明確になった問題は共有される。共有された問題は議論される。議論された問題は無害化される。
§3 現象的な語彙について
・「因果性」「因示性」について
「因果性」と「因示性」は『実体の全体性に向けた問い...タルパ現象論による「自由」の話』で全体性としての「把握」を考察する際に持ち出された観念であるが、この時点ではかなり混乱した説明になってしまっている。
一見して「因果的機序」に関連付けることができるように思われるが、「因示性」の方は因果性によっては説明され得ない「行為」を含んでいるために、単に受動的態度には還元し得ない。実際、因示律に従う現象は「能動的態度」の働きによって現象的に獲得されていると先の記事では考えていた。
同じ記事で使用されていた「無因果性」「無因示性」についても注目すべきだ。これらの語は「ある現象が無因果性/無因示性を持つ」と表現されているのだから、現象的な語であることは確かだと言える。
しかし「無因果性」の方は「副体的な原因を持たない」というように存在者的/存在的な語としての意義も含んでいるし、その直後に「ある現象が無因示性を持つならば、必然的に無因果性を持つと言える」「ある現象が無因果性を持つ場合でも、因示性を持つことがあり得る」と言ったように、ある意味で非対称的な使われ方もしている。
「アナロジー」による「因果律と因示律の混同」にもやはり注目すべきだろう。日常的な文脈で因果律と因示律が混同され得るということは、実際に混同することが可能な程度には「同一の現象に関係している」はずだと言わねばならない。
そこで先の記事の§2.1では、因果性について「原因と結果」を、因示性について「原因と示されるもの」を当てはめていた。このうち「結果」と「示されるもの」がどちらも副体であることによって、言明そのものを介して――言明することではなく、言明そのものを介して!――そのようなアナロジーが成り立ち得るのだと説明されていたのである。
この事実は後に第二部で考察されるであろう「二重性の頽落」という現象を説明するための重要なヒントとなるから「言明そのもの」という表現を強調しているが、差し当たり以下に続く考察ではそこまで重要な表現ではない。
ただここで「混同」と言われていることが直ちに「誤り」を意味するわけではない、という点に注意を向けておく。
ここまで説明した語義を鑑みるに、「因果律/因示律」には「存在者的/存在的な語義」と「現象的な語義」が混在しているのだと言える。
以下ではタルパ現象論におけるそれぞれの語義を検証する。
・存在者的/存在的な語としての「因果律」
「因果律」の存在者的/存在的な意義としては、特定の副体間について「ある副体の様相が別のある副体の様相に影響を与える」とでも言えるような事態が考えられている。ただこれが「因果律」と呼ばれるのは、このような連関が必然的であるような場合だ。
即ち、ここではある副体(の様相)が別のある副体(の様相)に「含まれる」という関係だけが主題となっている。
別の言い方をすれば、それぞれの副体の「共時的存在様相」だけが主題となっているわけだが、「通時性」についてもそれが「存在者の存在様相」に還元されると見なされる限りでの「通時的存在様相」として主題化され得る。
物理学的な意味での「時間」や日常的な語としての「因果性」はこれに当てはまる。
・現象的な語としての「因果律」
先の場合はいわゆる「共時的存在様相」が主題だったが、現象的な語義では「共時的存在」および「通時的存在様相」一般が主題となる。
存在者的/存在的な語としての「因果律」とは異なり、「存在者の存在様相」に還元されないような場合、言い換えれば「ある個別の現象の理解」によってはじめて当の「存在者の存在についての言明可能性」として与えられる場合も含んでいることになる。
・現象図式における「因果律」
前期タルパ現象論までに使用される「因果律(因果関係)」の語義には含まれないが、現象論的な語としての「因果律」を考えることは可能だろうか?
先に現象的な語としての「因果律」に対してどのような境界付けが成されるかを考えてみよう。明らかに、その語義には「ある個別の現象」の理解が含まれているのだから、少なくとも「理解」の現象によって直接に境界付けられるという言い方は出来るはずだと言わねばならない。
ただし、厳密にそのような言い方をするならば、同様の境界付けを持つ語の全てに対して「因果律」という語義が(混乱しているにせよ注目されていないにせよ)含まれているのだと言わねばならない。
「因果律」の語によほど歪んだ語義を与えるのでもない限り、この結論はまったく受け入れられないだろう。
「存在者の存在様相」に還元される「因果律」の語義を考えれば、ある存在様相に対して「それと等価な様相」と「それと等価でない様相」が同時に含まれることは、これが存在様相についての語であるから当然のことだがあり得ない。
こういう図式が成り立っているからこそ、素朴な意味での「因果関係がある」という言い方が出来る一方で「因果関係がない」と言うことも出来るのである。
しかし「理解」の現象に還元される「因果律」の語義にはそのような場合も含まれると考えねばならないのである。
実際にはそれどころか、「理解」の現象には「現に○○である」「ただなんとなく○○である」のような事態も含んでいるのだから、そのような現象に対して「因果律」という語を用いることはもはや不適当だろう。
以上で考察したように、「因果律」の語義は現象論的現象に還元されるわけではなく、多少は(実際には相当な)頽落的な意義を含んでいる。
それでは、「因果律」には含まれないが「理解」の現象に還元されるような事態に対して、どんな語を与えれば良いだろうか?
