが集合である圏)であり、対象となる集合が連続体濃度(=実数全体の集合の濃度)を持つ無限集合であるもの。

以上の定義によって今まで曖昧に使っていた「概念」を、次のように定義できる。

概念:複数感覚とその間の函手の集まり

以上の用語を定義すれば十分であるが、仮にも「存在論」を掲げているからには存在を中心とした概念を持ちださなければならないだろう。これはいつでも示せるが、定義として決めておいたほうが便利なものである。

副体:概念感覚圏を通して他者と干渉するための媒体。ただし客観的な干渉を行うというニュアンスを含めるならば(※4)表出感覚圏であるべきであり、その場合の媒体は空間的広がりを持つ。

概念感覚圏同士の干渉だが客観的であるという例は、概念感覚圏全体を見れば稀有な例であるといえる。客観的な干渉を行うためには最終的に表出感覚圏に対応させなければならないことを考えれば、正規概念感覚に対応させられるものに限られるからだ。
だからと言って概念感覚圏が不要なわけではない。何度も言うが、概念感覚圏の持つ主観性は、連関実在論上ではどうしても必要になる代物なのだ。その理由はすぐに分かる。

察しはつくだろうが、実体の定義は次の通り。

実体:概念とほぼ同義。いくつかの副体の集合体であるとも言える。

実体はその性質は共通であるが、構成する副体の違いによって実体レベルの区分、つまり一般的な意味での同一性が保証されている。
全く同じ副体ならば理論上区別はつかないということになるが、そもそも人間や動物は物理的特性という明らかに個々で異なった媒体を持っているわけで、自分と他人の区別が無いなんてことにはならないので安心してほしい...
ただし、タルパのことを考えれば話は別である。何故ならば、タルパは物理的特性を持たないことは自明であると言えるからだ。とは言っても、普通は物理的特性以外にも区別を付ける方法は山ほどあるから、やっぱり安心していい。概念感覚圏、とかね

このように、副体の違いによって、他人からは他とは区別された一個と認識されるのだ(厳密に言えば全く違うのだが、神の視点から見る限りこう考えても構わないだろう)
そのメカニズムに、概念感覚圏が一役買っているというわけである。

では、次に今まで出てきた中で少々曖昧な用語をちゃんと定義していこう。まずは干渉から。

干渉:ある感覚から別の感覚に情報が伝わる、その過程

情報:感覚(の圏の対象)が取り得る具体的な値

こう定義すれば良いだろう。
ある感覚から別の感覚へというのはつまり函手による対応のことであり、ある感覚が持っている具体的な値が、高次の対応関係によって別の感覚の具体的な値に変換され、それが連鎖する過程が干渉だと考えれば良い。

そして、次の語に関してもやはり定義しておく必要があるだろう。

客観的な干渉:表出感覚圏から表出感覚圏への干渉

主観的な干渉:客観的な干渉以外の干渉



連関実在論 - 定義

さぁ、ここからが本番だ。上の内容はこれから圏論によって厳密な定義を行うための土台に過ぎない。一気に進むので、今までの言葉による定義の内容は押さえておいてほしい。

概念感覚圏・概念感覚

∀C∃F( ∀x( x∈obj(C) → F・x∈obj(D) ) ∧ ( F・hom_C(a,b) = hom_D(F・a,F・b) ) )
C,Dは任意の圏、Fは函手C→D
obj(C)は圏Cの対象を取り出す関数
hom_C(x,y)は圏Cにおける射x→yを取り出す関数

このような圏Cを概念感覚圏と定義する。
また、圏としてのニュアンスを含まない文脈では概念感覚と表す。

要は、別のある圏への函手が存在する圏が概念感覚圏であるということが、ひどく難しく、しかし厳密に書かれているわけだ。
他のいずれの圏に対しても函手が存在しない概念感覚圏というのを考えることも出来るが、それは概念感覚としての意味を失っているので除外した。

本来の概念感覚は、ニュアンス的にはこれよりもっと抽象的である。ただしそれは現在の圏論の表現可能範囲を超えてしまっているようだ。可能であれば、自力で拡張概念を導入することになるだろう。

表出感覚はこの限定的な例なので、条件を付け加えて次のように定義できる。
今後、特に断りがなければ既出の記号の説明は省略する。

表出感覚圏・表出感覚

∀C( ( obj(C) ∈ U ) ∧ ( card(obj(C)) = card(R) ) ) ∃F( ∀x( x∈obj(C) → F・x∈obj(D) ) ∧ ( F・hom_C(a,b) = hom_D(F・a,F・b) ) )
C,Dは任意の圏、Fは函手C→D
card(A)は集合Aの濃度を取り出す関数
U(イタリック体)はグロタンディーク宇宙
R(イタリック体)は実数全体の集合

