明確になった問題は共有される。共有された問題は議論される。議論された問題は無害化される。
初期のタルパ現象論の研究記事には、以前の研究で主題となっていたいくつかの語彙が引き続き用いられている。それらの中には比較的最近の語彙との連関が曖昧なまま、結局使用されなくなったものもある。
この記事で『タルパ創造現象の理念的な側面についての諸考察』以前までの、言うなれば「前期タルパ現象論」特有の語彙を取り上げて、今後も研究が続くであろうタルパ現象論の図式(以下、現象図式と称している)との連関を明らかにしておく。
第一部の記述には随所に注釈を付している都合上、かなり読みづらいところもあると思う。何せこれら全ての語の説明には少なくとも2年以上の時間を費やしてしまったため、元から膨大な量のメモ書きが無秩序に並んでいたような有様だったのだ。
これらを順序だてて整然と語れるように最大限努力したが、これ以上の整理はさらに無駄な時間を消費するだけだろう。
第一部章立て
§1 「副体」および「実体」の意義について
§2 存在者的・存在的な語彙について
・「対象物」
・「定義」
・「受動的態度/能動的態度」「受動性/能動性」
・「機序/目的/態度」
§3 現象的な語彙について
・「注目」「区別」
・「実体による理解」「境界付け」
・「因果性」「因示性」
・存在者的/存在的な語としての「因果律」
・現象的な語としての「因果律」
・現象図式における「因果律」
・現象的な語としての「因示律」
・「無因果性」「無因示性」についての考察
・「因果律」と「客観性」の混同について
・「自然的/歴史的/理念的(な存在/存在者)」
・「自然的(存在者)」について
・「歴史的(存在者)」について
・「理念的(存在者)」について
この記事で『タルパ創造現象の理念的な側面についての諸考察』以前までの、言うなれば「前期タルパ現象論」特有の語彙を取り上げて、今後も研究が続くであろうタルパ現象論の図式(以下、現象図式と称している)との連関を明らかにしておく。
第一部の記述には随所に注釈を付している都合上、かなり読みづらいところもあると思う。何せこれら全ての語の説明には少なくとも2年以上の時間を費やしてしまったため、元から膨大な量のメモ書きが無秩序に並んでいたような有様だったのだ。
これらを順序だてて整然と語れるように最大限努力したが、これ以上の整理はさらに無駄な時間を消費するだけだろう。
第一部章立て
§1 「副体」および「実体」の意義について
§2 存在者的・存在的な語彙について
・「対象物」
・「定義」
・「受動的態度/能動的態度」「受動性/能動性」
・「機序/目的/態度」
§3 現象的な語彙について
・「注目」「区別」
・「実体による理解」「境界付け」
・「因果性」「因示性」
・存在者的/存在的な語としての「因果律」
・現象的な語としての「因果律」
・現象図式における「因果律」
・現象的な語としての「因示律」
・「無因果性」「無因示性」についての考察
・「因果律」と「客観性」の混同について
・「自然的/歴史的/理念的(な存在/存在者)」
・「自然的(存在者)」について
・「歴史的(存在者)」について
・「理念的(存在者)」について
§1 「副体」および「実体」の意義について
・「副体」について
「副体」および「実体」はタルパ治療学にまで遡る古い語彙だが、部分的には『タルパ現象論による「タルパの全体性」の解明(第二部)』まで使用されていた。後に提唱されたいくつかの定義のうち、最も分かりやすいものは『タルパ治療学における実体の解釈のその後』で与えられている。
これらの語がかなりの混乱を含んでいることはタルパ治療学以降の研究を見れば分かる通りだが、だからと言って的確な表現が見つかるわけでもなく、ただ漠然と使用され続けていたのだった。
結局のところ「副体」とは「存在する」と言われるところのもの、そのもののことである。これで副体に関する語彙の混乱はほぼ全て説明できる。
では何故タルパ現象論に至るまで、これほどの回り道をしていたのか?