実際の研究の順序としてはこのような分かりやすい経緯を辿ったわけではないが、まさしく「因示律」の語はそのような事態をより明確に考察するための道具として持ち出されたのである。
・現象的な語としての「因示律」
「因示律」の語義は最初から「理解」の現象によって直接に境界付けられていたのだが、その中でも特に「因果律」に還元され得ないような「現象の傾向」とでも言うべき事態を説明している。
これはつまり「因果律」に従わないような現象があり得ることを意味しているが、実際に人間の「行為」が部分的に因果律に従わないようにみえるという事態から着想を得たのだった。
『実体の全体性に向けた問い...タルパ現象論による「自由」の話』の§2では「ある実体が行為の主体となるとき、対象物を<理解>する何かしらの<方向性>を持っていることを自らの実体に内包しているはずである」と結論付けている。ここでの「理解」はまだ明確に現象的な語として使われているわけではないが、そこから「対象物に対する方向付け」という現象的な語義が容易に取り出され得る。
重要なのは、その「方向性」が対象物に含まれているために「方向付けられる」のではなく、「理解」という現象に「方向付け」という働きが含まれているために「対象物が方向付けられる」ということだ。
即ち「因果律」と「因示律」において説明される当の「存在者」には何ら存在的な差異は無いのである。そして、これが「因果律」と「因示律」のアナロジーが実際に可能であることの決定的な根拠である。
ところで、この「現象の傾向」の語における「傾向」は現象図式における「傾向的作用」の語義とは異なる。この「傾向」が(現象的な意味での)「理解」としてではなく「傾向としか言いようのない謎の事態」という意義を持っているのは、当の言明が以下のような変容を被っているためである。
①「作動」「固定」という現象系列が差し当たり無視されている。
②現象論的には当の言明が本来的に持っているはずの「作用」としての意義(存在系列)が差し当たり無視されている。
③あるいは当の言明が混乱しているためにそれらの意義がもはや主題となり得ない。
「傾向的作用」に還元される限りでの「傾向」の語義はこのうち①に当たる。より正確には、その一部に当たる。おそらく第二部で考察されるだろうが、既存の現象図式は実際には「固定」の様相を説明していることからそう言えると分かる。
②は現象ではなく存在全体について注目する場合に当たる。つまり当の言明で説明されているところの存在全体の理解が明確な図式のもとで表現されてはいないような場合である。
③は文字通りの意味で、そもそも言明の意義を以上のような「固定の様相」「存在全体の理解」に還元すること自体が困難であるような事態を指している。とは言え、ここから考察を進めて厳密な還元を試みるなら結局は①か②のどちらかが原因だということになるだろう。
・「無因果性」「無因示性」についての考察
「自由」の語と対をなすであろう「因果性」と「因示性」を考察してきたのだから、これらの否定としての「無因果性」と「無因示性」を「自由」と対比させる考察に進むのは自然な流れと言える。
一見して「因果律」と「因示律」における「原因」には同じ語を当てているのだから、その否定からは「原因が無い」という事態が同一の現象的現象として取り出されるはずだ。
しかし実際に取り出されたそれぞれの事態からは「副体的な原因が無いという事態」と「実体的な原因が無いという事態」という明確な差異を指摘できる。何故ならば、「因果性」における「原因」はあくまでも副体に過ぎないが、「因示性」における「原因」はそうとは限らないからだ。
そして、この違いこそ当のアナロジーにおいて不当にも混同されているところのものなのである。しかもこの意味において原因が混同されていることは、結果が混同されていることの陰に完全に隠れてしまっている。
何故「結果が混同されていること」の方が隠れてしまうのか?
すぐ後で考察するが、ここで「原因」「結果」と言われているものは明らかに「説明するところのもの」「説明されるところのもの」に対応する。
ここで「説明されるところのもの」が結局は当の言明(もっと一般的には作用)によって与えられるものであり、大抵の場合は当然のようにこれが当の言明における主題として考えられていることになる。
編集注:
では「説明するところのもの」が「混同される」とはどういうことか?
