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http://blog.livedoor.jp/iseda503/archives/1807417.html
まぁついさっきツイッターで取り上げたネタなんだけど、これは是非とも記事にしようと思った。
リチャード・ドーキンスという学者さんがいるらしい。その人が書いた本。の、書評。
詳しくはググれ。

まずこの本前半のアウトラインをざっと説明する。


科学の世界では宗教との対立を避けるため、「神がいるかどうかなんて科学じゃわからん」という相互不干渉的な姿勢を取っている。
しかしドーキンス曰く、「じゃぁ神は居るって仮定して推論すりゃええやん、何があかんの」
当然科学は彼の主張を無視することは出来ない。未解決問題を原理として受け入れて理論を組み上げるのは、科学ではよくあることなのだ。

それはさておき、彼は何故「神は居る」と仮定するに至ったのか。

そこで目的論的論証が出てくる。
こんだけ精巧な宇宙や生命がただの偶然で生まれるなんて考えられないし、やっぱ神がいないとおかしくね?ってのが目的論的論証。

でもその神がどこから来たのか分かんないし説明もできないし、こんな主張したらヘンテコな宗教まで認めなきゃいけなくなっちゃうじゃん?
じゃぁ神は居ないってことにしといたほうが一番合理的なんじゃねぇかなぁ...



以上がドーキンスの主張。
この結論を踏まえて後半で宗教そのものを批判する流れとなるのだが、そこには特に興味ないので前半部を
例によって融合仮説と照らしあわせてどうにかしてみよう!



僕が突っ込みたい最大のポイントとしては、「神」という言葉をそのまま使っている点。流石学者というべきか、そこに関しては微妙に触れてあるようだ。

ここで融合仮説なら、あくまでも言葉と概念とが一対一で対応する図式を作り上げる、もしくはその言葉を放棄する展開となる。
本質的な意味を有するのは言葉ではなく概念の方で、我々人間はそれを他人に伝えなければならないという「やむにやまれぬ事情」のために、仕方なく言葉を使っているという解釈のためだ。

一方ドーキンスはどうしたかというと、非常に含みをもたせた言い方をしている。
(それがある人間にとって)正しいかどうかの問題と受け入れているかどうかの問題を分けずに論じているのだ。
さらに言えば、全く同じ言葉でも違う意味を持つことを認めてしまっている。
このおかげで普段哲学的な問題を意識すること無く会話できると弁明しているが、ここでは哲学的な推論と普段の会話とを分けて論じているのだ!
あらゆる点で際どいラインを行く学者である...

1つの問題を2つの問題として分けて考えるのは、結果として得られる回答を限定してしまう。より現象論的な回答となってしまうわけだ。
逆に、2つの問題を1つの問題として考えると、因果関係を見失う。(哲学に因果律を持ち込むのはメジャーな手法ではないが、融合仮説では因果律を全面的に認めている。)

こんな状況下の推論が、果たして正しい推論と言えるだろうか。



あー、最大のポイントとか言いながら全部触れてしまったなぁ

神がいるかどうかを神がいるかどうかの観点で議論していても永久に答えは出ない。
科学とオカルトの関係性については誰でも一度は考える命題だが、それを哲学と結びつけてより本質に近づける展開に持っていったのは評価できる。

が、以上の誤りによって結論がよろしくない方向性に着地した感は否めない。
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