簡単に言えば、「~が存在する」あるいは「~は~という存在である」という表現に含まれる「存在」という語自体は、決して「副体」を指しているわけではないからだ。
即ち「存在」は「副体」ではない。「~が存在する」という言明において言われているところのものそのものが「副体」だったのだ。この点が完全に見落とされていた。
さらに言えば、この定義(これは厳密に言えば"境界付け"と言いたいが...)からもう一つの重要な意義を取り出すことが出来る。そこで「存在する」と言われているところのものを「志向する」という働きが、「副体」の語には含まれているのである。
ただしこれは「副体」の定義(こちらは厳密な意味での定義)にその働きが含まれていると言っているのではない。「~が存在する」という言明を為すことそのものに、「志向する」という働きが含まれているのである。
以上の説明から、タルパ現象論にとっては「副体の定義」そのものよりも、むしろ「副体」として言明すること/言明されることそのものの方に、より核心的な意義を見出せるということが分かるだろう。
これがタルパ現象論以降に「副体」の語が用いられなくなった理由である。
・「実体」について
「実体」が「副体」とは全く異なった観念だと言うことは分かっていたが、その具体的な表現はやはり混乱している。『タルパ治療学における実体の解釈のその後』に至って、かろうじて「実体」は存在ではなく現象のことだと断じることが出来たものの、そもそもこの時点では存在と現象とを峻別して考察するような研究は困難だった。
そのような意味で初めて実体と副体の区別に成功したのは『タルパ治療学・タルパ機械論の思想の検証』の記事だ。
この記事の§1.2において、「副体」を主語とする「定義」という操作に対して、「実体」を主語とする「理解」という操作を取り出した。これはタルパ現象論における「境界付け」の現象を先取りしたものだったのだ。
そして「実体」の個々の様相としての「態度」に対応して、それぞれの「理解」が与えられてくる。これで「実体」と「副体」の連関については大半の部分を記述することが可能となった。
タルパ現象論の最初の記事である『実体の全体性に向けた問い...タルパ現象論による「自由」の話』では、このように記述される「実体」が果たしてどれほど妥当な現象(厳密に言えば現象論的現象)であるかを考察し、その全体性としての「把握」の現象を取り出した。
そして実際に「把握」からどのような仕組みで「態度」が獲得されてくるかという問題について、それを記述するために考案されたのが『タルパ現象論が導くタルパの存在論についての図式』における「現象図式」なのである。
このように振り返ると、まるで「実体」という観念を支持するためにいくつもの現象を積み重ねているかのように見えるが、不要なのは「実体」の方である。
個々の存在を境界付ける現象が「理解」であり、その理解を与える基準となるものが「態度」であり、ある態度による理解という「現象の全体性(現象論的現象)」が「把握」なのだ。
「実体」という語は、以上の連関を甚だしく混乱して一つの観念としてまとめていたに過ぎない。
また、先の結論に伴って「存在」の語にもこれまで混乱した観念が含まれていたことが明らかとなる。理解されるものと把握されるものという言い方をすれば、それはどちらも「存在」のことだと考えてきたが、そこにはこれまで主題化されてこなかった重大な違いがあったのだ。
そこで理解されるものとしての存在と把握されるものとしての存在をそれぞれ「存在全体」と「存在全体性」と言い換えることにする。これは場当たり的な言い換えなどではない。「存在者の存在論的構成」としての「存在全体性」と「存在全体」をある種の対比のもとで意図的に呼び分けることで無用な混乱を避けられるだろう。
以下の章節では、これらが混同されたために多義性を持っている語がいくつか現れることになる。
ところで、「実体」を把握された存在全体性と理解された存在全体とに適宜置き換えることには、まだある種の問題が残っている。というのも存在全体に基づいた(理解の現象に基づいた)存在者そのものは「実体」の語義には含まれないが、そのような存在者が与えられているという事態は「実体の働き」によるものだと考えなければ他の何によっても説明され得ないように思えるからだ。
この問題は現象図式における「現象論的な現象」から「現象的な現象」が与えられる仕組みについての考察によって解決される。既に研究が進んでいる領域ではあるが、この仕組みに触れるのは諸々の用語の整理が終わった後がいいだろう。