「副体的な原因が無いという事態」に関しては当の言明においても主題となり得るが、しかしあらゆる原因が主題になり得るかと言えば決してそうではない、というのが以下の考察の趣旨である。
もう少し考察を進めてみよう。
ここでの「副体的な原因が無いという事態」と「実体的な原因が無いという事態」という明確な差異は次のような図式のもとでの説明であることに注意せねばならない。
即ち、現象図式においてあらゆる言明には「説明するところのもの」と「説明されるところのもの」という「存在全体に関する普遍的な様相」がそこから与えられてくる、という図式が成り立っている。
ただし後になって考えるに「現象図式において」「存在全体に関する普遍的な様相が」「説明する/されるところのもの」という一連の説明はあまり正確ではない気がしている。
というのも、これまで使われてきた「現象図式」の語義は把握の全体性のことだと言っているにも拘らず(それでいて態度も考慮せずに)「存在全体」がいきなり与えられる、と言っているように見えるからだ。
この問題は「現象的な語としての因示律」の項で示したように第二部で取り組む予定だから深入りはしないでおくが、「把握の全体性」の還元を試みることは現象図式を持ち出すだけでは不十分ではないか、という明確な問いが生じているのだ。
もっとも、直接的な問題は現象図式に「自由」「喚起」が一切現れないという分かりやすい理由から来ているんだが。
さて、ここで「原因」という語の日常的な語義を考えるなら、先の段落にある「その否定からは~として取り出されるはず」という説明は、厳密に言えば「前者(因果律/因示律における原因)についての言明可能性を否定することで後者(原因が無いという事態)についての言明可能性も同じように否定されるはずだ」という図式が「副体的な/実体的な原因」のどちらについても成り立つということが期待されている。
しかしこれは明らかに誤りだ。
副体的な原因については確かに「説明するところのものの存在全体」は「説明されるところのものの存在全体」を含意しているのだから、期待された事態のとおりの図式が成り立っている。
しかし実体的な原因についてはこのような「含意」という図式が成り立つとは限らない。
何故そう言えるのか。ここで「受動性/能動性」についての項での以下の対比を考えてほしい。
・「既に与えられている存在全体性の把握が特定の作用を継起させる」という事態
・「態度の能動性が(注目の現象によって)特定の作用を継起させる」という事態
この2つの事態について、前者では「既に与えられている存在全体性」から与えられるところの存在全体を考える限りにおいては「含意」という図式が成り立っていると言えるが、前者で「把握(存在全体性)が作用を継起させる」という現象論的な図式を考える場合、あるいはそもそも後者を考えている場合では「含意」は全く成り立たないと言えるからだ。
このことは先の引用箇所に続く以下の記述を考えても、やはり同じことが言えるだろう。
「作用が生じる/与えられることの原因」は前者(先の対比における前者の事態)では現象図式のみに還元されるが、後者では現象図式で表立って表現されない「態度の現象」を考慮せねばならない。そこで前者はそのまま「作用」と呼び、後者は「作動」と言い換えることにしたのだった。
ただし、前者が「作用」と呼ばれるのは(そもそも前者の説明のうちに作用の語が出てくるのだから)本来的な語義においてではないと言える点に注意。
前者がそのまま「作用」と呼ばれるのは実のところ「喚起としての継起においてはある存在全体性の把握が与えられていなければならない」という図式における「把握が与えられて~」の説明から来ている。
把握が与えられているということは、これに基づく何らかの作用が与えられているということをも意味しているから、前者に限って「作用」の語を使っても良いだろう、というのが「受動性/能動性について」の項で意図していたことだろう。
しかし後者ではそのような作用が差し当たり与えられていないのだから、これを前者と合わせて「作用」と呼んでしまうと語義が混乱してしまう。
そこで後者の方に「作動」という別の語を当てたわけである。
だが「自由」「喚起」はともに把握の全体性についての語なのだから、前者に「作動」という意義が全くないというわけではない。あくまでもここでは「把握の所与性」の方が強調されていて、「作動」としての意義がそれに覆い隠されている、というだけに過ぎない。
最初に挙げた「当のアナロジーにおいて不当にも混同されているところのもの」とは、元を辿れば以上の考察での前者と後者の混同にほかならない。
だから「~ということが期待されている」のが誤りであるのは、この不当な混同の結果だと言えるわけである。
...ただし、もしかするとこの混同は不当ではないかもしれない。後に考察されるであろう「頽落」が生じる仕組みとして、この混同が一役買っているかもしれないのだ。
話が大きくそれてしまうが、ここから第二部の内容につながる重要な考察を展開する。
「頽落」とは現象学の用語で、存在(存在全体)の本来的な理解から非本来的な「日常性(日常的な理解)」が与えられる現象のことだ。これまで重大に扱ってはいなかったが、タルパ現象論にとって当然ながら重要な概念である。
日常性を頽落によって説明するならば当然ながらその「頽落」が与えられる仕組みがあることになるが、それは本来的な理解のうちに含まれているとは言えない。かと言って、全く別のところから何らかの理由で間違って与えられてくるわけでもない。
日常的な理解と言っても、それが説明するところの存在は本来的な理解にある程度は重なっていると言わねばならないはずだ。そうでなければそれが「(本来的な理解に対して)日常的な理解」と言われること自体がそもそも不可能ではないか。
だが、これまで考察してきた因果性に関する(実際にはもっと根本的な理由から生じている)アナロジーが頽落を引き起こしているのだとしたら、そのような本来的な理解との関係をよく説明できるのではないか?
というのも、この項で最初に言った「言明することではなく言明そのものを介してそのようなアナロジーが成り立ち得る」という事実が、まさに「本来的な」と「日常的な」の違いを浮き彫りにしていると言えるのだ。
一体どういうことか?ここでこの記事の一番最初に取り上げた「副体」についての以下の結論を思い出してほしい。
タルパ現象論にとっては「副体の定義」そのものよりも、むしろ「副体」として「言明すること/言明されること」そのものの方に、より核心的な意義を見出せるまた、§2「定義」の項での以下の説明も引用しておく。
「~と定義するという言明で言われているもの」と「当の定義そのもの」が同一の対象物であるような場合のことである
この2つの文から直ちに以下の結論が得られるだろう。
・「本来的な理解」とは「当の言明」における「言明すること」という現象として与えられる。
・「日常的な理解」とは「当の言明」における「言明そのもの」という存在として与えられる。
与えられているものが「現象」ならば「それが何であるか」の説明がある特定の存在を志向可能であることは自明でないが、「存在」が与えられているならば自明だと言えるから、そういう意味でここで「個別化」なる現象が生じることになる。
ただしこれは現象的な意義に過ぎず、「個別化」の語の現象論的な意義はおそらく後で詳細に説明するであろう「現象系列」「存在系列」という、現象図式についての考察から得られた重要な図式を先に説明する必要があるだろう。
これが「本来的な」と「日常的な」の差異なのであり、「言明そのもの」という表現の意義もこれで明らかとなっただろう。
そう考えると「日常的な理解によって存在が与えられる」ことは決して誤った還元を意味するわけではなく、むしろこういう仕組みで存在が与えられることが可能であるということは、当の存在のある種の個別化が与えられることの図式的な説明として成り立っているとすら言えるのではないだろうか?