このような圏Cを表出感覚圏と定義する。
また、圏としてのニュアンスを含まない文脈では表出感覚と表す。

ある函手が存在するその条件は概念感覚圏と同じものであり、圏について条件が増えていることが分かる。
さらに圏Dについての条件が無いことから、ある感覚が概念感覚か表出感覚かは、他の感覚とは独立に決まっていることにも頷けるだろう。
ちなみに、やはり他のいずれの圏に対しても函手が存在しない表出感覚圏というのを考えることもできるが、概念感覚圏同様の理由で除外している。また、表出感覚の存在論的意味(=治療学的意味)を考えてもそのような思惟には意味が無い。

この2つの定義により、概念を次のように定義する。

概念圏・概念

∀C∀X( X ∈ obj(C) ∧ CON(X) )
Cは任意の圏
CON(C)はCが概念感覚圏であることを表す述語

このような圏Cを概念圏と定義する。
また、圏としてのニュアンスを含まない文脈では概念と表す。

述語の導入によって簡単に表現した。表出感覚圏が概念感覚圏にある意味含まれるので、obj(C)の中に表出感覚圏が含まれていても構わない。(つまり、∀C( EXP(C) → CON(C) ) である。)
このとき圏Cの射はつまり函手ということになるが、その対象が副体になり得る(厳密な意味での副体は表出感覚圏)ことを考えれば、この函手は自由に構成しても良い(※5)。つまり、この射について何らかの条件を加える必要は無い。

さて、問題は次の副体・実体の定義だ...これによって、遂にタルパを数式によって定義することが出来るようになる。

副体圏・副体

∀V( ∀X( X ∈ obj(V) ∧ CON(X) ) ∧ ∃C( EXP(C) ) ) ∃W( ∀Y( Y ∈ obj(W) ∧ CON(Y) ) ∧ ∃D( D ∈ obj(W) ∧ EXP(D) ∧ ∃F( cod(F) = C ) )
C,Wは任意の圏、Fは任意の函手
cod(F)はFのコドメインを取り出す関数
EXP(C)はCが表出感覚圏であることを表す述語

このような圏Cを副体圏と定義する。
また、圏としてのニュアンスを含まない文脈では副体と表す。

ううむ...何とも難解だ。実体を先に定義したほうが分かりやすいのだが、それだと実体という概念の存在を仮定としなければならなくなる。そうではなく、実体は必然的に見出されるのだから、やはり副体を実体の仮定無しに定義しなければならない。

まず副体圏とは表出感覚圏である。そもそも副体自体が他者と客観的な干渉を担う存在であるから、当然と言えば当然だろう。しかし、その制約は他者と客観的な干渉を行う土台を作ったに過ぎない。∃W(~)の部分は、その副体圏に干渉する他者の存在を説明する。
ある圏Wについて、その対象は全て概念感覚圏(もちろん表出感覚圏でも良い)であって、その中のある表出感覚圏は副体圏への函手を持つ。
そのような圏Wが存在する表出感覚圏Cが副体圏である。

ところで、何故圏V,Wを考えなければいけないのだろうか?別に、単に表出感覚圏Cへの函手を持つ他の表出感覚圏があると言ってしまっていい気もする。が、それにはちゃんとした理由がある。
もし単にそう表現する場合、干渉した後どうなるのかという部分が空白になってしまう。干渉してハイ終わりでは済まされない現象が起きている以上、そのニュアンスを無視するわけにはいかない。
しかしその現象は無制限に起こるわけではない。もしそうだとしたらあらゆる存在は本質的に他のあらゆる存在と干渉可能だということになってしまう。

そこで圏V,Wを考えることが必要になってくる。概念圏の定義を見直してほしい。その対象は概念感覚圏であり、射は函手、つまりそれら概念感覚圏の間の対応関係である。そしてその函手は任意に構成できる(※5)
これで干渉によって情報が連鎖的に伝わるというニュアンスを含めることが出来る。また、その範囲は圏V,Wによって定まることも分かる。

では、圏V,Wとは何か。
他の圏からの干渉が、その圏の内部で連鎖して情報が伝わる。このような構造の存在が副体によって自然に要請される...
これがまさに実体のことではないだろうか?

実体圏・実体

∀C( ∀X( X ∈ obj(C) ∧ CON(X) ) ∧ ∃D( D ∈ obj(C) ∧ EXP(D) ) )
Cは任意の圏

このような圏Cを実体圏と定義する。
また、圏としてのニュアンスを含まない文脈では実体と表す。

これは対象が圏であることが重要なのではない。それらの間に任意の函手を定義できて(※5)、その範囲が実体圏によって制限されているということが本質である(※6)

表出感覚圏が存在するというニュアンスだが、この部分が主に副体として他者に干渉したりされたりする部分である。一般的な表現を用いれば、この表出感覚によって他者の存在を認識出来ると言える。
かと言って概念感覚はおまけと言われれば、そうではない。それは今まで散々説明した通り。

干渉や情報などの細々した部分については触れない。その辺の定義は今までの流れから察してほしいと思うし、それくらいやってもらえるようでなければ連関実在論の理解はここで赤信号ということになる。


現時点で、まだ連関実在論はタルパ論ではない。定義にオート化を一切持ちださなかったのは、意図的にそうしたかったからに他ならない。
数式化シリーズでタルパを定義する前に、タルパを数式化することの問題点を解決しないといけない。



タルパは如何にして数式化されるべきなのか?