§2 存在的・存在者的な語彙について
§1ではタルパ治療学~前期タルパ現象論を駆け足で振り返ってきたが、その過程でも一時的に用いられた語彙がいくつかある。
その中でも存在的・存在者的な語彙(つまり副体に関する語彙)について、その意義を明らかにしていく。
・「対象物」について
「対象物」とは、おおよそ「~がある」と言われ得るものそのものであるが、その中でも特に前存在論的存在のことだと言える。一見して「副体」と同じように思われるが、こちらはこれといった特定の把握や態度に基づいた理解によらず、ただ何となく存在しているというニュアンスがある。
そもそも特定の理解によらずに「~がある」と言うことは現象論的には(把握に基礎づけられない理解などあり得ないのだから)不可能なのだが、ここでは「~がある」という言明から当の理解の様相を取り出すことが極めて困難であるような事態を考えれば良い。言い換えれば、日常性による頽落を被った作用としての言明において言われているものそのものが「対象物」だと言える。
この「~が極めて困難であるような事態」という表現は今後も出てくるだろうが、これとほぼ同じ意味で使われる。
要するに、日常的に何となく「ある」と言われているものはほぼ全て該当する。「対象物」ではなく「存在論的な存在」と言われる資格があるのは、れっきとした存在論的な説明を受けているもの、そのものだけだ。
似た語彙として「存在者」があるが、こちらは「~が存在する」と言われるものそのものである。ここでの「存在する」は日常的な意義ではなく、本来的な意義で用いられている点に注意。
・「定義」について
「定義」については「~と定義する」と言い換えれば現象的な語彙であるように思われるが、ここでは「~と定義するという言明で言われているもの」と「当の定義そのもの」が同一の対象物であるような場合のことである。
妙な説明だと思われるかもしれないが、§1で「副体」は「存在」ではないとされていたことをよく考えてほしい。「副体」は「存在」から区別されることによって現象論的な語彙だと考えることが出来るのであったが、そうではないような副体(厳密に言えば対象物)を「~がある」と言うことと全く同じ意味で「~と定義する(~が定義される)」と言うような場合がこれに該当する。
何故現象論的な語としての「副体」が「定義」されるものではないのかと言えば、「定義」の語自体は存在者的な語彙だから、というわけである。
無論、「副体」と同様に厳密な現象論的分析を行えば「(現象論的な意味での)定義」という現象を取り出すことは出来る。
ただし気を付けねばならないのは、ここで行われようとしているのは「定義」の「境界付け」であって、「定義」という語の定義では断じて無いということだ。
・「受動的態度/能動的態度」「受動性/能動性」について
これらの語義は『機械論における「受動」と「能動」』で論じられた後に表立って使用される機会は無くなったが、§1で現象図式と関連付けられたように、実際には今でも重要な意義を持っている。
その記事では先に「前機械論的な概念」として「受動的態度/能動的態度」を考察し、そこから二者に共通する「態度」という観念を取り出した後に、態度の「受動性/能動性」を(不完全にではあるが)境界付けたのだった。
前者は日常的な「受動/能動」の観念であり、そこから後者の存在的/存在者的な語彙が取り出された、というわけである。
ところで「受動性/能動性」についても、これを存在的/存在者的な語彙としていることに違和感があるかもしれない。
確かに元の記事でも「理解」という(今となっては)現象的な語に関連付けられてはいるが、しかし全体性としての「把握」はまだ考慮されていないのだ。特に「能動性とは特定の副体によって支持される概念である」という結論から、(これ自体は実体に関係する語彙だと考えられてはいるが)特定の存在や存在者についての語として使用されていることが窺える。
逆にこの「特定の存在や存在者についての態度」という事態に「当の存在や存在者を志向する」という作用を含めるならば、ここから容易に現象的な意味での「態度」を取り出すことが出来る。さらにこの「志向」が「注目」の現象によって境界付けられていることを考えれば、そこには現象論的な意味での「把握」の現象もまた取り出され得る。