話が大きくそれてしまったが、以上の考察から「因果律に従っているわけではないが、ある一定の方向付けがなされているような現象」という日常的な意味での現象が「因示律に従う現象」という現象的現象に還元されることになる。
実際のところ、「因示律」は「現象図式に基づく理解の現象」をかなり混乱して捉えている。言い換えれば「把握されるところの存在全体性」と「理解されるところの存在全体」の違いを未だ明確には考察できていないと言えるのだが、それは以降のタルパ現象論の研究考察記事で取り組まれることになる。
・「因果律」と「客観性」の混同について
ここまでの考察から導かれる結論として特に重要なのが、「因果律」と「客観性」の混同もまた説明され得るということである。
ふつう「因果律に従う物体(あるいは出来事)」などと言う場合、そこには暗に「物体(出来事)の客観性」が仮定されている。「客観性を持たないが因果律に従うような~」などのような説明は、少なくとも日常的な事態としては考えられ得ないと言っていいだろう。
ここで「出来事」と言っているのは、あくまでも日常的な事態のことを指しているにすぎない。一見して「物体」と「出来事」を同列に並べることは出来ないように思えるが、ここでは当の語義がそれを「同一のカテゴリーのもとで」説明してしまうほど混乱している場合を考えている。
ただし当の語義をある程度まで明瞭に還元できたとしても、この種の混乱はまだ完全には避けられていない。
だがこの2つの語が何らかの意味で関連しているということは全く自明でない。「因果律」は存在者の性質の一つとは考えられない一方で、「客観性」は存在者の性質として説明され得るという顕著な違いがあるように思えるからだ。
もう少し厳密な表現を使えば、「因果律」は「存在者が存在する」という現象についての何らかの性質と考えられる一方で、「客観性」は「存在者の存在そのもの」という存在についての何らかの性質だと考えられるという違いがあるように思えるのだ。
ここで前者の「という現象」を鉤括弧の外に出しているのは明確な意図あってのことだ。もし「因果律」を単に「~という現象についての~」と説明するならば、前者の「~という」の表現はある種の普遍化を含意することになるのだから、前者と後者には「現象と存在」という非常に分かりやすい対比があるということになり、そこから容易に「先の顕著な違いはそれぞれ説明されるところのものが現象か存在かという差異に還元される」と結論されるだろう。
編集注:
以下の内容はその次の段落での考察に向けた注釈である。
現象と存在の対比の意義は既に前項で語られているとおり、「本来性」と「日常性(非本来性)」に還元される。
だからここで言う「分かりやすい対比」はこのような対比ではなく、単に「理解された限りにおける存在全体性(存在全体ではない)」についての現象と存在の対比を考えている。
ではここでの対比における「現象」の様相が「因果律」であり、「存在」の様相が「客観性」である、言ってもいいだろうか?
もしそう言えるなら「日常的な言明」において説明されるところのものは何らかの意味で「客観的な」という様相を持っていなければならないことになるが、一見してこの結論は間違っているように思える。
ただしそれが「ある存在者が与えられてある限りにおける存在の様相」なのだと考えれば、当の存在についての言明が「他者からも与えられ得る」などと言う事態は(当の存在の与えられ方がここで前提されている理解の現象以外にはあり得ない以上は)排除されるのだから、確かにある意味でそこには日常的な意味での「客観性」が成り立っているとも言える。
そのように考えるならば、先の還元(「先の顕著な違いはそれぞれ説明されるところのものが現象か存在かという差異に還元される」における還元)から得られる「因果律」の語には「必然的に~という現象が与えられる」という意義が欠落しているだろうし、「客観性」の語には「必然的に~という存在が与えられる」という意義が欠落している。何故ならば「ある把握」に基づいた「ある理解」はその与えられ方にいくつかの異なる様相があり得るわけで、そのうち一つだけが前提として選ばれるというのだから、それを選ばねばならないという必然性は全く無いからだ。
ここで「必然的に~が与えられる」という共通した表現で考えられているのは、どちらの語も結局はそこで説明される現象/存在が「普遍的」であるという意義が(全く不明瞭にではあるが)含まれる、という事態である。
つまり「因果律」「客観性」の語で実際に言いたいのは「そこで説明されているところのものがそれ自体として説明される限りでの現象論的な還元を被った事態」なのであって、決して先の結論から得られた現象的な意義を持つ「因果律」「客観性」なのではない、という深刻な問題が立ち現れてくる。
この問題がさらに明確になるように言い換えれば、「因果律」「客観性」という語によって説明されようとしているのは「現象的な事態」ではなく「現象論的な事態」なのだが、しかし2つの語の日常的な用例からは「現象的な事態」しか得られないということであり、この問題の現象論的な還元にはまだ課題が残っているのである。
では「因果律」と「客観性」の現象論的な還元はどのように遂行されるのだろうか?
