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前記事:タルパ研究についての今後の見通しについて - 1


1. 「現象図式」のタルパ研究全体における位置づけの整理(続き)

・個体

固定によって与えられた存在全体、あるいは存在全体性。この語で存在全体と存在全体性の意義が重なっているのは、存在全体性の方が日常的な意味での「単一の存在として」という変容を被っているためだと言える。
ただし個体の意義にそういった日常性が含まれていること自体は、個体の創発性だと考えられるという意味で本来的な意義に当たると考えるべきだろう。
またここでの「単一の」は『用語』での以下の文脈に対応しているという点で重大な意義を含んでいる。
「個体の創発性だと考えられるという意味で」と言っているが、これ以降は「単一性」が創発した結果与えられるものが「個体」だと考えたい。
「創発の現象」と「創発の結果与えられるもの」の関係については後でまとめて整理することになるだろう。
あらゆる日常的な言明/問いにとって、それが現象図式における単一の作用に還元されることは全く自明でない
すぐ後の「だからここでの~」の文は日常的な意味での「単一の」の説明であり、本来的な意味での「単一の」がこの個体であると言える。
(理念的存在全体について)「ある単一の実在として言明され得る」という当然の図式を否定してもなお与えられるタルパの実在の観念
ここでは少なからず本来的な意味であることを意図しているように思えるが、しかし「単一の」は先の文で見たように日常的な言明にとっても主題となり得るから、依然として2つの意味が混同されていると考えるべきだ。
「全く異なる存在全体性」としての「単一のタルパ」は現象論的には言明し得ない
これは図式上の連関を正しく捉えていると言えるだろう。
把握は作動の様相と言えるのだから(これは本当にそう言えるだろうか?)、これが異なるのであれば「単一の」と言われているところのものが全く同一であるわけがない。
ここでは本来的な意味での「単一の」の意義が明らかに考えられていて、その上でそれすら成り立たない、と言われている点に注意。

既に現象過程の全体像を示した通り、作動は現象過程において最初に与えられてくる現象とされている。
そう考えれば『用語』での「理念的存在全体」は、それすら成り立たないという事態が現象過程によっては説明不可能なのだから、実は成り立ち得ないのではないか?とも思えてくる。
一見して『用語』で論じた「注目」の現象が関係しているようにも思えるが、そちらは現象論的な還元についての現象であって、その意味で「注目」が「作動」に関係しているのと全く同様に「固定」「指示」「定義」にも関係していると言えるだけだろう。

・指示

個体は少なからず「単一の」という意義を持っているが、ここで「単一の」と言われているのは本来的には所与性のことであって存在のことではないと考える。個体に対していきなり「定義する」ことを行えるというのでは過程を飛ばしすぎであるように思える(なぜ定義するということが出来るのかを説明できないように思える)ためだ。
そこで中間的な現象として「指示」の現象を仮定し、これによって存在者が与えられると考える。より厳密に言えば、対応物としての存在者が与えられることだと言える。

この事態の本来的な現象として「対応」が考えられているのはおそらく極めて重要だろう。
作動や固定がこの「対応」を与えているわけではない、あるいは同じことだが作用や個体についてはこの「対応」が単に成り立たないというだけではなく)成り立ち得ないということも、ここでは主張されているからだ。
素朴な直感ではあらゆる作用はそれによって説明されているところのものへの対応が常に考えられているように思えるが、このような図式について「対応」という語を用いることは不適当だと言うべきだろう。
仮にこの「対応」の意義を「ある与えられた2つのものを相互に/対等に結びつけること」と考えれば、「作用」→「説明されているところのもの」の場合はそう言えるのかもしれないが、逆は決して常に成り立つとは言えないだろうからだ。

そして「本来的には所与性のことであって...」の説明が意図しているのは以下のとおり。
仮に何らかの存在が常に与えられていると考えたとしても、それがまさに当の存在としてそこに与えられているということまでは説明できない。
だから存在について「単一の」を考えることと所与性についてのそれとは明らかに別の事態なのである。言い換えれば「単一のものとして与えられて存在すること」と「単一のものを与える所与性」とでは別の現象であるとも言える。

ところで言明そのものへの対応物を与えるという意義を還元すべきところとしては、固定よりも指示の方が適切であるように思える。(そもそも最初からそうするつもりで「指示」の現象を仮定しているのだが)
こう考えるならば、「二重性の頽落」の意義から「言明そのものへの対応」の意義を分離させることになる。これまで何となくこの2つの意義は不可分だと考えられていたが、それは間違っていたのだろうか?
あるいは「言明そのもの」と「言明の意味内容そのもの」の分離とも考えられる。こう考える方が自然であるように思えるが、果たしてどうだろうか?