ただし、後に論じるように「志向」の現象は「注目」の現象における「注目されているもの」として与えられているから志向し得るというわけではない。また、ある特定の作用が継起されるところの現象と一致するわけでもない。
この項を書き進めていくに従って明らかになったことなのだが、「態度」の語そのものは現象的な意義を持っていると言わざるを得ないようだ。
ここで重要なのは、態度の現象によって与えられてくるところのものはあくまでも「存在的/存在者的な様相」だということだが、その様相自体が「態度」であるわけではないのだ。
これらの語の関係は「存在」が「副体」そのものではなかったことと類似している。
ただこの2つの語の場合は「存在」と「存在者(あるいは対象物)」の関係であったのに対して、「態度」と「存在的/存在者的な様相」の場合は「現象」と「存在」の関係である点に注意。
この帰結は現象図式にとってかなり重要な意味を持っている。
というのも、これまで表立ってその関係が語られてこなかった「現象」と「存在」の間を「態度」が橋渡ししていると考えられるようになったからだ。
ただしこの語が「現象論」と「存在論」を橋渡ししているのだと考えるのは早計だろう。これが言えるかどうかは、以上の考察とは別の問題である。
では「受動性/能動性」は現象図式に対してどのような連関を持っているのか?
その記事で「態度」が変化するか否かについて論じていたことについて、現在のタルパ現象論に基づいて考えると、ある特定の作用が「把握」を継起させるか否かが主題になっていると言っても良いかもしれない。しかしながら、態度について単にある特定の作用が把握を継起させるか否かが主題であると説明してしまうと、まるで先の「注目」と関連付けた考察と表面的には矛盾しているように見える。
この言い方において既に与えられている存在全体性の把握が特定の作用を「継起させる」という事態と、態度の能動性が(注目の現象によって)特定の作用を「継起させる」という事態が混同されているのだから、ここでの2つの「継起」にはそれぞれ別の語を当てるべきだろう。
そこで前者の事態はこれまで通り「作用が継起される」と言うが、後者は今のところ「作用が作動される」と言うのが妥当だと思っている。ただし、以上の混同に気づいたのは割と最近の話なので、今後しばらくは「作動」の語は出てこない。
ちなみに前者ではなく後者の方を言い換える理由は二つある。
一つは、作用が生じる/与えられることの原因は前者では現象図式のみに還元されるが、後者では現象図式で表立って表現されない「態度の現象」を考慮せねばならないからだ。
もう一つは、前者における特定の作用が後者のそれを継起させるという言い方は明らかに誤りだが、逆に後者において継起した特定の作用が(それ自体が何らかの存在全体性の把握として与えられることによって)さらに別の作用を前者のとおりに継起させるという言い方は出来るように思われるからだ。
ところが両者の「作用」は現象論的な構造としては全く同一なのだから、それが生じる/与えられるという意味で「作用が○○される」と言われる場合にこそ何らかの区別をつけねばならないことになる。そこで現象図式の構造だけから表現される前者を「作用が継起される」ということにして、後者は「作用が作動される」と言うことにした、というわけである。
こうすることで「継起された作用から作動された作用」という言い方は出来ないが、他方で「作動された作用から継起した作用」という言い方は出来ることになる。
いずれ然るべき場所で論じるだろうが、「作動」はこれまで「実体の働き」と呼ばれていた現象について、現象論的な還元を試みた結果として得られた現象のうちの一つである。
だからここで「能動的/受動的」と言われているところのものは明らかに「実体の働き」の一部を指しているのだが、この事実は以下の(ちょっと古臭い)考察によっても導ける。
把握が継起されない(再把握が起こらない)ということは今の把握に基づいた理解に終始しているのであり、まさにこの意味において「受動的」なのである。ただしここで受動的だと言われているのは「態度」ではなく、その全体性としての「把握」の方だ。
「態度」はあくまでも「理解」の基準を与えているだけである。言い換えればある特定の作用によって境界付けられる存在全体を与えているに過ぎない。