以下の考察は表面的には「現象論的な事態」ではなく「現象的な事態」についての考察のように見えるが、ここで主題となっているのは「ある現象的な事態が与えられている限りでの現象論的な事態」あるいは「ある現象論的な事態に基づく限りでの現象的な事態」である点に注意。これが先の「理解された限りにおける存在全体性(存在全体ではない)」についての現象と存在という説明の意味である。
あくまでも一般には一つの現象論的な事態(=把握)に基づけられる現象的な事態(=理解)は、通時的にも共時的にも異なる複数のものが与えられ得るのだから、そのような一般的な事態を考える限り「現象論的な事態」と「現象的な事態」とは日常的な言明においても何らかの方法で区別され得る。
だから誤解を恐れずに言えば、以下で考察しているのは日常的な事態の「現象論的な与えられ方」と「現象的な与えられ方」が差し当たり区別されていないような「個別の事態についての普遍性」としての「因果律」や「客観性」なのであって、どちらか片方だけを切り離して考察しているわけではない。
「因果律」についてはこれまで見てきた通りだが、注意せねばならないのは「現象的な意味での境界付けが与えられている限りでの作用の性質」として説明されているということであって、「因果律に従う物体(あるいは出来事)」というときは「その言明としての作用」とともに必然的に「(ある物体や出来事が因果律に従うという事態が)説明するところのもの」「(同上の事態が)説明されるところのもの」も所与のものである、ということである。そしてこれらが所与のものである事実に基づけば、その作用によって理解されている存在全体もまた同じように与えられていることになる。
「因果律に従うある個別の物体(あるいは出来事)の現象論的な還元」というときは常にこの存在全体が「何かしらの理解によって」与えられていると考えねばならないのであって、先の問題の範疇にはこの理解を基礎づけているところの「把握」もまた含まれているのである。
以上の考察から「因果律」と対置される語としての「客観性」の現象論的な還元も同じように与えられると考えられ得る。ただ最初に示したとおり「客観性」は「存在者の存在そのもの」の性質として説明されるのだから、これは「存在全体的=存在的な存在者の存在様相」に還元されることになる。
結局のところ、ここで最も重要なのは如何にして「因果律」と「客観性」の日常的な文脈における混同が説明され得るかという問題そのものの明確な表現が明らかとなったことだ。
「因果律」は「現象論的=現象的な事態」についての図式であり、「客観性」は「存在全体的=存在的な存在者」についての図式である。
そしてこれら2つの語を実際に混同出来得るのは以下の理由による。
・このような図式が全く与えられていない(このような図式に還元することが困難である)ことで、差し当たり確実に所与のものである「存在全体」を言明において主題とせざるを得ない。
・そして当の存在全体が与えられるところの現象としての言明についても、それによって説明されるところの存在については「同一である」ということを言い得る。
これまでの考察を顧みれば、現象論的/存在論的現象として説明される「因果律と客観性」における「因果律」は実際には(ほとんど当然だが)「因示律」にならざるを得ず、この意味において「因果律」を「因示律」に置き換えても言明の意味内容はそのまま成り立つのである。
何故これがそのまま成り立つと言えるのかと言えば、ここでは「因果律」が「因示律」に置き換わった(還元された)からであり、決してその逆ではないからだ。
この帰結は即ち、日常的な言明において「因果律」と「因示律」が混同され得るのと全く同様に、「現象的現象に還元された限りにおける因果律」と「因示律」もまた混同され得る、ということを意味する。この混同は明らかに前項で考察したアナロジーに基づくものとは異なるが、「頽落」を説明し得る点でここにも「二重性」が現れることになり、またもや前項の2つの結論が得られることになる。
その重大な意義は第二部で徹底的に考察されるだろうから、とりあえずこの事実を指摘するに留めておく。
・「自然的/歴史的/理念的(な存在/存在者)」について
これらの語は『タルパ創造現象の区別についての諸考察』§3で用いられている。既にこの記事で説明されている通り、これらはあくまでも現象論的な語であり、特に「自然的」には「日常的」「平均的」といった意義は含まれていない。
それでは、これらの語にはどのような差異があるのだろうか?
