明確になった問題は共有される。共有された問題は議論される。議論された問題は無害化される。
ダイブ世界での法則は、完璧に人それぞれだ。
あくまでも遊び部屋に過ぎないものから、人によっては物理法則がねじ曲がっていたり、神が居たりする。
僕はタルパに関する現在の立場を取ってからずっと「タルパ」と「ダイブ世界」の作り方は同じ理論で説明がつくと思っていたが、今ふと別な考えが思いついたので、僅かながら書き残しておく。
前書き・・・
この記事、現行のタルパやダイブ世界に関する定義に衝突する表現があるかもしれない。一応閲覧注意。
正直、僕自身もこれが正しいとは微塵も思っていないし、これが真理であるとも保証しない。
あくまでも遊び部屋に過ぎないものから、人によっては物理法則がねじ曲がっていたり、神が居たりする。
僕はタルパに関する現在の立場を取ってからずっと「タルパ」と「ダイブ世界」の作り方は同じ理論で説明がつくと思っていたが、今ふと別な考えが思いついたので、僅かながら書き残しておく。
前書き・・・
この記事、現行のタルパやダイブ世界に関する定義に衝突する表現があるかもしれない。一応閲覧注意。
正直、僕自身もこれが正しいとは微塵も思っていないし、これが真理であるとも保証しない。
というのも、何故その二つを同じ理論で説明できると思ったかというと、シルバーバーチに関するとある本の「考えたことがすぐに形をもって眼前に現れる」という一文から、タルパやダイブ世界も同じようなものではないかと、予見したのだ。
だが、ダイブ世界に関しては別方面からのアプローチも出来た。
上記の考えで行くとタルパは、一つの、言わば「モノ」に過ぎない。ダイブ世界でも小規模なものであれば「モノ」であると言えないこともない。
今日ここに書き残す、大規模なダイブ世界に関しての定義は、こうだ。
"霊的真理とは異なったある種の真理を含む世界観"
(あーこれは前書きに閲覧注意って書いとかなきゃいけないだろうなぁ・・・)
と思いつつも、この定義について説明していく。
幽体離脱を生涯研究したモンロー氏が言うには、霊界はフォーカスによって階層化されているらしく、その中の一つに「信念体系」と言うフォーカスがある。らしい。
その信念体系とは、例えばキリスト教の信者であれば、自らの信念によって事実とは異なった真理(=キリスト教における真理)に基づく世界で暮らすことになる。仏教であれば仏教の、ヒンドゥー教であればヒンドゥー教の・・・そんな具合だ。
この定義に当てはまるダイブ界も、同じく一種の信念体系を作り出していると言える。
つまり、「タルパ」と「ダイブ世界」は、僕が想像しているほど似通ったものでも無いようだ。
以上。
後書き・・・
この記事でモンロー氏の意見を取り上げたが、それはあらゆる霊訓で幽体離脱に関する記述があり、どうやら幽体離脱は一概に科学的現象とは言えないと感じたからである。
もちろんこれが彼の意見の正当性を証明する道理にはならないが、そういう記述の下で、彼の意見を取り上げた。
PR
この記事にコメントする