そして、把握が継起され得る(再把握され得る)場合における当の把握が「能動的」と呼ばれるところのものである。「再把握」と言えばタルパ消滅現象を境界付けている現象だったが、それは当の把握が能動的であっても起こり得るとされていたのも、この説明によれば明らかだろう。
一方で、これらの現象が取り出されてきたところの「受動的態度/能動的態度」の方はどうだろうか?今になって思えばこのような語を使ったこと自体が混乱を招きかねないと分かるのだが、あくまでもこれらの語は日常的な(つまり混乱した)観念であることに注意したい。
先の記事で「受動的態度には受動性も能動性も定義されない」と結論付けたことを考えると、そもそも「把握」という現象が起こり得るような場合の態度が「能動的態度」だと言われているのだろう。無論、厳密に言えば「理解」の現象に伴ってそれなりの「把握」が常に行われているのであって、その意味で完全な「受動的態度」というのは現象論的にあり得ない。だからここでは当の対象物に全く関心を向けていない、つまり理解の現象を基礎づけるところの注目の現象が起きておらず、しかも他の対象物に「注目されていないもの」として内在しているわけでもない、即ち完全に視野に入っていないような事態として考えるしかないのである。
ここで現象図式における「態度」の語が持つ意義を再確認しておく。
以上で論じたように「態度」は「理解」の現象に関係しているが、「理解」そのものではないし、ある特殊な意義を持った理解でもない。一方で「把握」そのものというわけでもない。
再把握としての把握について「受動的/能動的」ということが言われているのであり、そのような把握に基づいた「理解」という現象についても「受動的/能動的」ということが言われ得るのである。即ち、その「受動/能動」という意義を与えているところの現象が「態度」なのだ。
「態度」という語を用いると何やら静的な印象を受けるから存在的/存在者的な状態を意味する語のように思える(実際僕もこの章節を書き進めるまではそう思っていた)が、これは明確に現象的な語義を持っていることが分かる。
この語はある意味で「把握」と「理解」の中間に当たると言えるが、「ある意味で」が何を意味しているかを取り違えてはならない。
存在者の存在全体(としての存在的存在)が与えられる現象が「理解」であり、その存在全体性(としての存在論的存在)が与えられる現象が「把握」である。
それにしても、この当の存在的存在はどのような様相のもとで実際に与えられているのだろうか?この問い方で重要なのは、どのような「様相のもとで」と表現していることである。「様相として」ではない。
なぜ「理解」の場合にそう問われ得るのかと言えば、それが存在者の与えられ方を基礎づけているはずだと考えねばならないからだ。
例えば、理解と把握の図式だけでは「存在者の存在様相についての否定」のような言明がそもそも如何にして為され得るのかという疑問は解決されない。ここで与えられているのは当の存在全体そのものでしかないのだから、これは当然の話だ。
そこで暗に仮定されてしまっている(そして完全に事態を見誤っている)のは、「存在者」という語に対して用いられる「存在(存在的)」という語の意義があらゆる場合に全く一様である、ということである。
誤解を恐れずに平易な言葉で説明するならば、「存在論的」の語が用いられる場合はそれに含まれる「普遍性」によって、「実際の」与えられ方が問題になることはないのである。言明でも問いでも何でもよいが、その中に現れる諸々の語の「普遍性」が「実際にどのように」という変容を被ることは全くあり得ないからだ。そうだからこそ、諸々の語をそれぞれ他の語に置き換えて考えてみる(言明や問いを為すことを試みる)考察などの行為が実際に可能なのである。
以上の考察を顧みれば、「態度」が理解や把握の現象に対してもっている意義を取り違えることはないだろう。
「態度」の日常的な現れ方としての「受動的態度/能動的態度」がまず主題となったのも、本来的には「存在全体性の存在論的な与えられ方」に対して「存在全体の存在的な与えられ方」が「日常的な文脈においてさえ」明確に被っているところの「変容」が容易に主題となり得たからだと言える。
さて、これまで見てきたように「態度」の語は明らかに現象的な意義を持っている語なのだが、後でもう一度考察すべき問題が残っている。『タルパ現象論による「タルパの全体性」の解明(第一部)』§1.2で最初に用いられた「態度の変化」という表現があるが、これは一体どんな事態を表しているのだろうか?