この語は現象論的な語に当たるから後の章節で説明すべきだろうが、重要な語彙であるように思われるのでここで説明しておく。
・「自然的(存在者)」について
「自然的」は先の記事で説明されている通りであり、当の存在者について、その存在全体性についての把握そのものだけが主題化されている場合のことである。このことから、当の存在者が何ら「現象論的な説明としての変容」を受けていない事態が考えられているとも言える。
この「変容」をもたらすところの現象とは、言うまでも無く「再把握」としての把握のことである。
これは当のタルパが創造された当時の把握、より簡単に言うならばそれを基礎づけるところの諸々の設定や背景が、今でも当時と全く同じ現象論的意義を持っているような事態を指している。
これが「現象論的」と言えるのは、たとえそれが日常性のために極度に混乱して(頽落を被ったうえで)考えられていても、当のタルパの実在の観念に対応している(正確に言えば対応させられている)限り、あくまでも把握の現象論的な意義はほとんど主題化され得ないにせよ言明され得るからだ。
つまり、「自然的」にはそれ自体に「日常的」という意義が含まれているとは限らないのだが、それとは別に当の自然的存在者に対する把握が「差し当たり日常的な事態について為されている」ということは出来る。
何故ならば、「再把握」が生じないということは「受動的態度」によって当のタルパについての諸々の言明が為されていると言えるからだ。
そしてこの場合には当の把握について「それを継起させたところの作用」が全く混乱しているのだから、必然的に当のタルパについての創造現象としての現象から「現象論的に」全く別の現象が生じることはないからである。
より正確に言えば、当の混乱した作用からは当のタルパについての現象論的な意義を取り出すことが出来ず、そのために当の作用の「現象論的な還元」はもはや行われ得ないか、あるいは少なくとも現象論的現象として主題化され得ない、ということだ。
編集注:
「再把握が生じないような把握に基づいた理解」という現象と「受動的態度による理解」という現象は厳密に同一の現象だと言えるわけだが、どちらも頽落的な変容を被ったうえで考えられている点に注意。
実際「再把握が生じないような把握」は本来的にはあり得ないし、「受動的態度による理解」もまた本来的にはあり得ない。
即ち「自然的存在者」は、その存在全体性の把握や存在全体の理解は確かに「現象論的な現象」として受け取られているが、その把握から継起するところの作用やそれに基づく把握については、差し当たり日常的な事態だけが主題となっているのである。
ちなみに、「自然的存在者」のこのような語義はまさしく従来のタルパそのものの分類にまつわる事態をかなり正確に言い当てているはずだ。何故なら従来のタルパの分類は実質的に「タルパ創造現象」の分類と化しているからであり、当のタルパについて創造以後に生じる(生じ得る)はずの把握の変容については全く無視されているからである。
先の記事で「自然的存在者」を主題とした分類が旧来の分類を上手く説明できているのは、このような事情によるのだろう。
・「歴史的(存在者)」について
同じ記事で「歴史的存在者」の語も用いられており、そこでは当のタルパが「継起の積み重なりによる個別化」を被った結果が歴史的存在者としてのタルパだと説明していた。無論、ここでの「継起」とは当のタルパについての「再把握」のことである。
自然的存在者では「再把握」が考慮されていなかったのだから、明らかに「歴史的(存在者)」の語義には「自然的(存在者)」も含まれていると言えるのだが、次のことに注意しなければならない。「自然的存在者」が常に「歴史的存在者」として説明され得るから「含まれている」と言われるわけではない、ということだ。
そもそも「把握」の現象が常にあらゆる理解に伴っているのだから、当のタルパについての「再把握」の現象もまた、現象論的には常に伴っているのである。
この「伴っている」という現象論的な事態を如何にして説明するかという点にこそ、この2つの語義の違いを見て取れる。
「自然的(存在者)」の語では、当のタルパの理解に伴う「把握」を全く考慮していないのであった。つまり当のタルパについての理解は常に「それが最初に立ち現れたところの把握」の現象に還元されざるを得ない。もはや当初の把握がタルパの存在全体/存在様相をほとんど説明し得なくなっているとしても、この前提は強固に保持されている。
「保持されている」とは言っても、現象論的にこれを主題とするしかないというわけではなく、あくまでも当の把握(あるいは現在の把握)が現象論的に混乱しているためにそこから新たな存在全体性を把握できないといった事態が考えられている。
ただしこの図式には一つの大きな疑問点がある。
「~をほとんど説明し得なくなっている」という事態が現実の事態であるにもかかわらず、それが(少なくとも日常的には)タルパについての説明として為されることは依然として可能である(ように見える)ということだ。
少し考えると、この問題は「如何にして間違った言明の言明可能性が与えられているのか?」という問題に還元されると分かる。この問題は§3「現象図式における因果律」で現れた「素朴な意味での因果関係があるという言い方が出来る一方で、因果関係がないと言うことも出来る」という類の「言明の言明可能性」と関連しているはずだ。(今のところ確信は無いが...)
因果関係についてのこの2つの言明は、純粋に論理的に考えれば矛盾している。しかしながら、それらの言明はどちらも「どちらか一方が間違った言明である」という変容を被ったうえで与えられているのは間違いない。どちらか一方だけが実際に言明されている場合でも、そこでは暗にもう一方の言明もまた「成り立ち得る(言明可能である)」ことが前提となっているはずだ。
だとしたら、この変容を被る前の言明の言明可能性は如何にして与えられているのか、というのが最初の図式では全く説明できていない大きな疑問なのである。
この疑問をすぐさま解決するのは難しい。
何せこの問題は論理学の領域に完全に踏み込んでいるから、早々に解決できると期待しない方が良いだろう。
だがこの問題は明らかに回避不可能なのであって、そのうち真正面から向き合うべき時が来るはずだ。
そしてこの前提からして、自然的存在者としてのタルパにとっての「タルパ消滅現象」の意義もまた再確認される。
「タルパ消滅現象」は「再把握」によって境界付けられる現象だったのだから、自然的存在者としてのタルパがそれとして把握される「と考えられる/説明される」限りにおいて、タルパ消滅現象とは全く無縁なはずなのである。
だから実際に「タルパ消滅現象」が生じた場合に伴う「タルパという実在の観念の消滅」という現象はあくまでも結果の一つに過ぎないのであって、真に重要なのは当のタルパがもはや「当の自然的存在者」としては説明され得ない事態となっている、ということなのだ。
それでは、このような事態において当のタルパの維持を試みるという意味で「歴史的存在者」として再び当のタルパ(その実在という観念)の説明を試みることは可能か?
