明確になった問題は共有される。共有された問題は議論される。議論された問題は無害化される。
さっきのyahoo知恵袋での回答で思った。タルパの客観性について触れて考察してる人って結構少ないなぁと
確かに哲学的で難しいお題だし避けたい気持ちは分からんでもないが、まずそこをはっきりさせないと考察もクソもないだろと
...実は「主観」「客観」って言葉は明確に定義されているようでいて、全くの曖昧な言葉だったりする
だからこそ実態がないにもかかわらずにそれを有るかのごとく認識していて、そして意図的に(そうでなかったとしたら、なおさら)無視している現状はとてつもない大問題なわけだ
考察はどれだけ深いか、言い換えればどれだけ問題を抽象化して考えているかが、有用かどうかを判断するポイントになる
果たして、合格点をあげられる考察はどれくらいになるだろうか
といっても主観・客観の対立構造を超えて考察するのは本当に難しいことなんだけどね。ある意味これを無視する流れになるのはしょうがない。でもその無視された部分に一番大事なことがあるってのは知っておいてほしい
確かに哲学的で難しいお題だし避けたい気持ちは分からんでもないが、まずそこをはっきりさせないと考察もクソもないだろと
...実は「主観」「客観」って言葉は明確に定義されているようでいて、全くの曖昧な言葉だったりする
だからこそ実態がないにもかかわらずにそれを有るかのごとく認識していて、そして意図的に(そうでなかったとしたら、なおさら)無視している現状はとてつもない大問題なわけだ
考察はどれだけ深いか、言い換えればどれだけ問題を抽象化して考えているかが、有用かどうかを判断するポイントになる
果たして、合格点をあげられる考察はどれくらいになるだろうか
といっても主観・客観の対立構造を超えて考察するのは本当に難しいことなんだけどね。ある意味これを無視する流れになるのはしょうがない。でもその無視された部分に一番大事なことがあるってのは知っておいてほしい