確かに「態度」は現象的な語なのだから、それに対して「変化」という語を重ねること自体が問題なのではない。そうではなく、「態度」そのものの変化(ある態度によって変容された存在者の存在様相の変化ではない!)という現象は、その意義からして「把握」の現象と何かしらの連関があるに違いないからだ。
現状ではこの問題についての詳細な研究を行えるほどの余裕は無いのだが、おそらく「態度の変化」の現象には「現象論的時間」が日常的な、しかしそれなりに明確な変容を被った観念が含まれているはずだ。
・「機序/目的/態度」について
「機序」は実体の普遍的な働きのことを指しており、より具体的には「選択的機序」「固有的機序」「因果的機序」に分かれていた。
「選択的機序」は実体の観念を応用するにあたって、その特殊な働きが一切制限されないような場合を指している。即ちこれは§1で説明された「実体」の働きそのもののことである。
「固有的機序」は実体の働きがある特定の副体によって制限されるような場合のことで、主に「あるタルパについての副体」を中心に考察したい場合などに持ち出されていた。厳密に言えば、「ある特定の把握」における「ある特定の理解」のみを考慮すれば良いという場合である。
「因果的機序」は固有的機序と似てはいるが、こちらは把握の継起が起こり得ない場合に限定されている。つまり実体の受動的態度のみを考慮するような場合である。
この説明だけでは「選択的機序」は「固有的機序/因果的機序」あるいは「実体の現象的な働き一般」を含んだ広義の語(≒実体)であるように思えるが、その「実体の特殊な働きが一切制限されない」とは「本来的な否かを問わず、任意の把握や理解が既に与えられている」という仮定を置くことを意味しているのであって、「固有的機序/因果的機序」の意義と重なるわけではない。無論、実体の働きについて現象的な意義だけを考えた場合にも一致しない。
何故このような仮定が(まずタルパ機械論において)必要になったかと言えば、そこでは主題となる存在者(あるいは対象物)が如何にして与えられているかの問題は差し当たり保留されているのだが、当の存在者が既に与えられてあるという現象的な意義だけはどうしても何かしらの方法で説明されねばならなかったからだ。そうでなければ、選択的機序に基づいた考察は現実の事態とは全く関係のない宙づりの考察でしかないことになる。
このような事態を現象図式に当てはめるならば、任意の現象についてそれを説明する作用は既に明らかであると仮定することを意味する。より厳密に言えば、その説明は既に単一の作用に還元されているのであり、それ以外の日常的な(頽落した/混乱した)意義は全く含まれていない、という仮定を意味する。
編集注:
ここまで何度か「既に」を強調しているとおり、重要なのはまさにこの点である。
というのも、何らかの言明において「ある存在者(タルパなど)がいる」のように主張される場合における当の所与性は「未だ適当な還元を受けていないが」という形で差し当たり保留されているだけなのだが、「選択的機序」においてそう仮定される場合は当の存在者が「どんな理由でなのかは全く分からないが」「それは疑う余地もなく」既に所与のものである、と考えられているからだ。
言い換えれば「選択的機序」は当の所与性を棚に上げて考察しているとも言える。悪い意味ではなく、それが何故なのか分からないからとりあえずそうするしかない、という意図によって。
ただこれはタルパ機械論において現れる特殊な考察の手法というわけではなく、むしろ大抵のタルパに関する考察において何らかの形で「選択的機序」が仮定されていると言っていい。心理学的に、魔術的に、あるいは原義通りチベット仏教の解釈に基づいてタルパというものが考えられる場合、それが「そのように解釈できるような形で既に与えられてあるのは何故か」という問題は忘れ去られているか、もはや当然のことだと考えられているわけである。
ただし「~が既に与えられているという仮定を置く」ということは、それが日常的な(混乱した)事態/存在/現象としての主題であるという仮定を指しているわけではない。そもそもそのような意義が説明の主題になること自体が現象論的にあり得ない。