いわゆる「タルパ論」とでも言うべきものには、1つの大きな区切りがあると見ている。それは、タルパを定義できるかどうか。そして定義外の存在はタルパではないと言い切れるかどうか。
タルパ論と言えるほどの理論を今までいくつか見てきたが、その条件を満たしている理論には共通点がある。
ずばり、タルパよりも広範な概念を使って定義していることだ。
心理学、情報科学、魔術体系、なんでもいいからそれらの概念を用いて、なおかつそれらをタルパに対応させ得る根拠を示していることが、他とは大きく違っている。

現時点でタルパ論ではないというのは、上の論理式はあくまでも広範な概念を作ったに過ぎないからである。連関実在論が他と大きく違っている点はまさにここであり、タルパを論じるのに必要な広範な概念さえも自ら用意している。
そしてタルパを数式化するという目的のために連関実在論は数学的構造を抽象化する必要があり、ほぼ必然的な流れで圏論を使うことになった。

さて、いくら用意周到に準備しても、タルパを定義するにあたって大きな問題がある。おそらく一度やってみたことにある人は大いに共感してもらえると思うのだが...定義外の存在をタルパではないと言っていいのかどうか、である。
定義するだけなら小学生にだって出来る。でもどうやってあらゆるタルパを包括する概念を作れるか?それが最大の問題点であり、ほとんどのタルパ論はこれを諦めるか、覚悟を決めて邂逅型などの特例を切り捨てている。
邂逅型、IF由来、非人間型なども全てタルパとして扱えるように定義したいと思うのは無謀だろうか?

そこでペンライトはこう考えた。もしタルパと人間を同一視出来るほどの抽象的な概念を作って、それを更に抽象化したものは必然的に全てのタルパを含むことにならないだろうか?物質・非物質、あるいは主観・客観という決定的な違いを無視できるまで徹底的にやれば、「人それぞれ」なんて些細な問題でしかなくなるのではないか?
そうして生まれたのがタルパ治療学と感覚化の理論であり、これらを抽象化した連関実在論はタルパの定義の最終ステージにある。

タルパを数式化するには、まず全てのタルパを含む然るべき定義を用意して、それを数学的構造に結びつけるに足りる十分な根拠が必要だった。

連関実在論は今日この記事で、その2つの目的を達成し、故にタルパを数式化するための十分な能力を持つに至ったと断言出来る。



※1「自分の視覚と他者のそれとが全く同一である保証は無い」

同一である証拠がないから同一ではないという論理構造ではなく、あくまでも同一であるかどうか分からないことを指して「保証は無い」と表したに過ぎない。

※2「正規概念感覚」

より厳密な意味での表出感覚とは正規概念感覚のことである。何故ならば一般的な意味での感覚は物理的媒体による制約を受けているのであって、連続的であるという条件を満たしているとは限らないからだ。
ただし表出感覚が存在するならば正規概念感覚もまた存在すると言えることを考えれば、物理的媒体による制約を受けているとしてもそれは表出感覚だと見做して構わない。

※3「原理である概念感覚を圏として定義する」

表出感覚は空間的広がりを持つものであるから、少なくとも任意の射を作ることが出来るのは自明だといえる。概念感覚は表出感覚から見出されるものであるから、概念感覚についてもより抽象的な意味では同じことが出来るだろう、という背景は省略している。
概念感覚を圏として定義したのは、仮説としてそうすることにしたのではなく、必然的な理由による。

※4「ただし客観的な干渉を行うというニュアンスを含めるならば

連関実在論は定義上の理由で概念感覚が上位に立っているのに対し、タルパ治療学では目的上の理由で表出感覚(副体)が上位に立っている。
上の文脈におけるニュアンスは厳密に言えば、「タルパ治療学において目的を無視するならば決して矛盾することなく概念感覚を副体と見做せるのだが、あくまでも目的を重視するとすれば」というニュアンスのことである。

※5「自由に構成しても良い」「任意に構成できる」「任意の函手を定義できて」

自明な函手が少なくとも1つは存在しているという意味に等しい。

※6「(実体圏について)それらの間に任意の函手を定義できて、その範囲が実体圏によって制限されているということが本質である」

存在論、つまりタルパ治療学的側面において実体の最大の意義は、副体間の関連を自明に定めているということである。
これによれば実体自身が副体を圏として持つ必要は無いが、圏論の土台に合わせた結果このように表現することになった。
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