答えは否である。自然的存在者としてのタルパが消滅した時点で、その理解が「当のタルパの把握から与えられるところの理解」としての還元を被ること自体、現象論的にあり得ないからだ。
その可能性がわずかにでもあると言えるのは、元からそれなりに当のタルパについての「再把握」が主題化されて説明されることが可能だった場合か、あるいは当のタルパについての全く新しい把握の仕方(つまり現象図式における作用としての説明の仕方)が与えられるだけの猶予がまだ残されている場合だけだと言えるのである。
だが前者の場合では厳密に「自然的存在者」ではあり得ず、後者の場合は「当のタルパの実在の観念」が消滅の前後で現象論的に同一であるという説明を完全に行い得ないという意味で、やはり「自然的存在者としてのタルパ」にとってのタルパ消滅現象は逃れようがない現象なのである。
ここで「逃れようがない」と言われているからといって、自然的存在者としてのタルパにとって「消滅可能性」が常に含まれているのだと考えるのは完全に間違っている。
むしろ当のタルパの「消滅現象」についての言明可能性が現象論的に全く与えられ得ないことから、その現象を予測することも否定することも「現象論的に」不可能である、という事態を指して「逃れようがない」と言われているのだ。
こういう言い方をすると、まるで「歴史的存在者」の方が常に「自然的存在者」として説明され得るかのように思えるが、実際その通りなのだ。
ただその「自然的存在者としての説明」は現象論的な(現象図式における作用としての)説明なのではなく、頽落的な説明であるに過ぎない。そしてこの種の説明が「頽落的な説明」に還元される限りにおいて、あくまでも「歴史的存在者としての把握」による変化を被った「自然的存在者としての把握」だと言わねばならない。
そして、まさにその「~としての把握による変化を被った把握」という現象が現象論的に与えられ得るという点で、依然として「歴史的存在者」は「自然的存在者」から峻別されているのである。
一つ注意を向けておくが、「~としての把握による変化」という言い方は「~の存在様相の変化」には言い換えられない。つまり、当のタルパが自然的存在者として把握されていると考えられていても、その存在様相自体は種々の変化を被る余地がある。
例えば、タルパの様態・種族・見た目などについての設定にそのような変化が含まれる場合でも、それが自然的存在者として把握され得ることとは全く関係が無い。
当然ながらこれは逆の言い方も出来る。表面的には存在様相についての変化を一切含意しないようなタルパであっても、それが歴史的存在者として把握されることはふつうに考えられ得る。
・「理念的(存在者)」について
「理念的存在全体」としてのタルパは、再把握によって消滅あるいは分裂するような可能性も含まれていると考えられていた。誤解を恐れずに言い換えれば、「タルパ」という存在の観念一般について、「ある単一の実在として言明され得る」という当然の図式を否定してもなお与えられるタルパの実在の観念のことを指している。
多少曖昧な言い方にはなるが、当のタルパが「全く異なる存在全体性」として把握されるようになる事態は「歴史的存在全体」では考慮されていないが、「理念的存在全体」では考慮されている。
しかし、そもそも「存在全体」が与えられるのは理解の現象である以上、「全く異なる存在全体性」としての「単一のタルパ」は現象論的には言明し得ない。
だからここで「存在全体」に対して否定されているのは、「実在として」の方ではなく「単一の」という現象的な規定の方なのだと考えねばならない。
では「複数のタルパの集団についての単一の理解」は「理念的存在全体」に還元されると言えるだろうか?実際には違っていて、それはあくまでも理念的存在全体性の一部分にすぎない。
『タルパ現象論による「タルパの全体性」の解明(第三部)』の§8で「タルパの過去/未来」として与えられる存在全体を「理念的」と呼んだように、共時的な存在全体だけではなく通時的な存在全体もこれに還元され得る。
注意せねばならないのは、この語は「自然的/歴史的」では説明され得ないような存在全体性を指しているが、厳密に現象図式に基づいて境界付けられているわけではないということだ。
何故かと言えば、「自然的/歴史的存在全体」の方は然るべき把握が(主題化の有無を問わず)所与のものであるが、「理念的存在全体」の方はどちらかと言えば「タルパについての言明を為す現象一般が現象図式に還元される限りにおける当の現象」に関連付けられているに過ぎないからだ。
従って、「自然的/歴史的存在全体」でないものが全て「理念的存在全体」であるわけではないし、当然ながらこれら3つの語で「存在全体」の与えられ方を網羅しているわけでもない。
このような例として、再把握ではない現象によって「あるタルパの存在全体性」が把握され得なくなった事態における「当のタルパの存在全体」を考えてみよう。ただし厳密に言えば、当のタルパについて「存在全体性」が把握され得なくなった事態における「当のタルパの存在全体」というのは言明し得ない。
ここでは創造されたばかりのタルパについて、その「存在全体」は理解されているが「当のタルパとしての存在全体性」の把握を伴っていないために、実際に把握されているところの存在全体性が被る日常的な変容によって、ある時点から「当のタルパとしての存在全体」が理解され得なくなるという事態が考えられている。
そしてこのような事態となる実例として考え得るパターンは2つある。
一つは、いわゆる未オートのタルパであって、最初から「当のタルパとしての存在全体性」が把握されていない場合。
もう一つ、「当のタルパとしての存在全体」が既にそれなりの仕方で主題化されてはいるが、当のタルパの存在全体についての現象論的な還元が試みられていない場合もあるだろう。
後者がその例に当たることはあまり明確でないかもしれないが、これが「現象的な」ではなく「現象論的な」還元と言われていることに注目したい。つまり現象的な存在全体としての「当のタルパという観念」は確かに与えられているが、そもそもそれが与えられるところの存在全体性は(おそらく混乱しているか頽落的な把握のために)明確ではないような場合を指している。