正しくは、そのような日常的な(混乱した)事態が「それ自体として説明される事態/存在/現象である」という変容を被ったうえで「ある一つの主題」として説明されると仮定する、ということを意味している。明らかなことだが、それがそれ自体として説明されるような「具体的な(より厳密に言えば、構成可能な/構成的な)作用」までもが常に与えられているとは限らない。むしろほとんどの場合はそうではないはずだ。即ち、そのような日常的な(混乱した)事態が還元されるところの把握や理解までもが与えられているわけではない。
タルパに関する選択的機序による考察を内包し得る種々の理論や考え方は、まさにこの「ある把握や理解までもが常に与えられているわけではない」ことによって最初からある種の限界を持たざるを得ない。タルパ機械論はただそれが比較的明瞭に問われることが出来ただけだ。
重要なのは、そのような把握や理解が全く任意に与えられ得るという仮定そのもののうちに「現実の事態を徹底的に誤解している」ということである。それがタルパ現象論における「自由」についての考察として明確に問われるに至ったのである。
このような事情を考えれば、あらゆる日常的な言明/問いにとって、それが現象図式における単一の作用に還元されることは全く自明でないと言える。このことは『タルパ創造現象の区別についての諸考察』などを見れば明らかだろう。またこの記事で扱ってきた重要な用語ですら、その現象論的な還元にはこれまで見てきたような困難が伴うのである。
いま「単一の作用に還元されることは全く自明でない」と言ったが、そもそも厳密にはある単一の言明が「現象論的に」「ある単一の作用としてのみ」生じるという事態は全くあり得ないと言えることに注意を向けておく。何故ならば、現象図式に基づいてある作用が与えられているならば、その作用において「説明するものとしての因子」「説明されるものとしての因子」もまた必然的に与えられているのであって、この表現によって当の作用が他の作用から継起される可能性は常に保証されているはずだからだ。
だからここでの「単一の~」の表現には「当の作用が言明の日常性としての混乱のために、その作用によって説明されるところの存在全体性/存在全体がもはや主題となり得ないような~」というニュアンスが含まれていると考えねばならない。
この表現は当記事§3の「自然的存在者」の項でもう一度出てくることになるが、この「もはや主題となり得ないような」という表現は「タルパの存在が差し当たり現象論的な還元を全く受けていない」という至極日常的な事態を的確に言い表していて、さらに言えば「当の存在はそれでも常に現象論的な還元を受ける可能性だけは残されている」という当然の事実をも含意しているのである。
ところで、この「~はもはや主題となり得ない」「~は差し当たり現象論的な還元を全く受けていない」という表現は「~が再把握として与えられた存在全体性に基づく存在として言明され得ない」という表現にも言い換えられる。
この表現はこれまで表立って使われたわけではないが、『タルパ現象論による「タルパの全体性」の解明(第二部)』での「再把握がタルパ消滅現象を境界付けている」という帰結に暗に含まれている。というのも、「いま与えられている把握とは別の把握によって与えられる存在全体性としては言明され得ない」という事態はまさしく「自然的存在者にとってタルパ消滅現象は言明され得ない」という事態を言い表しているからだ。
そして以上に述べたことが「正しくは、そのような日常的な~」と説明されている仮定の真の意義なのである。
このように考えれば、「選択的機序」が実体の現象的な働き一般に一致しないのは当然だということが分かるだろう。
「目的」は実体の働きに対して応用上の意義が見出される場合の別名であり、ほぼ必然的に実体の「能動的態度」が主題となっている。
『タルパ機械論用語目録』では「実体によって副体の理解が方向付けられる」ような場合を主題とする場合の実体の働きのことと書かれているが、既に「理解」という現象に「対象物に対する方向付け」という現象が含まれているのだから、実体のある特定の働きが「目的」とされているわけではない。
