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日々の考察の内容を手帳に記録するようになってから様々な発見があったわけですが、これだけはどうしても言っておかなきゃいけないだろうと思って書いてみた。
実際にはそれ以前から気づいていたんだけど、もはや確信出来るレベルの結論が出たので。

この記事では「統一理論"連関実在論"と数式化の抱える問題」を含めて、感覚化理論関連の記事からいくらか引用しています。詳しくはそれらの記事を参照してください。
表出感覚とは

表出感覚は様々な観点からいくつかの定義がありましたが、今回問題になったのは「表出感覚は連続的である」という部分。
治療学では不可算連続性という言葉で説明している通り、表出感覚にとって連続性はなければならないものと考えられていました。(実際、治療学の解釈に厳密に従えばその証明が出来ます)
しかしこの連続性、どうやらちょっと怪しいようなのです。

そもそも「表出感覚」は干渉にともなう主観・客観を説明するために概念感覚と共に導入された概念です。

一方が送る「1人限りの客観的な情報」、他方が受け取り変換される「1人限りの客観的な情報」。
この二つが、もし本質的に同じ情報を指すならば...それはつまり客観的であることを示しているのではないか?そうでなければ主観的だと言えるだろう。

後になって干渉とは圏(ここでは概念感覚や表出感覚のこと)を別の圏に対応させるための函手を使って、実際に対応させることだと結論付けられました。
で、表出感覚間の干渉は客観的だというので、そうするためには干渉時に失われる情報があってはならないのです。表出感覚の対象は集合なので、この内1つの要素も余すことなく全てを変換しなければなりません。
つまり具体的には、異なる要素が同じ要素に変換されたり、その逆の変換でもそのようなことが起こってはいけないという意味です。

ある表出感覚が他の表出感覚の要素の数など知る由もないので、連続的ではない、つまり有限集合なら、他の全ての表出感覚に対して要素の数が異なる可能性を排除しきれなかったのです。
それを根拠にして「表出感覚は連続的であるべきだ(その集合の濃度が連続体濃度と等しければこの問題は解決する)」と今までは言われていたのですが...

表出感覚が連続的なければならないことを否定するには1つでも反例を挙げればいいのですが、他の表出感覚との干渉を考える限りでは、原理的に反例とはなり得ません。
他の表出感覚との干渉を考える限り」ではね。

ではここで議論の土台を連関実在論に戻すとして、副体について考えます。副体は「存在」というニュアンスを持たせただけで中身は表出感覚そのものなので、副体について考えることは表出感覚について考えることとイコールです。
副体が他の副体に干渉するとき、つまり表出感覚間の対応が起こるとき、それがどの実体に属するのかを知る方法はありません。
(ちなみに感覚化理論に実体に相当する概念がないのは、そもそも実体を考慮する必要がないからです)
よって、副体のあらゆる副体に対しての干渉を考えることが出来ます。ここに反例のヒントがあったわけですね。



反例が見つかった

以下がその反例になることを証明するのは非常に簡単です。
それでも反例を見つけるのに時間がかかった理由は、感覚化理論で実体を考慮しなかったことが一番に挙げられるでしょう。感覚化理論の範囲内では、特に何も書かれていなければ干渉する対象は他者であるという暗黙の了解があります。

もしこの暗黙の了解を取り外して、これが他者ではなく自分の表出感覚に干渉しているのだとしたら...?
自分の表出感覚を連関実在論によって単なる集合だと考えた場合、干渉する自分自身の表出感覚との要素の数が同じであることは自明となるでしょう。干渉する表出感覚の要素の数を知る方法は無いにもかかわらず、自分自身に干渉している限りは常にその数は同じです。
この事実は集合が無限であろうと有限であろうと変わりません。
つまり、この例では有限集合であっても表出感覚として成り立ちます。証明はこれだけです。



意外と大きな影響

というわけで、表出感覚は必ずしも連続的でなくてはならないわけではないようです。この結論は連関実在論の意味を大きく書き換えることになるのです。

例えば、概念感覚と表出感覚の定義がほぼ等しくなります。表出感覚を概念感覚としてみなすことが出来るという言葉通りの状況になってしまいました。こうなると、概念感覚間の干渉は全て主観的であるとは言えなくなります。
つまり、「どれくらい客観的か/主観的か」という観点からこれらの違いを論じる必要性が出てきました。
実際、最近投稿した「主観的な干渉による影響から見るダイブ共有」では既にこの解釈を用いています。

概念感覚を副体とみなすことも可能になります。それが一体どんな意味を持つのかについて考察が進んでいますが、わりと最近の話でまとめ記事を書けるほど開拓はされていません。



おまけ 連関実在論と集合論

表出感覚にはそれ以外の条件があります。圏と見なしたときの対象が集合だってことですね。
概念感覚にはこの条件が無いわけですが、今のところ対象が集合にならない概念感覚は見つかっていません。
そこで、色々発展してしまう前に連関実在論の土台を圏論から集合論に置き換えようと思っています。...というか、既にその解釈での研究が相当進んでて、一定の成果を上げてるってのが本当の理由です。

そして連関実在論を集合論上で論じることは、多分連関実在論の次の段階にも通じるような大きな意味がありそうな、そんな直感があります。
それは、またいつか話す機会があれば。
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