ただこのように言い換えると、前者の事態と現象論的には違いは無いと思えるかもしれない。実際、そう言っても良いはずだ。当のタルパが「未オートである」という事態と「存在全体がそれなりに主題化されている」という事態の間にそこまで根本的な線引きを設ける必要はないだろう。
たとえ後者の事態がいわゆる半オートまでをも含んでいるとしても、である。
やや話が逸れかけたが、以上の考察から次のことが言える。
「自然的存在全体」「歴史的存在全体」の違いはオート化の状態の違いとは全く関係が無いが、「理念的存在全体」は必然的にオート化した状態が考えられている。
いや、実のところは「理念的存在全体」として理解されるか否かが「オート化した状態」であるか否かを決定していると言うべきだ。「オート化」の語義に対してどれほどの現象論的還元を試みても、それは存在様相にしか還元し得ないが、当の存在様相が「あるタルパの存在様相」として与えられること自体は「理解」の現象に還元されるのだから。
第一部後記
直前の記事からおよそ2年、タルパ現象論に関わる直前の研究記事『タルパの時間性についての素朴な問いの開拓』からなんと5年半ほど経っているらしい。
あまりにも長い間沈黙していたが、そろそろこれまでの精力的なタルパ研究を再開したいと思う。
...決して中の人が30歳を迎えて、あまりの進捗の無さに焦っているわけではない。いやマジで30歳ってなんなんだ。
さて、この記事では言ってしまえば新たな進捗は無い。見てのとおり、既存のタルパ現象論の研究領域に関する徹底的な整理整頓が主題である。
第一部ではタルパ現象論以前から使用されていた「副体」「実体」の解明から始まり、以降に用い始めた存在者的・存在的・現象的・現象論的な語彙を順に説明した。
これらの説明の一部には課題が残っているものの、多くは第二部での考察で解決されるだろう。
ついでに、これまで散発的に公開されてきた研究メモについて簡単に触れておく。
・『タルパ現象論における図式の意義について-1』
・『タルパ現象論における図式の意義について-2』
「問いの方法論」についての考察。あるいは「問いとしての言明の言明可能性」についての考察と言ってもいい。ここでは「日常的な言明としての言明一般」の図式化を試みているのだが、これがどのように行われるかは本文中で十分に示せただろう。
ただしこの図式における「日常的な言明の言明可能性」そのものはどのように与えられてくるのか定かではない。
この問題は「歴史的(存在者)について」の項で触れた「如何にして間違った言明の言明可能性が与えられているのか?」という問題に(間違った言明が日常的な言明の一部であるのは明らかだろうから)関係しているわけだが、これは第二部での考察によって自然に解決するはずだ。
「間違った言明が日常的な言明の一部であるのは明らか」...これは本当にそう言えるだろうか?
・『タルパの分類についての研究メモ』
・『タルパの分類についての研究メモ-2』
タルパの分類に関するやや古臭い考察。
とにもかくにも、ここで重要なのは「実質的にタルパの創造の分類」になってしまっているという事実の指摘だ。こればかりは何度強調しても足りないだろう。
ただ例えば「版権タルパ」などについては「タルパ創造現象の与えられ方」と「当のタルパの存在の与えられ方」には日常的な理解のもとでであっても何らかの繋がりがあり得るようにも思える。
だがそうは言っても「前者から後者が継起すること」あるいは逆に「後者から前者が継起すること」の関係は自明でない以上、このような「繋がりがあり得る」のはある特定の事態にしか適用できない図式であることに注意。
・『進行中のタルパ研究について(2023年12月時点)』
今回の記事を含めたいくつかのタルパ研究のトピックを挙げておいた。
『タルパ現象論概略』はこの記事とともにタルパ現象論の基礎理論の説明を試みようとしている。
遅くとも2022年の時点から研究を進めていたが、当初思っていたよりも基礎的な語彙ですら混乱が含まれていたため、今回の研究が優先されることになった。
おそらくこの記事の第二部の公開後に改めて取り組まれるだろう。
『有界グラフ考察』は「タルパ現象論のこれまでの成果に基づく現象的な構造・表現についての考察」とされていた。
重要なのは「現象的な構造・表現」という説明であって、この記事で度々現れた「(非本来的な/日常的な現象の)還元」や「(現象論的な)図式」からは一歩引いた、あるいは考えようによっては一歩踏み込んだ研究領域だということだ。
この研究が実を結ぶかどうかは現時点では分からない。おそらくこの記事の「歴史的(存在者)について」の最後に「論理学の領域に完全に踏み込んでいる」と言っていた問題にも密接に関わっていると思っているが、その前に解決すべき問題が多すぎる。
『タルパの時間性についての素朴な問いの開拓』はその研究で扱う問いのリストだけを先に挙げておいた。
『タルパ現象論概略』より前に進められていたこともあって、既に考察されている問いも含めてやり直す必要があるかもしれない。というかその問いを解決するために着手されたのが『タルパ現象論概略』なのだった。
『改訂タルパ治療学』は先の3つと比べれば優先度が低すぎて放置されている。どうにか実現したいところだが、そもそもどんな問題を扱うべきかすら未定。
以上。最後に第二部の章立ての予定だけを示しておく。後で大幅に変更されるかもしれないが。
『前期タルパ現象論特有の用語について(第二部)』
§3.1 「自由」および「喚起」
§3.2 「作用」
§4 以上の語のすべてに渡る体系的な整理の試み
§4.1 「現象系列」および「存在系列」についての試論
§4.2 「二重性の頽落」についての試論
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