そもそも「能動的態度」という日常的な観念に実体の「受動性/能動性」が含まれているのだから、「受動的態度」は実体の観念に還元され得ないことと同じように、「目的」にも還元され得ない。
以上の説明には依然として曖昧な表現が使われているのだが、「機序」「目的」という語自体が「実体」についての観念であると(わりと明確に)考えられているにも関わらず、現象的な語としてのニュアンスをほぼ全く含んでいないため、それらの語義に整合する説明を付することが最初から困難なのである。
「態度」については既に説明した通りなので省略する。
§3 現象的な語彙について
・「注目」「区別」について
タルパ現象論の展開に先立って、『機械論における「受動」と「能動」』の§4で「注目」や「区別」の現象を考察していた。これらの語は「実体」を先に説明した「目的」だと考えた上で、どのようにして機械論的な目的が獲得されるのかを説明するための語であった。
だがこの「機械論的な」の語を「現象論的な」と読み替えても、この表現は明らかに誤りである。
ここで「注目」や「区別」が正しく現象論的に境界付けられているとしても、それらはあくまでも存在に対して「与えられるもの」なのだから、ここから獲得されてくる「目的」は「現象的な目的」と言わねばならない。
ただし、これが実体の働きの中でも「目的」に対応するものであるという点は合っていると言えるだろう。「目的」とは実体の能動的態度による働き、即ち「(現象論的な意味での)理解」のことだから、たしかに「受動的態度が獲得されてくる現象は注目や区別からは与えられ得ない」という事態を正しく捉えていることが分かる。
そもそも「現象論的な受動的態度の獲得」という事態自体があり得ないのだが、ここで「注目」や「区別」の働きを「目的の獲得」に限定しているのは、まさにこの「現象論的にあり得ない現象」を現象的な方法で排除できているのである。
そして当の「注目」や「区別」の語は先の記事で「注目すること」「区別すること」として動詞的に使用されていることから分かるとおり、存在者的/存在的な語彙ではなく現象的な語彙として用いられている。
これらが「現象的」であるというのも、確かに「目的」は現象論的な意味での「理解」のことだと考えられてはいるが、ここで獲得されてくる「理解」はあくまでも特定の対象物がその契機となっているからだ。
・「実体による理解」「境界付け」について
「実体による理解」の表現については§1で既に触れているため省略する。
「境界付け」もほぼ同様の意義を持つ語であるが、こちらは「理解されるところの存在(存在全体)」の方を強く志向した表現だと言える。
この語が最初に用いられたのは『実体の全体性に向けた問い...タルパ現象論による「自由」の話』§3での「境界が与えられる」という表現においてであり、後に『タルパ現象論による「タルパの全体性」の解明(第一部)』§2において「境界付け」という語となった。
前者では「把握の様態によって」境界が与えられるとされており、後者では「タルパを理解する態度を把握するという現象の形式によってその境界が定められる」のような明確な表現に変わっている。
厳密に言えば、「把握」によって「境界付け」が直接に与えられると考えるのは誤りである。
「境界付け」を「定義」と対応させているように、「境界付け」もまた明確な存在全体(存在者や対象物ではない!)を志向している。一方で「把握」はあくまでも現象論的な現象なのだから、ここからある特定の現象としての「境界付け」が与えられるわけがない。
「把握」によって与えられるのは実際には「存在全体性」なのである。そこから「境界付け」を得るためには、「ある特定の態度による理解」という現象的な現象が必要だ。
従って、「境界付け」と「理解」に文脈によって異なる意義を与えるとしたら、それらの主題に「ある特定の態度による」という現象的な意義が含まれているか否かにあると言える。含まれていればそれは「境界付け」であり、そうでなければ「理解」となる。
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