・論理

定義によって与えられる境界付けによってあらゆる言明に「対応/非対応」としての「正しい言明/間違った言明」という性質が現れるような、その当の範囲内での言明そのもの同士(あるいは指示の現象についての考察を踏まえれば、言明の意味内容そのもの同士)の関係を意図している。
つまりここでは本来的な意味で「定義」の語を使用している。これが俗的な使われ方をする「定義」の語義とどれだけ重なるのかは現時点では触れていない点に注意。
ここで「関係」といっても、もはやそれは存在として考えられる限りでの関係という意味(~のもとで、~のうちに、などと表現される意味)でしかない。
関係についての文は明らかにそこで言われているところのものの説明として成り立つわけだが、「定義」の境界付けからしてそのような説明は「そこで言われているところのもの」と同一となる。
これが「存在として考えられる限りでの関係」という表現の意図である。

「言明そのもの」としての言明を為すことは論理的な意味での否定が考えられること(正確に言えば考えられ得ること)に先立つ現象だと言えるだろう。
そうすると「言明の意味内容そのもの」はそれが与えられた後から成立してくる事態だということになる。
ここでは明らかに真理の対応説が意識されているわけだが、当の対応そのものは意味内容の所与以前にも成り立つ。だからこの真理の対応説は絶対的な原則としては考えられていないという点に注意。
そう考えれば言明に関する頽落を「言明そのもの」「言明の意味内容そのもの」の2つに分けて考えることはやはり現象過程においては自然なことだと言わざるを得ない。

・「論理」に関するさらに踏み込んだ考察

さて、これまで「論理」の語の説明を避けていた理由については『用語』第一部で既に触れている。
現時点ではこれを重要視すべき理由はないのだが、ゆくゆくは「間違った言明の言明可能性」についての考察として取り組むことになるだろう。

さらに以下に展開する考察がどこまで正しいかは分からないが、事のついでに載せておく。
...ここで使っている「創発」という言葉の選び方が適切であるとは全く思っていない、という点には再度注意を向けておこう。

凡そ「言語」と呼ばれるものは、それ以前の現象過程ではなく、その末端に位置する論理の様相がその成立要件になっている、というのがとりあえずの仮説である。
ただしこの「様相」は様相論理とは一致しないはずだ。詳しい説明は省略するが、現象論の方法に基づいて考察を進めている以上、ここでは形式に先行する意味というものが考えられているためだ。

ところで「論理」が説明する創発的な事態は「真偽」と言っていいだろうか?
そう言えるならば、論理の様相が成立要件である言語それ自体もまた以下に示すように創発的な事態として説明されることになる。

そう言っていいならば、全く不思議なことに凡そ言語と呼ばれるものには論理の体系も含まれると言わねばならない。だがこれは少なくともある種の直観論理については当然のことだと言えるのではないか?
何が言いたいのかと言えば、ふつうの言語の使用においては例えば排中律などは全く考慮されてすらいないからだ。

これが仮説に過ぎないというのは、少なくとも直感的には言語の様態は認識の様態に基づいているのであって、後者は言語に先立って既に与えられているはずだと言えるように思える(つまり言語の創発性は見かけのものであり、認識についての創発性がより本来的だと思える)からである。
言い換えれば、認識は言語に先立っているという図式によって言語の使用(言うことそのもの)にはより本来的な現象から、それが決して主題化されないにせよ基礎づけられていると言えるように思えるからである。

だが先の仮説はこのような直感を完全に否定している。
言語は現象図式における個体や存在者ではなく、そこから与えられてくる「論理」にのみ直接に基礎づけられていると主張しているのだ。
また当然ながら、「作用」「個体」「存在者」についての図式だけからではそもそも言語が成り立ち得ないという主張も含まれている。

この帰結は存在者についてはある程度成り立つように見える。
とは言えここで「成り立つ」と説明されているのは言語の所与性のことであって、論理が主題である限りはその事実は(何故それが与えられているのかは全く問題にならないのだから)一切顧みられない。
故に存在者が論理におけるある種の変項として現れること自体が全く不可能だ、と言うことになる。

そう考えるならば現象図式における存在者は結局は「存在全体」のことを言っているのであって、現象過程では単に「存在」と言ってもいいだろう。
ただし個体の説明において「固定によって与えられた存在全体、あるいは存在全体性」と言ったとおり、個体にも「存在全体」の意義は少なからず伴っている。やはり「固定」「個体」は現象論的に正当な還元をまだ受けていない可能性があると言うべきだろう。



ここまで。次は現象過程に基づくあらゆる説明の言語的表現についての例示と、ここで触れた「創発」の現象について考察を進めたい。
特に前者はこれまで散々予告されてきた『タルパ現象論概略』の内容を先取りした話になるだろう。
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